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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (織物の種類)

織物の種類 絹・木綿・布(麻)等の織物の需要は自家用として織られた布(この場合は苧麻(ちょま)〈からむし,(たていと)と緯糸(よこいと)とを一本ずつ交互に組織した簡単な織物)、次いで羽二重(はぶたえ)・綸子(,)織〈緯方向に低い畦がある平織物〉に似て軽く薄い上品な絹布)・龍文地(平織の一種で羽二重に似ている。,文様を織り出したものもある)および紬(くず繭からつくった糸を緯に用いた真綿を手紡ぎした手織の絹織物)などが,その後弘前織帯地・弘前織反物および弘前嶋(縞)・弘前小嶋・御国織嶋などと弘前や御国を付した名称が出てくるようになる / 織物の種類
通史編4(近・現代1) (織物の商況)

織物の商況 同日の報告に織物の輸出について記されている。それは次のものである。,これによれば、各種織物製品のうち、武田機業所が製造した黄八丈は県外に移出されたものの、地織木綿や各種木綿,織物ノ輸出 本市大字相良町武田機業所ニ於テ織出シタル黄八丈ハ、明治十年頃ヨリ東京地方ヘ僅々輸出アリシカ,シタル地織木綿ハ、明治十九年ヨリ当管内津軽地方ヘ僅少ノ輸出アリシカ、年増販路盛大トナリ、本年一月ヨリ六月,其価格四百四拾四円拾五銭ニ達シ、専ラ地方ノ需用ニ供スルヲ以テ、追々管外輸入ヲ減少スル景況ナリ (同前)  織物 / 織物の商況
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

織物会所の施策 津軽領では元禄八年(一六九五、この年大凶作)以来経済が低迷し家中および在・町とも困窮状態,糸を緯に用いた手織の絹織物)以上、布(麻の類)は生平(きびら)(からむしの繊維で平織りにし晒(さら)していないもの,の織物については一切売買が自由であった。  ,以上のように織物会所では、救民の手段として養蚕と織りの授産を取り入れ、またそのための機会や金銭面その他,さらにこれを領内の殖産につなげる一方、繭や織物等生産物の他出には厳しい制限を設け、藩の独占的買い取りと / 織物会所の施策
通史編4(近・現代1) (綿織物の製造、販売)

綿織物の製造、販売 弘前においては、江戸時代以来、手織り木綿の生産が盛んであった。,その後木綿の専門店が登場し、また、いくつかの呉服店が手織り木綿を店頭に置くようになった。,その後織機が発展するにしたがい、生産量は次第に増加した。弘前では鹿内式足踏機が多く普及した。,大正期における工場数は約二〇であり、織元から原料の供給を受けて賃織を行っていた。,この原料から得られる綿織物は三匹であり、販売価格は一二円六銭である。 / 綿織物の製造、販売
通史編3(近世2) (織)

織 「国日記」によると、領内における織物の需給、特に絹織物については、藩御用の必需品であったこともあり,、古くから先進地の江戸や福島から絹織物職人を招き、蚕種も移入して養蚕を盛んにするとともに織りの普及に努,しかし絹織物の生産が組織的、本格的に行われ、手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三,もっとも、茶道役の野本道玄が絹織物師の斡旋や自ら養蚕の技術指導に当たり、絹織物の生産に資するようになったのは,織物師両人は着任後領内の巡察を始めている。 / 織
通史編3(近世2) (織座)

「国日記」では織物会所・織方会所・織屋会所・織物場会所・織物師会所・紺屋町会所・会所・織物師役所・織場,・織座・織物座・織物所、そのほか石渡織場所・石渡織物師役所・石渡において織座、さらに糸会所・蚕繭会所等,織物所の普請について、欲賀庄三郎は元禄十四年(一七〇一)春の建設を願い出ている。,織物所は元禄十四年(一七〇一)三月九日に普請に着手し、四月二十日には工事の後片付けも終了。,図136.織座の場所(現明の星幼稚園の辺り)  なお元禄十三年(一七〇〇)七月、織物所の建設に先 / 織座
通史編5(近・現代2) (弘前手織)

大正九年(一九二〇)において、本市における織物会社は東北織物株式会社、竹内機業株式会社、津軽織物株式会社,そのための打開策として企業合併が必要となり、大正十四年八月、東北織物が竹内機業と近藤織物を吸収合併して,東北織物会社は、昭和三年(一九二八)に綿ネル(平織りまたは綾織りにして、両面に起毛した柔らかな紡毛織物,十八年、国家の企業統制により、本市における織物工場は東北織物と葛西右平の二工場のみとなり、その他の工場,写真35 東北織物工場 写真36 葛西織物工場 / 弘前手織
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

図100.蚕飼養法記  元禄十二年(一六九九)、藩は絹布織物師の欲賀(星賀とも)庄三郎・富江次郎右衛門,二人は元禄十二年十月三十日に弘前に到着しているが、彼らが携えた御用状には、国元における養蚕や織物の検分,また彼らは、自生・栽培している植物の調査も行っており(同前元禄十二年十月七日・十一月八日条)、織物技術,の伝授だけではなく、織物に活用可能な植物の調査の任にも当たったのであろう。  ,、織物・染色の原料、生産品を一括して会所に集めるということにあった。 / 染織技術の導入政策
資料編1(考古編) ((7)機織り)

(7)機織り 機織りの技術は、縄文時代晩期の終りころに大陸から伝わったと考えられており、弥生時代には,全国各地で機織りに関する遺物が出土している。 / (7)機織り
通史編4(近・現代1) (組織的活動-化育社)

組織的活動-化育社 りんご栽培を中心とする農業の研究・発展を意図する組織的活動は、弘前では全国的にも,これらの士族出身の先覚者は、早速民間有志を募り、老農の経験や篤農家の技術をみずから学ぶ組織を結成した。,明治十四年(一八八一)、政府は篤農家を集めて全国農談会を開催し、以後各府県に農談会組織の設立を指導するが,集会場は堂々とした様式建造物で、実質的な「津軽産業会館」であった。,組織的活動として、もう一つ重要なのは、「津軽果樹研究会」の成果である。 / 組織的活動-化育社
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

金木屋による養蚕と製織 本町の絹・木綿・布商人金木屋和吉(初代)は、現金正価、掛け値なしの商法を取り,られていた(「国日記」享和元年七月十二日条)が、文政十年(一八二七)には秋田久保田や上州(現群馬県)の絹織師,を招き、藩御用のお召や袴地などを織らせた(同前同年十月十五日・十二月二十五日条)。  ,き止まりの南溜池(みなみためいけ)(現市内南塘(なんとう)町)堤沿いの御用地借用のうえ、大造りの国産織座,出していたが、織りについては最初、秋田から上州の絹織物師を呼び寄せ指導に当たらせている。   / 金木屋による養蚕と製織
通史編5(近・現代2) (第三回青森県鉱産物品評会)

第三回青森県鉱産物品評会 昭和四年(一九二九)九月十五日から一週間、弘前市時敏小学校において、第三回青森県工産物品評会,入場は有料であり、出品した製造物の売買契約も行われ、また、優良品は表彰された。,せしむるの機会にありては其表装陳列に注意し顧客をして永遠に此に吸着せしむるの策を講ぜざるべからず  染織物,、又出品中従来見さる無地物、捺染物等増加し、新製品の進出を得たるは欣ぶ、今後一段の奮起を望む、又染色物,桶類、木製家具、曲木細工、雑工品、竹細工、菓子類、水産物、缶詰、醤油、味噌、麺類、手芸品、金物類、機械類 / 第三回青森県鉱産物品評会
通史編5(近・現代2) (インフレの進行と低物価運動)

インフレの進行と低物価運動 戦後の日本経済は混乱からスタートしたが、そのなかでも物価変動は激しかった,表19 戦後消費者物価指数 (昭和9年~昭和11年=1.00) 年 物価 年 物価 昭和21 48.,弘前商工会議所は、名は古い伝統を継いではゐるが、その実質は全く新しい性格と構想とを盛ったものであり、其の根本組織は,点を基本目標として監視活動を願ふ (2)消費者活動の指導 闇を排除し公価の励行を求める消費者の組織活動,が組織された。 / インフレの進行と低物価運動
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の工業)

ここに記されているのは、織物、帯、手工業製品であり、県内ではこれら以外に搾粕や畳表の生産があった。,織物については、県全体では綿織物が多いが、中津軽郡においては、反別、金額ともに絹綿交織が多く、綿織物がこれに,次ぎ、絹織物がその次となっている。,北津軽 上北 下北 三戸 合計 織 物 絹織物 数量 … …,このうち興業社は織物会社、発誠社は漆器製造会社、改光社はマッチ製造会社である。
通史編4(近・現代1) (その他の会社)

その他の会社 上記以外の会社を払い込み資本金順に見れば、市内の会社としては、東北織物株式会社(払込資本金,払込資本金、九六〇〇〇円、銅鉄農具販売)、株式会社丸万商店(払込資本金、五〇〇〇〇円、製麺及製麦)、弘前織物株式会社,表55 弘前市会社一覧(大正14年) 名 称 公称資本 払込済資本 業 種 創立年月 所在地 東北織物株式会社,明治32年12月 北瓦ケ町 竹内機業株式会社 100,000 30,000 織物製造 大正9年3月,37,500 綿織物製造 同 8年3月 百石町 弘盛株式会社 50,000 23,750 木通蔓細工販売
通史編5(近・現代2) (青森県工業試験場)

一 染織部 (イ)織物の指導   絹、綿、麻、毛織物、ステーブル、人絹、代用繊維、織物の実地指導、依頼製織,、設計、講習講話、審査鑑定、研究生養生 (ロ)織物の試験研究 機織工場に広幅及ひ小幅力織機を設備し地方向並,に移輸出向織物の試験研究を行ひ地方織物業者の進歩向上を計る (ハ)染色の指導   絹、綿、麻、ステーブル,を有し前記化学に関する依頼試験研究を行ふ (ハ)醸造の指導   清酒、醤油、味噌、酢、其他一般醸造物の,、其他一般場務の経理 (ロ)対外事務    文書収発、物産の紹介宣伝、試売製作品払下、展示会即売会開催
資料編1(考古編) ((3)多様な技法)

(3)多様な技法 縄文時代には、多様な編物が作り出され、その緻密な編みを基に編布が生産されて、人々の,当時の衣服には、一般的にカジノキ・コウゾ・シナノキ・カラムシなどの繊維が採取可能な植物を原材に、越後アンギン,このような編みの技法に対し、従来縄文時代には考案されていないと思われていた織物の存在を裏付ける資料が、,経糸が24本、緯糸は22~24本を数えることができ、しかも糸は、経糸・緯糸とも1本ずつ交互に潜らせた平織的組織,現在これに似た織布を木綿の織布に求めると、晒(さらし)では1cm2の中における糸数は、経糸・緯糸とも18
通史編3(近世2) (非常時の服装)

非常時の服装 飢饉・火事・地震などの非常事態の際における服装については、男子が羽織を着用する時にはく,それは裾に黒ビロードの縁をとり、地質は緞子(どんす)(紋織物の一種で、生糸または練糸を用いた繻子(しゅす,)組織の絹織物)や錦(にしき)(絹織物の一つ)などから縞(しま)木綿にいたるまでの各種があって、武士の
通史編5(近・現代2) (地場産業の諸相)

(三)弘前手織  織物工場も津軽塗の漆器工業と同様、戦時企業統制により多くが姿を消し、残るは東北織物,と葛西織物の二工場のみとなった。,であったが、やがて業務を再開して進駐軍の衣服の洗濯・修理などを行い、その後、貿易公団の発注によって輸出向け綿織物,同年秋の第二回全国織物品評会において、東北織物出品の織込ネルは特選通産大臣賞を受賞した。  ,は順調に伸びていくが、三十年代になると全国的に普及してきた化学繊維に押されぎみとなり、三十四年、東北織物
通史編4(近・現代1) (和服と呉服商)

そのころ、松森町の「角は」呉服店(宮川久一郎)では、農村によく売れた巻手織(一反八〇銭ぐらい)と京手織,縮緬の紋付羽織に上等糸織の着物、繻珍と友染の腹合わせにしたる帯をしめ、三井の流行新柄にあらざれば身にせざるが,こうして新織物が逐年上方各地から入ってきた中で、地元の手織物は染色も不充分で上方物とは比べられなかった,これに伴って、津軽手織(「弘前手織」ともいう)はさらに品質や縞柄なども改良されて、四十年八月の税務署の,日露戦後はいよいよ西洋物が幅を利かす時代になった。  
通史編3(近世2) (金木屋日記にみえる衣服)

二十七日、昼より袷(裏地つきの着物)を着る。  ,三日、袷を着ていたが、午後二時ころより単物を着る。,七日、弘前へ出て他家を訪ねるため、単物に絹羽織(きぬばおり)を着て行ったが暑かった。,弘前の人は薄(うす)羽織を着ていた。そのあと、帷子(かたびら)に薄羽織で大道寺家を訪ねる。  ,その間に汗だらけになり、裃と帷子を脱ぎ、単物を着る。  七月七日、朝より浴衣を着る。  
通史編3(近世2) (生地による統制と着用規定)

八月二十六日条には、先年(正確な年代は不明)藩士一同に対し木綿の着用を命じたが、このたびは紗綾(さや)(絹織物,表面がなめらかで光沢があり、稲妻・菱垣・卍などの模様を織り出したものが多い)・縮緬(ちりめん)(絹織物,印度のサントメから渡来した縞のある綿織物)・川越平(かわごえひら)(埼玉県の川越市付近で初めて作られた,(ぐんないきぬ)(山梨県郡内地方で産出する絹織物)、羽織は紬と木綿、袴は桟留・小倉(京都市右京区の地名,であるから、京都産の織物か)で、夏は川越平・郡内平(ぐんないひら)などの使用。
通史編4(近・現代1) (日露戦後の工業)

明治四十三年(一九一〇)の生産金額では、清酒が最も多く、織物がこれに次いでいる。,このうち、鹿内式織物製造場は、鹿内豊吉が創設した工場であり、鹿内式足踏織機を製造販売していた。,表43 弘前市織物関係、工場細別表 工場名 所在地 創立年月日 製品種目 使用原動機 使役職工 労役者数,川嶋染織工場 百石町 同 29年6月 染物、織物 - - - 男  3 女 20 森岡機業場,相良町 同 37年6月 織物 蒸気力 1 3 男  2 女 10 〓機業場 西川岸町 同
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

たる元手とする企業の設立が見られ、また、士族授産結社の活動が活発化するなど、新時代の地域経済を担う組織や,20年) 名称 印刷所 裁縫所 盛蚕所 興業社 漆器 樹産 会社 発誠社 武田 蚕業所 白井 織物所,竹内 製糸所 竹内 織物所 総計 営業種別 活版 印刷 洋服 裁縫 製糸 織物 漆器 仝 製糸,織物 仝 製糸 織物 所在地名 東津軽郡 大野村 仝郡 青森米町 中津軽郡 富田村 仝郡
通史編3(近世2) (日常着)

①夏用の衣服について――近年町人の妻子は絽(ろ)(織り目の透いた薄い絹織物。,②夏羽織について――重立った町人は絹羽織を、その他の者たちは麻布の羽織を着用のこと。,④召使および手代(てだい)の者の場合――冬は上張(うわはり)(上にはおり着る着物)や浴衣(ゆかた)を着用,し、羽織は禁止する。,夏は単物(ひとえもの)(裏をつけない一重(ひとえ)の和服)を着用し、帷子や羽織は禁止する。
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

10月5日,織物座設置を命ぜられる。,11月,京都より男女10余人の織物工を招く。,1701 元禄14 47 3月,紺屋町に織物会所を設置。,高森太郎兵衛,道玄に代わり,織物会所監督。,1710 宝永7 56 5代藩主信寿,織物会所訪問督励。
通史編3(近世2) (野本道玄)

の良否をよく選別し、油川(現青森市)の水は京都宇治川の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『奥富士物語,道玄は茶人、数寄人としてのみではなく、養蚕、機織、製紙等の実業にも指導的役割を果たし、弘前の産業振興に,元禄十二年(一六九九)、道玄の建議により織物師欲賀庄(荘)三郎、富郷次郎右衛門らの諸工が上方から招かれ,、翌十三年紺屋町に織座(おりざ)が開設された。,彼は機織、製糸の改良を督励し、上方から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。
通史編4(近・現代1) (日露戦後の商業)

三月末頃に至り稍(やや)需用減少せるも漸次耕作の時期に入るを以て格別の不況を来さすして今期を経過せり 二織物,一清酒 本季に入り米価昂騰の為めか売渋りの状態にして前記に比すれば稍不況なり 一織物 前期末に引続き,)、地方物産合資会社(曲物、蔓細工、雑貨販売)、癸卯合資会社(質屋業)、中太合資会社(醤油醸造及質屋業,)、松木合資会社(酒類醸造)、合資会社盛融商行(貸金業)、合名会社岩見質店(質屋)、合名会社金木織物商,(織物製造及販売)、弘前煙草合資会社(煙草販売)、弘前電灯株式会社(電灯及電力)、弘前挽材合資会社(挽材製作販売
通史編4(近・現代1) (女学生の風俗)

県立第一高等女学校(のち県立弘前高等女学校、現県立弘前中央高等学校)の新入生は、開校式には竪(たて)縞の糸織の,着物で行ったが、ふだんは母が織った手織を着て通学したという。,当時大光寺(現平賀町)の富豪の娘が、紋羽二重の牡丹色の羽織を着ていたのが羨望の的であったという。,写真126は、いずれも明治三十七、八年ごろの同校生徒の服装だが、右は縞の手織木綿、中央は流行の矢絣(やがすり
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

の段階で、豊臣政権から「叛逆之族」として認定されており(同前No.二)、関東・奥惣無事令に抵触した人物として,周知のごとく、織田信雄は織田信長の次男で、天正十一年(一五八三)に尾張国清須(きよす)城主、翌十二年(,為信が鷹献上を通じて織田信雄に連絡をとったこの時期は、信雄自体はまだ豊臣政権内で織田信長の子として高い,していたことを物語っていよう。,図5.黄鷹献上に対する謝辞を述べた織田信雄の書状  為信は織田信雄だけでなく、秀吉の甥の豊臣秀次
通史編4(近・現代1) (弘前市長らの商業金融に関する意見)

フルコト  十六、毎年政府ヨリ融通スル低利資金ヲ県ニテ借入レ、県ヨリ直接ニ組合ニ貸付スルコト 第二章 物産陳列館,ニ於テハ、助成方法トシテ既設ノ物産陳列館ニ補助ヲ与ヘ、左ノ事業ヲ挙行セシム (一)本県物産陳列ヲ為サシムルコト,未設町村ニ適切ナル組合ヲ設立セシムルコト 二、既設貯金講若クハ共同販売及購買事業ヲ行フ私設団体ノ組織ヲ,目的ハ、信用ヨリ購買ニ、購買ヨリ販売ニ、生産ノ順序ニ従ヒ、漸次兼営ノ歩ヲ進メシムルコト 四、組合ノ組織ハ,、近隣の住民相互が助け合って経済行為を行うための組織であり、明治後期以降に設立され、特に大正期に入って
通史編1(古代・中世) (衣の道具)

とくに現代まで使われている円盤の部分が木製の紡錘車は、境関館の井戸跡から中世遺物とともに出土したことによって,製作された糸を使って織り上げるための道具、つまり織機の類は出土例が少ない。,図52 苧引金と紡錘車 境関館出土品  履き物としての下駄は出土が多い。
通史編5(近・現代2) (昭和初年の弘前の工業生産)

昭和初年の弘前の工業生産 昭和四年(一九二九)に、第三回青森県工産物品評会が弘前市で開催された。,また、織物業の産額がこれに続く。宮川忠助は、全体として次のように評価している。,青森県工産品価額市郡別(昭和2年)   弘前市 青森市 東郡 西郡 中郡 南郡 北郡 上北 下北 三戸 計 織物,例之木通蔓の如きは、遠く海外に輸出せられて居るが、原料の関係上大なる発展を期待する事至難でなかろうか、織物,斯く当弘前の工産物中県外輸出品として真価を有するもの多々あるのであるからして、其製造組織と経営、販売方法等
通史編5(近・現代2) (産業組合拡充運動)

わが国の産業組合は、信用事業を中心にスタートしたが、農業と農民組織の発展の中で産業組合の取り扱う事業の,拡大が課題となり、この運動を通して事業の総合化、全農家加入というわが国独特の系統農協組織の基礎が作られることになった,事業は、資金の貸付けと貯金、生産物の販売と加工、産業経済上必要な物資の提供などが主たるものである。
通史編5(近・現代2) (工業都市弘前)

そして、(一)酒造業、(二)織物業、(三)漆器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業,工業生産物の内訳は表4のとおりであるが、工業生産物価格では酒類が群を抜いて多く、全体の四七・七%を占め,表4 昭和6年度弘前市における工業生産の内訳 工業生産物 戸数 価格   戸 円 織物 8 207,965
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

一、染織業 一、改善及奨励要点  (イ)品種ノ改善、増加、及統一ヲ期スルコト  (ロ)染色ノ統一,ヲ普及セシムルコト  (ホ)調査参考書第二款土産原料中ニ掲ケタル(一)染色用植物及鉱物、(二)繊維類,ハ県ニ於テ蒐集シ之ヲ当業者ニ展示スルコト  (ヘ)繊維類ノ葛蔓布ハ織物ノ原料トシテ頗ル有望ナレハ、県,スルコト (ニ)地方産愛用ノ気風ヲ養フ為メ、適切ナル方法ヲ設クルコト (ホ)北海道枢要ノ地ニ本県物産館,ヲ設クルコト (ヘ)北海道其ノ他適当ノ地ニ本県物産ノ紹介陳列ヲ為スコト (ト)県庁其ノ他公共団体ノ
通史編5(近・現代2) (日本再軍備と自衛隊の誘致)

日本再軍備と自衛隊の誘致 合併後の弘前市政を物語る場合、自衛隊の誘致をめぐる紛糾と争いは避けて通れない,敗戦で日本はアメリカを中心とする連合軍から、陸海軍部隊の武装解除と組織の解体を強制された。,進駐軍の撤退に伴う自国の防衛措置が必要だと痛感する政府の動きもあり、日本は再び自衛隊という名の軍隊を組織し
通史編4(近・現代1) (ジョン・イングの貢献)

ジョン・イングの貢献 草創期の東奥義塾に五人着任した中でも、イングは現在に至るまでその功績を数々語られている人物である,開学時の東奥義塾は、中心となって動いた人物の多くが慶応義塾で学んでいたことから、学校の体制は慶応義塾に,写真46 東奥義塾物理教科書  次にイングの重要な貢献として挙げられるのは、アメリカの大学で当時,よく行われていた「文学社会(Literary Society)」という組織形態を伝えたことである。,明治二十年代になるとキリスト教系の学校に同様の組織が作られるようになった。
通史編4(近・現代1) (養蚕業の奨励)

明治期を通して、青森県内の主要農産物は米が中心で、津軽地域ではりんごが急速に伸張したが、養蚕業は全国的,武田甚左衛門(たけだじんざえもん)が弘前及び周辺で野桑が繁殖していることに着目し、養蚕・製糸・製綿・機(はた)織りを,代々この事業を継承、明治期に入り、後継の六代目「金木屋」当主の熊七(くましち)が養蚕の普及と製糸所、絹織物工場
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

図132.紺屋町織座(紙漉所跡)  元禄元年(一六八八)、紙漉所で不要になった生皮大判二五〇帖・,紙漉所跡は薬園になり、さらに藩営の織座町に変わって大川村の楮畑は桑畑になる。,殖産興業の方針が野本道玄(のもとどうげん)主導で、養蚕・製糸・織物業に転換したのである。  ,す者召し置かれ、金二〇両七人扶持ずつ下し置かれ、手代六人…一ヶ年御扶持切米ばかりも大概一七〇両余の御物入,元締兼大目付武田源左衛門(たけだげんざえもん)らによる藩の行財政改革の対象になったことを物語っている。
通史編5(近・現代2) (市村合併と公民館)

しかし、その建物たるや公民館として新築されたものはほとんどなく、部落の集会場を転用したもの、消防屯所や,その組織機構は、本館一館、支館一一館(旧行政区域に一館)、分館六一館の三本建てとしたが、翌三十一年、施設,、職員、予算などの面から早々に組織機構の再検討を迫られることになった。,にもむらが見られたため、これら分館を統廃合し、三十九年、三中央館(中央・西・東公民館)、七分館制へ組織が,その後、住民主導型の公民館活動をより充実すべきであるとして、五十二年、一中央公民館、一二地区公民館へ組織を
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

農会の設立と農事改良 津軽地域の農民組織は、官制に頼らない自発的・自立的な団体として発展した特徴を有,するが、全国的には明治三十二年(一八九九)六月の農会法の公布によって組織された農会が、農政の下請け機関,同四十年代に入り、物産品評会が熱心に取り組まれた。  ,弘前市及び中津軽郡の物産品評会は津軽産業会が開催してきたが、「農産物の出品が期待通りの数には達しなかった,出品できることとし、多数の物産品を取り扱った(「中津軽郡農会立第一回物産品評会」、資料近・現代1No.
通史編4(近・現代1) (日清戦争と郷土部隊の出征)

そのため郡役所などが町村宛に義勇団の組織を辞めさせるよう督促していた。  ,それでも義勇団を組織しようとする動きは止まらなかった。,また東奥義塾の学生も義勇団を組織し従軍を願い出た。,これらの事実は、当時の弘前市に日清戦争を通じた戦争熱が大いに高まっていたことを物語っていよう。  ,寒冷地対策としての軍需物資、とくに被服などの改良は遅れており、寒冷地での戦いに備えた装備や越冬対策は充分
通史編3(近世2) (染め賃値上げのこと)

)十月二十六日条の場合、染屋たちが一堂に会して合議の結果、持ち合わせの藍がないとの理由付けをし、御用物の,これに対し藩では、地藍の生産が向上し、一方手織木綿もしだいに生産高が多くなっているので、それだけ染物の
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

大正末年ごろから弘前高等学校には「弘高社会科学研究会」(弘高社研)が組織された。,され、この活動の中心的役割をなしたのが新聞雑誌部員であり、実質的には社研活動の変形として生徒大衆を組織していたものであった,を発して、先輩[   ]と共に検挙・勾留され、[   ]、[   ]、[   ]、私の四名は、中心人物ということで,私の体験をとおしてみても、私らは学内で非公認の社会科学研究会を組織していたとはいうものの、私らは、私らなりに,、RS(読書会)活動を通じて唯物論を学び、唯物史観について討論し、マルクス・レーニン主義の文献を漁っては
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

農牧社の組織は、社長大道寺繁禎、副社長笹森儀助、牧佃掛中畑清八郎、会計掛芹川高正、監督長尾介一郎、菊池九郎,を受けて設立された士族授産結社には、他に、明治十六年(一八八三)に一万円の勧業資金貸与を受けて綿布製織を,目的とした弘前興業織物工場、明治十七年に五〇〇〇円の貸与を受けて漆器製造を目的とした漆器樹産会社、同年
資料編1(考古編) (4.垂柳遺跡)

砂沢の場合は、土器以外の遺物の内容を考えると縄文的な色彩が濃厚であり、垂柳も同様な傾向が強く感じられる,したがって、当地方では稲作農耕を推進しつつあったにせよ、西日本に見られるような集落を単位とする組織的な,九州の佐賀県にある吉野ヶ里遺跡等も、いわばこのような組織の一部であり、特に西日本にはこのような組織が多数作,の記事は、このような組織の存在を表しているように思われる。,図23 弥生時代の遺跡・遺物(田舎館村・垂柳遺跡) 垂柳遺跡の航空写真 垂柳遺跡発見の水田跡
通史編5(近・現代2) (学校給食とPTA)

進駐軍の放出物資に加え、ララ(アジア救済連盟)、ユニセフ等の救済物資が各校に配給され、児童に温食給食が,実施のその年三月、関係学校による「弘前市給食委員会」(委員長金沢安次)が組織され、以後一切の給食問題はこの,救援物資の配給は昭和二十五年で打ち切られたが、市民は市とその経費の一部を出し合い、青森市や八戸市が廃止
通史編4(近・現代1) (帝国在郷軍人会の設立)

だった軍人会も、大正元年(一九一二)には強制加入となり、大正三年には海軍軍人も参加して、陸海共通の組織となった,年功序列が厳しい軍部組織のなかで、在郷軍人会が一定の圧力団体として存在したことは記憶されてよいだろう。,在郷軍人会が国体を毀損する思想の絶滅を意図した反革命的軍事組織として位置づけられたことに注意したい。,在郷軍人会は文部省の設定する公教育に対し、強力な指導性をもつ軍事組織としての地位を獲得したことになろう,これらの措置は、ロシア革命の影響が軍人や市民に相当浸透していたことを物語っていよう。
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

その際の記述から、弘前商人仲間という組織もあったことがわかる。  ,日市居鯖仲間と居鯖触売仲間が同一組織であるのかどうかは不明であるが、居鯖仲間という組織が存在したことは,商人仲間の実態は不明であるが、金融や運輸関係の業務を行っていた組織であった可能性が高い。  ,ただ残念ながら、これらの仲間組織の活動を規定する議定書といったものは今のところ知られていない。  ,仲間という名称は名のっていなくても同業組合組織が存在した可能性が高い家業もある。
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