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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (織座)

織座 「国日記」元禄十三年(一七〇〇)四月七日条によると、織座の取り立て場所には長内三益(おさないさんえき,する場所には、「織物会所より願により相渡し候」と書き入れられているが、この場所(二ヵ所のうち東側)に織座,ここで織座に関する名称について触れる。,国日記」では織物会所・織方会所・織屋会所・織物場会所・織物師会所・紺屋町会所・会所・織物師役所・織場・織座,・織物座・織物所、そのほか石渡織場所・石渡織物師役所・石渡において織座、さらに糸会所・蚕繭会所等の表記 / 織座
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

き止まりの南溜池(みなみためいけ)(現市内南塘(なんとう)町)堤沿いの御用地借用のうえ、大造りの国産織座,同じく「封内事実秘苑」天保元年六月条には、在府町の金木屋甚左衛門織座の状況について次のように記されている
通史編3(近世2) (桑の栽培と養蚕)

から悪戸(あくど)・下湯口(しもゆぐち)辺に広がる地域)のうち小沢地区に見立てていた一里四方の場所を、織座用桑畑,これは欲賀庄三郎が道玄に連絡もなく、織座用には三〇〇間(約五四〇メートル)四方で良いとする判断で、他への,その後、宝永三年には、桑は多いほど良いとして、小沢一里四方に加え、前記六ヵ所の袋地区も、織座御用の桑畑
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

図132.紺屋町織座(紙漉所跡)  元禄元年(一六八八)、紙漉所で不要になった生皮大判二五〇帖・,紙漉所跡は薬園になり、さらに藩営の織座町に変わって大川村の楮畑は桑畑になる。
通史編3(近世2) (「ねぷた」の運行)

運行の状況をみると、「国日記」享保十一年(一七二六)七月十一日条によれば、五代藩主信寿は午後五時に織座,藩主の上覧の場所はこのように織座であったが、享保以後は三の丸(堀の土居に小屋がけして見物)か竹長屋(現一陽橋
通史編3(近世2) (野本道玄)

)、道玄の建議により織物師欲賀庄(荘)三郎、富郷次郎右衛門らの諸工が上方から招かれ、翌十三年紺屋町に織座
通史編3(近世2) (織物の種類)

織座で織られたものは主として領内で生産された生糸(きいと)で織った絹製品で、当初は平織(ひらおり)(経糸
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

町・在に対しては、織りの希望者を織座に加わらせて技術指導を行い、織り出した絹・布で商品となりうるものについては
通史編5(近・現代2) (弘前手織)

有する弘前手織は、元禄七年(一六九四)、津軽塗と同様に四代藩主信政が現在の弘前市紺屋町に製糸場および織座
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

甚左衛門はさらに機織座(はたおりざ)を弘前城下に経営、糸取りの女二〇〇人を雇い、領内では初めての龍紋縮緬
通史編3(近世2) (織)

両人の召し抱えは、野本道玄のかねてからの上申によるもので、織座を取り立て、領内における養蚕と絹織の指導
通史編3(近世2) (ねぷた)

この日に、五代津軽弘前藩主津軽信寿(のぶひさ)が織座(おりざ)(機織(はたおり)する所。
通史編3(近世2) (ねぷたの起源と変遷)

この日に、五代藩主津軽信寿(のぶひさ)が織座(おりざ)(機織する所。
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