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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
(5)
縄文時代
後期 先の中期後半期に東北地方南部から北上し、円筒土器文化を包括した大木系土器文化も、,その後、関東地方から北上して来た
縄文時代
後期の称名寺式や、それに続く堀之内式・加曽利各式土器文化の席巻,本県の
縄文時代
後期は特色ある葬法を伴い、特に十腰内第Ⅰ式期にそれが多い。,
縄文時代
の葬法については後述する。,図9
縄文時代
後期の土器(1) 十腰内第Ⅰ式土器… 弘前市・十面沢遺跡(弘前大学蔵) 十腰内第 / (5)
縄文時代
後期
資料編1(考古編)
((2)縄文時代早期)
(2)
縄文時代
早期 青森県のみならず、東北地方北部の
縄文時代
早期の土器は、昭和26年(1951)の八戸市鮫町,図3
縄文時代
早期の土器(1) 白浜式尖底深鉢形土器… 八戸市・館平遺跡(江坂輝彌氏提供),
縄文時代
早期については、その後、県立郷土館による東通村下田代納屋B遺跡*22、県教育委員会文化課並びに,表2 青森県出土土器編年表 時代 型式名
縄文時代
草創期 (無文土器) (隆線文系土器) (爪形文系土器,円筒上層c 円筒上層d 円筒上層e 榎林 最花,中の平Ⅲ 大木10 時代 型式名
縄文時代
/ (2)
縄文時代
早期
資料編1(考古編)
(6.縄文時代の工芸)
6.
縄文時代
の工芸
縄文時代
の工芸として考えられるものには、石や粘土等を加工して作り上げた石製品・土製品 / 6.
縄文時代
の工芸
資料編1(考古編)
((3)縄文時代前期)
(3)
縄文時代
前期
縄文時代
前期を代表する土器に対しては、昭和2年(1927)に長谷部言人(はせべことんど,4年(1929)に山内清男が、下層式を4分類し、以後長期にわたってこれらの分類に基く円筒下層式土器が
縄文時代
前期,に発掘が行われた三沢市早稲田貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1類~6類)し、1類~5類を
縄文時代
早期,なお、
縄文時代
前期中葉の海進絶頂期以前は海進期に当たり、前時期の早期中葉からしだいにそれが現れ、逆に前期中葉以後,図5
縄文時代
前期の土器(円筒土器、大木系土器) 円筒下層a式土器 円筒下層b式土器 / (3)
縄文時代
前期
資料編1(考古編)
((4)縄文時代中期)
(4)
縄文時代
中期 前期に続く中期は、前半が円筒上層式土器(正確には円筒土器上層式土器)の盛行した時代,
縄文時代
の前期と中期に栄えた円筒土器は、その下層式土器の段階において、北は津軽海峡を越えて北海道の石狩川河口,図6
縄文時代
中期の土器(円筒土器) 石神遺跡(1) 円筒上層a式土器 円筒上層a式土器,円筒上層b式土器 円筒上層b式土器 (1点を除き森田村歴史民俗資料館蔵) 図7
縄文時代
中期,円筒上層e式土器 円筒上層e式土器 (森田村歴史民俗資料館蔵) 図8
縄文時代
中期 / (4)
縄文時代
中期
資料編1(考古編)
(3.縄文時代の集落)
3.
縄文時代
の集落 近年の緊急発掘調査は広大な面積を調査対象とし、それに伴って数々の新しい発見がもたらされている,それらの遺構は土壙群を中心として、同心円状に整然と配置されている状況がとらえられ、少なくとも
縄文時代
中期,本県でも
縄文時代
中期における六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡の例を見ると、柱穴群(掘立柱建物跡群)の外側を多数,同様の規則性を持つ集落は、
縄文時代
後期にも見られる。,
縄文時代
の集落の中に、しばしば形状の大きな住居跡が発見される。 / 3.
縄文時代
の集落
資料編1(考古編)
(5.縄文時代の食生活)
5.
縄文時代
の食生活
縄文時代
人の食生活については、遺跡から発見される食料の残り滓によりある程度知ることができる / 5.
縄文時代
の食生活
通史編1(自然・原始)
(第三節 縄文時代)
第三節
縄文時代
地質学でいう更新世を経て完新世に入ると気温は次第に上昇し、ヨーロッパなどでは洞窟を / 第三節
縄文時代
資料編1(考古編)
(2.縄文時代の住居跡)
2.
縄文時代
の住居跡
縄文時代
の住居跡については、草創期のものは未発見である。,
縄文時代
早期の住居跡は上記のようであり、まとめるとすべて竪穴住居で、柱穴は壁際に作られる例が日計式土器期,青森市の三内沢部遺跡においても*187、ほぼ似たような傾向を示すことから、
縄文時代
中期の住居跡プランは,
縄文時代
の最後である晩期は、前時期の後期に比べて遺跡数も少なく、したがって住居跡も同様に発見例は少ない,青森県の
縄文時代
に関する住居跡をプランを中心に追うと、以上のような変遷がとらえられる。 / 2.
縄文時代
の住居跡
資料編1(考古編)
((6)縄文時代晩期)
(6)
縄文時代
晩期 後期を引き継いだ晩期は、亀ヶ岡式土器の盛行した時代である。,図11
縄文時代
晩期の土器(1) 十腰内第Ⅵ式土器(大洞B式)… 木造町・亀ヶ岡遺跡(個人蔵),大洞BC式浅鉢形土器底面… 尾上町・八幡崎遺跡(尾上町教育委員会蔵) 図12
縄文時代
晩期,大洞C1式壺形土器… 弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (東北大学蔵) 図13
縄文時代
晩期 / (6)
縄文時代
晩期
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の土壙墓)
(1)
縄文時代
の土壙墓 この墳墓は、地表を楕円形・長楕円形(小判形など)・長方形に深さ50cm~1m,ほど掘り下げて、遺体を安置後覆土したものであり、
縄文時代
のみならず、その後も普遍的な葬法であった。 / (1)
縄文時代
の土壙墓
資料編1(考古編)
((1)縄文時代草創期)
(1)
縄文時代
草創期 本県では、昭和46年(1971)秋、先端を磨いて鋭利な刃部を構成している1個の,図2
縄文時代
草創期の土器 隆起線文土器… 六ヶ所村・表館(1)遺跡 (県埋蔵文化財調査センター / (1)
縄文時代
草創期
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の甕棺墓)
(1)
縄文時代
の甕棺墓 大型の土器の中から人骨が入った状態で発見される遺構を、単に甕棺墓または改(再,本県では、当該遺跡に対する調査は古く、
縄文時代
における墳墓の調査研究は、この甕棺墓によって始まったと言,この骨は、
縄文時代
後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期における甕棺葬法を知る重要な資料となった。 / (1)
縄文時代
の甕棺墓
通史編1(自然・原始)
([口絵])
) 岩木山麓緊急発掘調査で発掘された土製装飾品 (岩木町薬師Ⅱ号遺跡,
縄文時代
晩期),正面 背面 岩木山麓緊急発掘調査で発掘された土偶(岩木町・薬師Ⅱ号遺跡,
縄文時代
晩期),尾上山(3)遺跡6号土坑遺物出土状況 (
縄文時代
前期、青森県埋蔵文化財調査センター提供),十腰内Ⅰ遺跡3号住居跡 (
縄文時代
晩期、青森県埋蔵文化財調査センター提供) 十腰内,Ⅰ遺跡1号竪穴住居跡 (
縄文時代
晩期、青森県埋蔵文化財調査センター提供)
資料編1(考古編)
((2)植物栽培の起源)
(2)植物栽培の起源
縄文時代
は、日本列島における植物栽培起源の問題に関して、従来考えられていた常識,栽培植物であるリョクトウとヒョウタンが
縄文時代
前期に存在したということは、そのような古い時代に栽培を行,植物を栽培するという技術を
縄文時代
前期に会得し、時代を経るにしたがって進展させていた可能性もある。,年)9月に、京都の平安博物館が実施した三戸郡田子町石亀遺跡の第3次調査で採取されたソバ花粉の存在は、
縄文時代
晩期前葉
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)
弥生文化の伝来と稲作農耕の開始 約一万年の長きにわたって続いた
縄文時代
も、今を去る約二三〇〇年前のころになり,わが国の歴史は、
縄文時代
の後に弥生時代を設定している。,ヶ岡(むこうがおか)貝塚において発見された、一個の壺形土器を呼んだ仮の名から起こったのであり、さきの
縄文時代
,さきの
縄文時代
にもコメは伝来し、その終末のころにはすでに栽培を開始していた証拠が北九州で確認されているが
通史編1(自然・原始)
(第二節 旧石器時代)
で十二月三十一日午後八時、現生人類(ホモ・サピエンス)は五〇万年前で十二月三十一日午後十一時となり、
縄文時代
,まりは一万二〇〇〇年前とされるので、十二月三十一日午後十一時五八分過ぎに相当しようか(1)(計算によると
縄文時代
,十二月三十一日午後十一時五十八分三十六秒、青森市の三内丸山遺跡に人々が居住しはじめたのは、午後十一時五十九分二十秒、
縄文時代
資料編1(考古編)
(2.弥生時代の初期稲作について)
における調査で、弥生初期の板付Ⅰ式土器が出土した土層のさらに下層から水田跡が発見され、しかもその水田跡は、
縄文時代
晩期終末,1980)から翌年にかけて調査の行われた佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡において、板付遺跡よりもさらに古い
縄文時代
晩期後半,がしだいにさかのぼるような状況となり、これに対し佐原眞は弥生前期以前に弥生早期を設定し、北九州や近畿地方の
縄文時代
終末,
縄文時代
晩期後半期に北九州で開始された稲作農耕は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも
資料編1(考古編)
(はじめに)
一般に墳墓と聞くと、古墳のような封土(盛土)を持つものを連想するであろうが、
縄文時代
にはそのような大規模,
縄文時代
の葬法には、①土壙墓(どこうぼ)、②石棺墓、③土器棺墓(甕棺墓)などがある。
資料編1(考古編)
((3)多様な技法)
(3)多様な技法
縄文時代
には、多様な編物が作り出され、その緻密な編みを基に編布が生産されて、人々の,このような編みの技法に対し、従来
縄文時代
には考案されていないと思われていた織物の存在を裏付ける資料が、,織布の出現が
縄文時代
晩期中葉にまでさかのぼることの確証と、漆工芸に見られるような高度の技術の存在は、亀,図20
縄文時代
の編物(籃胎漆器ほか) 籃胎漆器… 木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町縄文館蔵
通史編1(自然・原始)
(衣服)
縄文時代
の衣服に詳しい尾関清子によると、衣服の材質は草本(アカソ・カラムシ・アサ)、樹皮(オヒョウ)を,と述べており、
縄文時代
の編みの技法が今日まで伝えられているらしい(46)。 ,
縄文時代
でも後期以後の土偶には、股の部分に線刻で、パンツを現わした形状を示すものもあり、活動しやすいように
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
また江坂輝彌は、六月から十一月にかけ、青森市をはじめ下北半島や上北郡下での遺跡の発掘を行い、おもに
縄文時代
早期,このほか、
縄文時代
に関するおもな調査は、下北の田名部町(現むつ市)にある女館貝塚が江坂輝彌により(82,さきに、江坂輝彌が
縄文時代
早期文化の解明に努力していたが、東京大学の佐藤達夫(さとうたつお)(一九二五,~一九七七)も、二本柳正一(一九二一~一九八九)の協力を得て、小川原湖周辺を中心に
縄文時代
早期文化の研究,一方の平虚空蔵貝塚は、内陸部にある
縄文時代
晩期の淡水性貝塚であり、数種類の骨角器を多数発見した。
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
の土器 図3
縄文時代
早期の土器(1) 図4
縄文時代
早期の土器(2) 図5
縄文時代
前期の土器,(円筒土器,大木系土器) 図6
縄文時代
中期の土器(円筒土器)石神遺跡(1) 図7
縄文時代
中期の,の土器(1) 図10
縄文時代
後期の土器(2) 図11
縄文時代
晩期の土器(1) 図12
縄文時代
晩期,の土器(2) 図13
縄文時代
晩期の土器(3) 図14
縄文時代
の石器・石製品 図15
縄文時代
,の石製品各種 図16
縄文時代
の装身具各種 図17
縄文時代
の土偶(1) 図18
縄文時代
の土偶
資料編1(考古編)
(第3節 弥生時代)
第3節 弥生時代
縄文時代
に続く弥生時代は、稲作農耕を主体とした土地を基盤とする経済社会であり、したがってこの,管玉等に見られる装身具の材質変化、甕棺・支石墓(しせきぼ)・方形周溝墓(しゅうこうぼ)等の出現等、先の
縄文時代
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の内容)
恐らく
縄文時代
から主要な用具であった石器類は次第にその地位を失って、金属器(おもに鉄器)が利器の主流を,生活用具や住居なども、先の縄文晩期と比較して異なりはほとんどみられぬ状況であり、したがって生活そのものは
縄文時代
以来,
縄文時代
の遺跡に比して弥生時代の遺跡は極端に少なく、しかも遺跡の分布は水田耕作の可能な位置に立地するものよりも,、
縄文時代
と同様な丘陵・台地を占地する例が多い。
資料編1(考古編)
(8.砂沢遺跡)
(3)調査の経緯 当遺跡は、
縄文時代
終末から弥生時代初頭にかけての主要遺跡であり、弥生時代前期の砂沢式土器,された低地帯に分けられ、第1・第2次調査は高台地区を中心に行い、多数の小柱穴・溝跡・Tピット(落し穴)・
縄文時代
後期,出土遺物は、竪穴住居跡より出土の
縄文時代
後期後葉の十腰内Ⅳ群(式)と同Ⅴ群(式)土器(図20)をはじめ,なお出土した石器・石製品の内容から見ると縄文的であり、一方で水田経営がなされているにもかかわらず、
縄文時代
以来,鑿状石器 砂沢遺跡は、上記の水田跡を中心とする弥生時代の遺構・遺物のほかに、地区を異にして
縄文時代
前期
資料編1(考古編)
((1)工芸の種類)
(1)工芸の種類
縄文時代
前期の福井県三方町鳥浜貝塚では、大小さまざまな木製品が発見され、それらの品々,このほかに、
縄文時代
前期には大麻を材料とした縄がある。
通史編3(近世2)
(津軽における漆工芸の起点)
津軽における漆工芸の起点
縄文時代
、漆を取り扱う技が青森県にあったことは、大正十五年(一九二六)、八戸市是川中居,
縄文時代
の籃胎漆器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに漆を塗った漆器)を観察してみると,
縄文時代
に続く弥生・古墳時代、さらに古代・中世においても木材、樹皮、繊維、皮革、金属など多種類の素地(
資料編1(考古編)
(4.黄金山遺跡)
発見された遺物はすべて土器であり、Ⅰ号遺跡から
縄文時代
後期初頭の深鉢形土器並びに破片が、Ⅱ号遺跡からは,
縄文時代
前期の円筒下層b式及び同d1式土器破片が出土している。
資料編1(考古編)
(5.大森勝山遺跡)
出土遺物は、大竪穴住居跡付近から
縄文時代
前期末の円筒下層d2式土器(図7-1)、大竪穴住居跡内は
縄文時代
晩期,の大洞B式土器(図7-2)、環状列石付近及び集石地区では
縄文時代
後期と同時代晩期の大洞B式・大洞BC式,)・独鈷石・円盤状石製品・軽石製品・垂玉類)・円盤状土製品(人面を表したもの、図7-6・7)など主に
縄文時代
晩期
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
遺物は、昭和56年度の蓮池護岸工事で、
縄文時代
前期の円筒下層b式・同d1式土器、同時代中期の円筒上層a,
縄文時代
の石製品では半円状扁平打製石器が見られる。,いずれも台付深鉢形を呈する粗製土器であり、
縄文時代
晩期の大洞C1式に属する。
資料編1(考古編)
((2)石器)
無茎鏃は、蟹田町の大平山元Ⅰ遺跡から草創期の無文土器に伴って出土し*69、
縄文時代
の各時期を通じて増減,この石器も有茎鏃と同様に、
縄文時代
の後半期になって増加するが出土量はあまり多くない。,なお、当該石器は、無茎が
縄文時代
でも古い形式の土器に、有茎と柳葉形は新しい形式の土器に多いというとらえ,
縄文時代
各期を通じて製作使用され、中期のころには大型のものが作られている。 ,形状から3分類され、縦形は古い形式の土器に伴って多く、横形も出現は縦形と同じ時期のようであるが、
縄文時代
資料編1(考古編)
(11.牧野Ⅰ遺跡)
調査の経緯 昭和43年(1968)の県立弘前工業高校郷土研究部による試掘調査の折、柱穴状のピットと
縄文時代
前期及,土器は、
縄文時代
前期の円筒下層b・d1・d2式、中期の円筒上層a・b・c(図27)・d・e式、土製品には
資料編1(考古編)
(15.尾上山(3)遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 発見された遺構は、
縄文時代
前期(円筒下層b式土器期)の不整楕円形を呈する竪穴住居跡,
縄文時代
の住居跡は、2軒ともに大半が調査区域外にあるため完掘していない。,最小は51×43cm、最も深いもの143cm、浅いもの11cmであり、出土した土器によって
縄文時代
前期
資料編1(考古編)
(1.沢部Ⅱ号遺跡)
出土遺物は
縄文時代
前期中葉の円筒下層a並びに同b式土器であり、石器には石鏃(無柄が多い)・石槍・箆状石器,なお、隣接の沢部Ⅰ号遺跡(遺跡番号 02001)では発掘調査の結果、
縄文時代
後期に属する十腰内Ⅰ群(式
資料編1(考古編)
(9.高長根山遺跡)
4)遺構・遺物の概要 発掘調査はA・Bの2地点を設定して行われ、A地点では遺構の検出は見られず、
縄文時代
中期,出土遺物は
縄文時代
中期の円筒上層b・c・d式土器、同後期の十腰内Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅴ群(式)土器(図22)、
通史編1(自然・原始)
(第三節 注および引用・参考文献)
飛島・勝浦遺跡」『山形県史 資料編』一一(考古資料) 一九六九年 (34)高橋正勝 「北海道における
縄文時代
中期,八戸市教育委員会 『風張(1)遺跡Ⅱ』(八戸市埋蔵文化財調査報告書四二) 一九九〇年 (46)尾関清子 「
縄文時代
,(49)星川清親・千原光雄 『食用植物図説』 女子栄養大学出版部 一九七八年 (50)渡辺誠 「
縄文時代
,『大湯町環状列石』(埋蔵文化財発掘調査報告二) 文化財保護委員会 一九五三年 (79)江坂輝彌 「
縄文時代
,」『月刊文化財』 一八一 一九七八年 (89)高橋護 「
縄文時代
の籾痕土器」『考古学ジャーナル』三五五
資料編1(考古編)
(6.独狐遺跡)
一方遺物では、
縄文時代
早期・中期・後期・晩期の土器・石器が、また平安時代後半期(10世紀~11世紀代),カラー図13 独孤遺跡出土陶磁器(2)(表裏) 1~4美濃瀬戸灰釉 5・6美濃瀬戸鉄釉
縄文時代
早期,
縄文時代
においての本遺跡の使われ方は、キャンプ・サイト的なものだったのであろう。
資料編1(考古編)
(16.鬼沢猿沢遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 遺跡としては、
縄文時代
後期の十腰内Ⅴ群(式)土器の竪穴住居跡1軒・土壙27,土器は
縄文時代
に属するものと平安時代のものとがあり、前者はⅡ群に分類されている。
通史編1(古代・中世)
(日本人の起源)
写真16 縄文美人
縄文時代
に先行する旧石器時代については、日本で発見されたこの時代の人骨はそれほど,
縄文時代
には、温暖化による海水面の上昇により(そのレベルについては地域差がかなりあったらしいが)日本列島
通史編1(自然・原始)
(一 北方に広がる円筒土器文化)
一 北方に広がる円筒土器文化
縄文時代
は今を去る一万二〇〇〇年前に始まり、二三〇〇年前に次の弥生時代
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
たとえば続縄文土器と総称されている、本州に稲作文化が普及し弥生時代に移行したのちもなお、
縄文時代
同様、,近年の考古学の成果は、すでに
縄文時代
から続く活発な南北交流の存在を明らかにしているが、この遺跡も、それを,21 阿光坊遺跡9号墳 いずれにしろ東北地方には稲作の不適地が現在でもなお広がっており、また
縄文時代
以来
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
①
縄文時代
以前の遺跡・遺物の発見…昭和五十一年(一九七六)から三ヵ年にわたる県立郷土館の東津軽郡蟹田(,かにた)町大平山元(おおだいらやまもと)Ⅰ~Ⅲ遺跡調査によって、
縄文時代
草創期の無文土器をはじめ、旧石器時代後期,②
縄文時代
草創期に属する土器類の発見…昭和五十六年(一九八一)、東北自動車道八戸線建設予定地内の、八戸市是川鴨平,③
縄文時代
前期と中期の円筒土器にまたがる遺跡調査と土器研究の進展…昭和四十一年(一九六六)、岩木山北麓,
縄文時代
を通じて一般的な墳墓は、地面を掘りくぼめて作った土壙墓であった。
資料編1(考古編)
(新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)
…………………………… 83 (2)
縄文時代
早期 ……………………………… 87, (3)
縄文時代
前期 ……………………………… 90 (4)
縄文時代
中期, ……………………………… 91 (5)
縄文時代
後期 ……………………………… ,97 (6)
縄文時代
晩期 ……………………………… 100 4.
縄文時代
,の住居跡 ……………………………… 150 3.
縄文時代
の集落 …………………………
資料編1(考古編)
((2)県内遺跡の出土工芸品)
(2)県内遺跡の出土工芸品 本県でも、
縄文時代
前期中葉の円筒下層a並びにb式土器期に、鳥浜貝塚と同様,編物をはじめ木製品製作の技術は、その後も時代の推移とともに継承され、本県では
縄文時代
晩期に至ると、その
資料編1(考古編)
(2.天王沢遺跡)
出土遺物は、
縄文時代
後期終末の十腰内Ⅵ群(式)土器の破片と石匙(2点)・スクレパー(1点)のみであり、
通史編1(自然・原始)
(大森勝山遺跡)
しかし旧石器時代から次の
縄文時代
へ結び付く、漸移(ざんい)期の遺構・遺物が発見され研究者の間で注目を集
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 調査の結果、
縄文時代
・弥生時代・平安時代後期の遺構・遺物が発見されている。,なお、
縄文時代
及び弥生時代のものはわずかにすぎず、主体は平安時代の遺構・遺物である。,〔
縄文時代
〕 前期円筒下層a式期と推定される竪穴住居跡が1軒と、前期・後期の土器・石器がある。
資料編1(考古編)
(1.時代区分と弥生土器の編年)
を生じ、さらに板付Ⅲ式土器の段階では、弥生文化は伊勢湾を越えて愛知県に到達するが、当時の東日本はまだ
縄文時代
晩期,東北地方北部の弥生文化に関する研究は、伊東信雄を嚆矢(こうし)とし、氏によって
縄文時代
晩期終末の大洞A
資料編1(考古編)
(6.十腰内遺跡)
遺跡は東北地方北部の
縄文時代
後期に関する標式土器〈十腰内Ⅰ群(式ともいう)~十腰内Ⅵ群(式)〉出土遺跡,本来の十腰内遺跡は現在大字十腰内字猿沢にあるカメコ山(甕子山)地域で、この地から
縄文時代
晩期の大洞B式
/ 2ページ