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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

弥生文化と続縄文文化 稲作農耕を生産基盤とする本州の弥生文化に併行する時期に、北海道地方に展開した縄文文化以来,の食料採集に生産基盤をおく文化には「続縄文文化」という名称が与えられた。,近年、青森県・秋田県・岩手県そして宮城県にも続縄文文化の遺跡が多く知られるようになり、さらに、福島県・,この続縄文文化の南下に関しては、気候の寒冷化と結びつけて説明されることが多い。,続縄文文化は決して南へ退いていったわけではない。 / 弥生文化と続縄文文化
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

古墳文化と続縄文文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系土器と江別C2・D式土器の,青森県内では、この時期の遺物は大半が採集資料であったが、先に触れた天間林村森ヶ沢遺跡では続縄文文化の特徴,つまり、墓坑形態は続縄文文化の色彩が強いが、副葬品は相対的に古墳文化の影響が色濃く認められ、この地における,古墳文化と続縄文文化の間に交流関係があったことを示している。  ,続縄文文化の前半期には、多くの墳墓のほか、道東部では舌状の張り出し部をもつ隅丸方形ないし小判形の竪穴住居 / 古墳文化と続縄文文化の交流
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

・山形県を中心とする東北地方南部の古墳文化であり、もう一つは青森県・秋田県・岩手県などの北部地域の続縄文文化,一方、この時期、東北地方北部地域から北海道にかけては、続縄文文化が展開している。,「続縄文文化」の名称は山内清男によるもので、その主要な生産基盤を縄文時代と同様、漁労・狩猟・採集に置き,、縄文文化の伝統を保持したとした。,この続縄文文化は、稲作農耕を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

この時期の北海道系遺物としては、続縄文文化の北大Ⅰ式土器と黒曜石製石器であり、古墳文化の遺物としては土師器,しかし、墓地の形態は続縄文文化の色彩が強い。  ,墓地の造り方と埋葬の様相は、北海道続縄文文化のものと類似する。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

三世紀末から四世紀前半代には、弥生時代の指標であった稲作農耕を欠き、食料採集に生活基盤をもつ北海道系の続縄文文化,の遺物が多くみられるようになり、古墳文化の影響を考えるよりも、むしろ続縄文文化の圏内そのものといってよいような,五所川原市隠川(かくれがわ)(11)遺跡では、続縄文文化の江別C2・D式土器と東北地方南部の土師器(はじき
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物)

また、天間林村森ケ沢遺跡では、続縄文文化系の墓壙に、古墳文化系の遺物を主体としながらも、続縄文文化系の
通史編1(自然・原始) (弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)

、南から伝播して来た新しい弥生文化が徐々に浸透し、やがてその文化の有する稲作農耕の技術を学び、次第に縄文文化,新しく始まった弥生文化は、さきの縄文文化にはみられなかった金属器と、保存食料として優れているコメを伝来
通史編1(古代・中世) (古墳文化及ばぬ北の世界)

古墳時代にほぼ併行する時代になると、北の続縄文文化の世界では、後北(こうほく)式に代わって北大(ほくだい,終戦直後に五世紀後半のものと思われる須恵器(すえき)が出土していたが、近年の発掘調査によって、北海道の続縄文文化,琥珀(こはく)の玉類もまとまって出土しているが、これも続縄文文化における玉の伝統を受け継ぐものといわれている,秋田県能代市の寒川(さむかわ)Ⅱ遺跡では、さらに古い後北式C2土器を伴う土壙墓が発見されており、続縄文文化
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

古墳時代前・中期併行期の青森県では、続縄文文化をもった北海道系の人々が南下して居住したと考えられているが,、質的には続縄文文化でも古墳文化でもない、両者の要素を合わせ持った独自の混交文化を形成していたといえるであろう,津軽地方では、続縄文文化末葉の北大式土器の存在が希薄になるが、北大Ⅰ式土器が太平洋側の農耕文化圏である
通史編1(自然・原始) (長者久保遺跡)

石槍・彫刻器・打製石斧など約五〇点であるが、なかでも刃の部分を研磨して製作された局部磨製石斧の技法は縄文文化
資料編1(考古編) ((3)6世紀代)

(3)6世紀代 この時期の遺跡は極めて少なく、古墳文化の土師器を出土する七戸町大沢遺跡や、続縄文文化
通史編1(古代・中世) (青森県の古墳文化)

注目すべき例として、県東側の天間林村森ヶ沢遺跡の土坑墓(どこうぼ)群からは、続縄文文化後半期の北大(ほくだい,つまり、続縄文文化の伝統をもった墓坑に、古墳文化の影響を受けた遺物を主体とし、北方からの遺物も副葬されていたわけである
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

北海道では、この比羅夫「北征」の時代に続縄文文化から擦文(さつもん)文化への転換期を迎える。,もともと縄文文化でも続縄文文化でも、道央部と道南部とでは地域差があった。
通史編1(自然・原始) (大平山元遺跡)

ゆうべつ)技法の先駆的な技法がみられることなど、旧石器的な石器製作と土器の共伴により、旧石器文化から縄文文化
資料編1(考古編) (1.中野遺跡)

なお、片口土器は、北海道続縄文文化とのかかわりが深いもので、7世紀から8世紀前葉期まで残る特徴的な器種
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

土壙墓1基と甕棺1基、同時代中期後半(4a期)の田舎館式土器期に属する土壙墓3基と甕棺1基、北海道の続縄文文化期前半
資料編1(考古編) ((1)縄文時代草創期)

発見されており、同県が北限と考えられていたが、近年の調査の進展により各県でも出土し、旧石器文化を母胎に縄文文化
通史編1(古代・中世) (擦文文化の特徴)

石狩低地帯を中心とする地域における続縄文・土師器混交文化の担い手たちによって母体が形成された擦文文化は、続縄文文化
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

西日本から稲作農耕を伴って到来した弥生文化は、縄文文化の強い東北北部の地に入ると、さまざまな変革をもたらしたであろう
資料編1(考古編) ((1)7世紀~8世紀)

このことは、この地域の土師器文化が続縄文文化を基盤として成立したことを意味するものと言えよう。  
通史編1(古代・中世) (粛慎とは何者か)

粛慎は早くに北海道に渡ってきたらしく、道北では六世紀ころに画期が求められている、北海道在来の続縄文文化
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

18 江坂輝彌 「青森県三戸郡館平遺跡」(日本考古学年報7) 1958年3月 *19 江坂輝彌 「縄文文化,*63 坪井清足 『縄文文化論』(岩波講座日本歴史1) 1962年4月 *64 橘善光・奈良正義 『, 岡田康博 「青森県における弥生式土器の編年研究の現状と課題 東北地方の弥生式土器の編年について」(縄文文化検討会,号遺跡発掘調査報告書』(平賀町教育委員会) 1972年3月 *238 小片・森本・江坂 「青森県表館発見の縄文文化後期初頭
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

*18 江坂輝弥 「青森県下北郡稲崎遺跡」(日本考古学年報3) 1955年 *19  〃  「縄文文化,青森県八戸市大字沢里鹿島沢古墳群踏査予報」(史想9) 1958年 *35 江坂輝弥 「奥羽地方北部の縄文文化,1969年 *80 桑原滋郎 「ロクロ土師器坏について」(歴史39) 1969年 *81 大高興 『縄文文化遺物集成,平安時代のなべ」(紀要Ⅵ) 1990年 *305 三浦圭介 「青森県の古墳時代併行期の諸問題」(第5回縄文文化検討会,シンポジウム「北日本続縄文文化の実像」) 1994年 *306  〃  「古代東北地方北部の生業にみる
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

中野平遺跡・向山(4)遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書一三四) 一九九一年 (13)江坂輝彌 「縄文文化
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

連名で、下北の脇野沢村瀬野(せの)遺跡について報告し(71)、同年十一月には中島全二が「下北における縄文文化
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

……………  2    一  古墳文化北進の限界 ……………………………………  2    二  続縄文文化
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