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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (三代信義)

寛永十四年(一六三七)に幕府老中から島原の乱が伝えられると、翌十五年には領内のキリシタン七三人を火罪に
通史編2(近世1) (領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)

松前と幕府との間の飛脚船にも犾が徴用されており、老中奉書のような幕府の意志決定を伝える重要文書の運搬に
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

越後高田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より越後高田領,の検地を命じる老中連署奉書を受領した(資料近世1No.八四二)。  ,、相続問題が発展して御家騒動となり(越後騒動(えちごそうどう))、家綱政権下において、大老酒井忠清、老中稲葉正則,幕府勘定組頭佐野正周から内々に、老中は年内に検地を終了させたい所存であるとの意向が伝えられ、危機感を抱,検地終了の報告は、八月二日に江戸藩邸から老中・勘定頭・同組頭宛てに行われ(「江戸日記」天和二年八月二日条
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

嘉永二年(一八四九)五月三日に海防掛老中牧野忠雅に提出された藩主順承名の願書(嘉永二年閏四月十二日付),幕府老中水野忠邦(みずのただくに)が中心となって実施された天保の改革では、このころ中国で勃発したアヘン
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

たとえば、安政元年閏七月十八日に箱館奉行竹内保徳が幕府老中へ差し出した伺書(『大日本古文書 幕末外国関係文書,同年八月晦日に竹内に対して下された箱館支配に関する細目を定めた幕府老中下知状(げちじょう)(同前、下知状,安政元年十二月、箱館奉行堀利煕は、老中に対して、蝦夷地上知実施の際の見込みについて上申した。
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

いていた津軽弘前藩は、独力では領内の沿岸警備に当たることができないとして、文化五年(一八〇八)、幕府老中,これに対して、老中は隣領に依頼するよう命じた。
通史編2(近世1) (箱館開港をめぐる全国的動向)

和親条約の規定によってアメリカから総領事ハリスが安政三年に来日し、老中阿部正弘(あべまさひろ)や大老井伊直弼
通史編3(近世2) (平清水三右衛門による作陶)

その後、川口九左衛門(かわぐちきゅうざえもん)の上ヶ屋敷に焼物細工所設置の許可を得て、家老中の了承のもと,これは前回の元禄五年の焼成で家老中の評価が高かったことが幸いした。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永十三年(一六三六)七月二十六日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、花山院忠長の赦免を伝える。,●寛永十三年(一六三六)、幕府老中、津軽信吉へ、朝鮮通信使の日光参詣に、鞍置馬の供出を命じる。,●寛永十四年(一六三七)十二月三日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、肥前島原と肥後天草にてキリシタンの,●正保二年(一六四五)十二月二十七日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、樽・肴献上を感謝する。,●正保四年(一六四七)八月十日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、長崎へ黒船入津を伝達する。
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

この時期、松平定信の改革路線を引き継いだ「寛政の遺老(かんせいのいろう)」と呼ばれた老中の松平信明(まつだいらのぶあきら,中心とする人々の死去・辞任が続き、将軍家斉の側近として台頭し、幕府財政を預かる勝手掛(かってがかり)老中
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

. 2 福島正則津軽転封の老中奉書を江戸へ遣わす 8 福島正則の津軽転封を知る 9,老中奉書江戸着,申し渡し 10 (政景、正則の津軽転封を知る) 11 (転封先不明) 信枚の転封先不明,使用させる指示,福島正則の津軽転封中止を知る 福島正則の津軽転封中止 2 福島正則へ津軽転封中止の老中奉書
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

すなわち松平定信は老中に就任して間もない、天明七年(一七八七)七月に「芸術見分」の令を出しているが、これは,信明は定信にしばしば教えを請い、定信も信明を外様ではあるが老中に推挙したく思うほどに高く評価していたという
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

うち元和三年の上洛については、この年五月二十日付で道中にあっても帰国を命じる老中奉書(同前No.三四八,図49.朝鮮通信使の日光社参時鞍馬役を命じた江戸幕府老中連署奉書 目録を見る 精細画像で見る
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

この古文書には、宝永三年(一七〇六)十二月の信政の奥書が記され、判物・朱印状・御内書・老中奉書など、津軽家
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

さらに嘉永六年の大晦日では、江戸表の異国船騒動に関しての戯(ざ)れ唄が記載されているが、「一、阿部(老中阿部正弘
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

この際、忠清は、老中へ言上の取り次ぎについて土井利房へ申し入れるよう指示している。,翌日、老中から幕命によらない出兵は実質的に禁止された(同前)。
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

ただ、順承は幕府老中松平信明の三男から黒石藩主になったため、津軽家の血統を引いていなかった。
通史編3(近世2) (能楽)

衣服は、一門と老中は熨斗目(のしめ)・麻上下(あさかみしも)、物(者)頭で熨斗目所持の者は熨斗目、手廻
通史編3(近世2) (藩政後期)

ごとうへいじ)は藩主から寄進された寺社禄を取り上げたことを痛烈に批判し、耕春院(現宗徳寺)覚源は幕府老中
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

なお、この裁定に際しては、老中土井利勝の藩主信義に対する好意的な言動がみられた(同前No.五六六)。
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

次いで、十一月二十六日、蝦夷地御用掛を命じられていた老中脇坂安宅(わきさかやすおり)の屋敷に津軽・南部
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

これにつき、次のような届書が、四月十九日、当時江戸にいた津軽黒石藩主津軽承保(つぐやす)から月番老中牧野忠雅
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

段階においては、幕府の番方の人々が動員される一方で、参勤交代で江戸に参府した大名に対して、火事の最中に老中
通史編2(近世1) (糧米確保)

津軽信政は、九月二十三日に、老中戸田山城守(忠昌)・柳沢出羽守(保明)に領内の凶作の様子を報告している
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

桜田門外の変) 11月1日 皇妹和宮を将軍家茂へ降嫁することを発表 文久2年 1862 1月15日 老中安藤信正
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

海防体制 天保十三年(一八四二)七月二十六日、幕府はそれまでとっていた異国船打払令をやめ、このころ老中首座水野忠邦
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

藩主が今朝、老中廻りをなされ比較的早くお帰りになる。今日、神宮寺の僧侶が津軽へ出発した。  
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

幕府から出された老中奉書は本多正信と大久保忠隣(ただちか)の連署であり、正信は秀忠の、忠隣は家康の意志
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

幕府の蝦夷地政策 ロシアの南下の実態は、天明五年(一七八五)と翌六年に、老中田沼意次(たぬまおきつぐ
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

その上で、打開策として、状況を幕府老中に伝えて大名課役や江戸での交際を控えるべきと主張する。
資料編3(近世編2) (【解説】)

なお、老中松平定信を中心とする幕閣は、このような蝦夷地をめぐる一連の動向の中で、弘前・盛岡両藩領の三~
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