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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (繭)

繭 生産した繭は蚕繭会所で買い取っているが、一疋作り(繭の中に蛹(さなぎ)が一個)の繭が歓迎され、買値,また一疋作りでも在来の国繭は質の点て対象ではなく、きんこ(絹子)繭に限られていたが、津軽半島の陸奥湾に,きんこ繭の種(蚕卵紙)を上方から移入して飼養者に広く配布し、将来はこの繭に限るとの方針を立てている。,「国日記」には繭の蛹の殺虫法についても触れている。,蚕繭会所で繭を買い取るに当たっては、仲買の中間利得を省いて生産者の利潤を図るために、村々へあらかじめ合印 / 繭
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

すなわち、注文は各自させるが、支払いは各家庭に養蚕を奨励し、生産された繭で決済させるようにした。,もっとも繭に限らず紅花(染料)・からむし・藍などでもよかった。,また織りの普及を図り、織り立てた布地のうち絹は紬(屑繭から作った真綿(まわた)を手紡(つむ)ぎし、その,また糸・繭・からむしおよび紅花その他織物類も会所に持参させ、他国商人への売り渡しを固く禁じる一方、移入,さらにこれを領内の殖産につなげる一方、繭や織物等生産物の他出には厳しい制限を設け、藩の独占的買い取りと
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

元禄十四年二月、欲賀庄三郎・富江次郎右衛門が藩に繭(まゆ)の品質にかかわる要請を行っている。,その中で両人は、一つの繭に一匹のさなぎが入った「壱疋作り之繭」で、かつ品質のよい「きんこ繭」に限定することや,、繭の天日干しの際の品質の維持策などを提言している(「国日記」元禄十四年二月二十二日条)。  
通史編4(近・現代1) (組織的活動-化育社)

同年から両者とも共進会を開催するが、公設農談会が米・大豆・麻・繭・生糸など伝統的な作物を取り上げたのに,明治十三年、青森県において初めての繭と生糸の共進会が開催された(県勧業課『青森県米大豆麻繭生糸共進会報告,青森県はこれに参加せず、独自に明治十七年十一月十日から十二月十日まで、弘前市の興業社において「米大豆麻繭生糸共進会,明治十七年(一八八四)の共進会は、参観人数で公設農談会(青森県米大豆麻繭生糸共進会)が圧倒的な支持を得
通史編3(近世2) (野本道玄)

上方風の絹布綾羅(りょうら)を織り、養蚕家が繭を持ち込むことを条件に養種、養蚕資金、米銭の貸し付けが行,彼は機織、製糸の改良を督励し、上方から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。
通史編3(近世2) (織)

した上磯根岸(ねぎし)村(現東津軽郡平舘(たいらだて)村根岸)には養蚕にすぐれている者が多く、良質の繭が,なお返済は生産した生糸(きいと)(蚕の繭からとった繊維を数条をあわせて糸にしたもの)の現物による差し引,藩では増産を呼びかけるとともに、外部への流出を抑え、また〝からまゆ(蛹(さなぎ)が蛾になって出た繭。
通史編3(近世2) (織座)

・織場・織座・織物座・織物所、そのほか石渡織場所・石渡織物師役所・石渡において織座、さらに糸会所・蚕繭会所等,また繭を煮るかまどは一五基であった。,織座の経営について、宝永三年(一七〇六)十月の時点では、一ヵ年の入用経費・飯米代・繭買入代金等の見積もり
通史編5(近・現代2) (朝日シードルの進出)

第一次世界大戦の反動恐慌以降、繭価の下落により養蚕業からりんご栽培に転換した長野県など、大消費市場である
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

(だてやながわ)(現福島県伊達郡梁川町)あたりから養蚕の指南を招き、廻郷のうえ指導にも当たった結果、繭の
通史編3(近世2) (織物の種類)

文様を織り出したものもある)および紬(くず繭からつくった糸を緯に用いた真綿を手紡ぎした手織の絹織物)などが
通史編5(近・現代2) (高度経済成長と出稼ぎ)

同法は第二次大戦前、「米と繭」と零細経営に代表された日本農業の生産構造を「選択的拡大」「近代化」の名の
通史編4(近・現代1) (神官僧侶会議での県の方針の伝達)

当管下之儀往々山野に桑樹生立すと雖も、元来養蚕は尤桑葉之良否に関し、善良之桑葉を以飼立されは、最良之繭糸
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

中津軽郡で生産された産物として、農産は米・粟・蕎麦(そば)・麦・豆・蕓臺(うんだい)(油菜)・果実・繭・
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

米・麦・繭などほとんどの農産物は、「キャベツ五十で敷島(煙草)一つ」と表現されたように激しい価格暴落に
通史編5(近・現代2) (りんご加工業と輸出)

の専務となり、昭和五年(一九三〇)の生糸大暴落で会社解散後、苹果試験場の古市技師の指導を受けながら乾繭場
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