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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

矢立峠(やたてとうげ)を越え碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)を北上して弘前へ到着する道筋(羽州街道,図106.津軽弘前藩の参勤交代通路  江戸~弘前間の羽州街道の宿駅を示すと図107のようになる(,図107.羽州街道(小坂通江戸道中)の参勤交代通路
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

しつなぎ合わせたものが図34のベースマップだが、この図からは、中世・近世の都市に典型的な「短冊型地割」が、羽州街道,この図にも石川村から進んできた羽州街道が堀越村に入り、堀越城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を,そして、以上のことから、堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその町並が細長く連,注目すべきは、天和の絵図では、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、,から見た旧羽州街道  図34の堀越城下町復元図は、以上の復元作業によって作成した。
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

①は当時の参勤交代路である西浜街道(鰺ヶ沢街道)と、羽州街道の弘前~油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間,を合わせたものであり、②は後に参勤交代路となる羽州街道の弘前~大鰐~碇ヶ関間を指している。,また黒石津軽家が成立する以前の史料であるためか、弘前から黒石に向かう場合は直通道路が記載されておらず、羽州街道
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

しかし、四代藩主信政は寛文五年(一六六五)、碇ヶ関から矢立峠を越えて秋田領へ入る羽州街道を参勤交代路に,口迄海道筋絵図」(弘図津)には、碇ヶ関から古懸(こがけ)入り口付近の街道の両側には松が描かれており、元禄年間の羽州街道,弘前市の場合は、羽州街道の名残の松が一本、千年公民館の前にあるほか、旧西浜街道沿いに名残の松が点在しているだけである
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

街道は「羽州街道」と呼ばれるもので、県内では碇ヶ関-堀越-弘前-藤崎-浪岡-新城(しんじょう)から奥州街道,地籍図(図64)などをみる限りにおいて、堀越城下町の範囲は、羽州街道が石川方面から向かってきて堀越の集落,図64 堀越城と堀越城下町の地籍図  そしてもう一つは、羽州街道という街道を意識的に城のすぐ脇を,この町屋1は羽州街道が直角に折れた部分を中心として、東西に設けられており、短冊形地割は細い短冊形地割も,町曲輪部分と想定されるのは羽州街道の西側にみられる短冊形地割五筆がそれにあたる。  
通史編2(近世1) (一里塚)

一里塚 「正保国絵図」の中で、一里塚の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道,羽州街道の場合は「大手町境御門より碇関峠御境迄(まで)道程絵図」と「東御門町境より新城村通油川村御札所
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

図25.堀越城縄張り推定復元図  堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,『天和四年堀越村書上絵図』には、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に
通史編1(古代・中世) (鳥取越えの奇襲と安藤次)

地元の研究者によれば、そのルートは、近世の羽州街道の小坂(こさか)峠越えから白石川に至り、その支流七里沢川沿
通史編4(近・現代1) (明治十四年の巡幸)

次いで、一行は九日早朝青森を出発、羽州街道を弘前に向かわれ、浪岡で昼食、その後黒石に回られて、そこの住民
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

なお、巡幸一行は、九月十一日矢立峠を越えて秋田県へ入られ、羽州街道を南下して巡幸を続けられた後、東京の
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

その後も堀越村は、羽州街道の宿場としてある程度のにぎわいを保持したが、貞享二年(一六八五)に、街道のこの
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

道筋は羽州街道の一部、次いで北国街道が大部分を占め、本州北端から京都までの街道と各施設を確定し、各地に
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

一例を挙げると、羽州街道の要地浪岡(なみおか)・目鹿沢(めがさわ)村(現中津軽郡浪岡町)では、凶作で減収,碇ヶ関は羽州街道最大の関所であったが、山中にあるため、早瀬野口など他の間道から通行手形を持たない旅人の
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

もともと藤崎の地は、近世には羽州街道の宿駅で、なおかつ平川に臨む水陸交通の結節点にあり、岩木川を利用して
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

津軽領最大の関所は羽州街道沿いの碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)であったが、ここでは形式的
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

図28 堀越城縄張り推定復元図  堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,大手虎口Aは、この羽州街道からおそらくa地点にあったであろう木橋を利用して曲輪Ⅲに入る形となる。
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