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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (考古学史年表)

考古学史年表 [考古学史年表]  [考古学史年表(国内・県内のおもな出来事)]  [考古学史年表,(日本考古学史)]  [考古学史年表(東北地方考古学史)]  [考古学史年表(青森県の考古学史)], [考古学史年表(世界の考古学史)]  [考古学史年表(青森県の考古学研究者一覧)]   / 考古学史年表
通史編1(自然・原始) (二 考古学研究の展開過程)

二 考古学研究の展開過程 青森県における考古学研究は、記録によると江戸時代に始まり、明治時代に入って,今ここに、本県の考古学研究の歩みを区分すると、  第Ⅰ期は、江戸時代から明治維新を経て、人類学会創設,これら先覚者のたゆまぬ努力と苦労をしのびながら、本県考古学研究の歩みを振り返ってみよう。 / 二 考古学研究の展開過程
通史編1(古代・中世) (三 考古学からみた中世的世界)

三 考古学からみた中世的世界 近年の発掘調査の進展は目を見張るものがある。,とくに津軽地域においては、原始・古代はもちろんのこと中世という時代においてさえ考古学的な遺構や遺物の発見,考古学資料は、中世社会に生きた人々の具体的生活、つまりどのような建物で生活し、どのような食器で食事をし / 三 考古学からみた中世的世界
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

第2節 中世・近世の考古学研究略史 ここで若干の研究史を概説してみたい。,最初に青森県の中世・近世遺跡を考古学的な視点でとらえたのは、中谷治宇二郎である。,しかしながら、戦前の考古学は『歴史考古学』という名称は持ちながらも*3先史時代の優位にかなうような状況,昭和51年に鈴木克彦が創刊した考古学研究誌『考古風土記』は、その創刊号の中で中世考古学特集を組んで、ホット,昭和55年(1980)11月に浪岡町で行われた青森県考古学会総会で、村越潔が「考古学上よりみた青森県の / 第2節 中世・近世の考古学研究略史
資料編1(考古編) (第1節 古代に関する考古学研究略史)

第1節 古代に関する考古学研究略史 本県の考古学上での古代研究の歩みを概観すると、大きく明治時代から / 第1節 古代に関する考古学研究略史
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

36-4) 1950年 *10 岩月康典 「下北半島に於ける土師器の竪穴」(考古学ノート5) 1951,40-1) 1954年 *18 江坂輝弥 「青森県下北郡稲崎遺跡」(日本考古学年報3) 1955年,の動向-青森県の考古学の現状-」(東北考古学1) 1960年 *39 江坂輝弥 「先史時代における奥羽地方北部,3)北海道考古学会 1967年 *67 平山久夫 「津軽平野における土師器の低地遺跡」(考古学ジャーナル,61-4) 1976年 *136 桑原滋郎 「須恵系土器について」(東北考古学の諸問題)東北考古学会編
通史編1(自然・原始) (現在の態勢)

現在の態勢 以上、本県の考古学研究を第Ⅰ期から第Ⅲ期に分け、それらの中で江戸時代から昭和三十三年(一九五八,また、昭和四十五年(一九七〇)を境として、県内の考古学研究者の間に情報交換や研究協力の気運が生じ、同年十二月,には研究者を糾合した青森県考古学会が発足し、会誌『青森県考古学』(発足当初は青森県考古学会々報)を刊行,そのほか、弘前大学で考古学を学んだ卒業生による『弘前大学考古学研究』(一九八一年創刊)、県内外研究者の,論考を集めた『考古風土記』(一九七六年創刊~一九八四年九号で終刊)、八戸地区の研究者が結成した奥南考古学会
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

〈注一覧…第2章〉 *1 杉原荘介 「群馬県岩宿発見の石器文化」(明治大学文学部研究報告 考古学1),4) 1955年12月 *17 江坂輝彌 「青森県八戸市小舟渡平遺跡」(日本考古学年報4) 1955,年12月 *18 江坂輝彌 「青森県三戸郡館平遺跡」(日本考古学年報7) 1958年3月 *19 ,43-2) 1957年12月 *21 名久井文明 「北日本縄文式早期編年に関する一試考」(考古学雑誌,』(北海道石狩町教育委員会) 1992年3月 *49B 村越潔 『円筒土器文化』(雄山閣考古学選書10
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

第三節 注および引用・参考文献 (1)安田喜憲 『環境考古学事始』 NHKブックス三六五 一九八〇年,海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』一四-三 一九五四年 (3)森浩一・佐原眞監修 『考古学,』四 一九五五年 (10)江坂輝彌 「青森県八戸市小舟渡平遺跡」『日本考古学年報』四 一九五五年,(11)江坂輝彌 「青森県三戸郡館平遺跡」『日本考古学年報』七 一九五八年 (12)青森県教育委員会,(20)江坂輝彌 「青森県三戸郡大館村十日市字赤御堂貝塚の調査」『日本考古学協会研究発表要旨』一八
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

  B 中谷治宇二郎 『日本先史学序史』 岩波書店 一九三五年十二月   C 村越潔 「永禄日記」『考古学,『精説文化財保護法』 新日本法規出版株式会社 一九七七年八月 (11)渡辺兼庸 「古物学の底本」『考古学雑誌,』三六-四 一九五〇年十一月 (74)A 清水潤三 「青森県西津軽郡亀ヶ岡遺跡」『日本考古学年報』三,(75)A 清水潤三 「青森県東津軽郡宮田遺跡」『日本考古学年報』四 一九五五年十二月   B ,」『日本考古学年報』一〇 一九六三年三月 (97)江坂輝彌 「青森県八戸市長七谷地貝塚」『日本考古学年報
資料編1(考古編) (12.牧野Ⅱ遺跡)

した際、多量の遺物が出土し、それを伝え聞いた県立弘前工業高校岡田郁雄教諭の調査を経て、弘前大学教育学部考古学研究室,土偶(縄文晩期) 動物形土製品(縄文晩期) ※参考文献 1)弘前大学教育学部考古学研究室,「牧野Ⅱ遺跡出土遺物について(1)」(弘前大学考古学研究1)1981年10月 2)岡田康博「牧野Ⅱ遺跡出土遺物,について(2)-土偶-」(弘前大学考古学研究2)1983年4月
通史編1(自然・原始) (一 はじめに)

特に、この傾向は文字による記録の出現以前を研究の舞台とする考古学に強かった。,今日、青森県における考古学上の数多い新事実の発見は、先述のような諸事情が背景に存在する結果と思われる。,明治以来、考古学に魅力を感じ、斯学の発展の礎となった先覚者は多い。
通史編1(自然・原始) (第四節 注および引用・参考文献)

後篇 吉川弘文館 一九九〇年(普及版一二刷) (7)A 須藤隆 「東日本における弥生文化の受容」『考古学雑誌,-一 一九八七年  B 市川金丸・木村鉄次郎 「青森県松石橋遺跡から出土した弥生時代前期の土器」『考古学雑誌,一九六二年  B 第三節(60)に前掲 (10)石附喜三男 「鈴谷式土器の南下と江別式土器」『北海道考古学
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の広がり)

岡遺跡 (個人蔵) 大洞BC式注口土器 弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (東北大学文学部考古学研究室蔵,) 大洞C1式壺形土器 弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (東北大学文学部考古学研究室蔵
資料編1(考古編) (〈引用・参考文献〉)

旧石器時代研究の歴史と現状」『旧石器時代の東北』 1981年9月 市川金丸「旧石器時代」『青森県の考古学
資料編3(近世編2) (「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))

弘前市立博物館協議会委員  〃     千葉寿雄  元弘前市教育委員  〃     村越潔   青森大学考古学研究所長,弘前市立博物館協議会委員  〃     千葉寿雄  元弘前市教育委員  〃     村越潔   青森大学考古学研究所長,   【専門部会】  Ⅰ 自然・原始・古代・中世専門部会 部会長    村越潔   青森大学考古学研究所長
資料編1(考古編) (11.牧野Ⅰ遺跡)

竪穴住居跡の存在も想定されたため、前述の高校と弘前大学教育学部考古学研究室の合同調査として、昭和44年,) 円筒上層b式土器 ※参考文献 福田・古市・三浦「弘前市牧野Ⅰ遺跡発掘調査報告」(弘前大学考古学研究
通史編1(自然・原始) (明治時代)

百科事典にあったArchaeologyを訳し、これを『古物学』と題して出版し、ヨーロッパで考えられていた考古学,E.S.Morse (日本考古学協会『モースと大森貝塚』1978年 表紙より) 大森貝墟の,碑 大森貝塚の碑  以上のように、我が国が科学的な考古学の黎明期を迎えていたころ、岐阜県出身
通史編1(自然・原始) (凡例)

                          (資1・図版番号) 一、本書に掲載されている考古学上, 第二章 第一節~第四節…村越潔 年表 津軽地方の気象特性と災害・津軽地方災害年表…二部濱男   考古学史年表
通史編1(自然・原始) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分))

弘前市立博物館協議会委員長   〃    千葉寿雄 元弘前市教育委員   〃    村越潔 青森大学社会学部教授・考古学研究所顧問,弘前市立博物館協議会委員長   〃    千葉寿雄 元弘前市教育委員   〃    村越潔 青森大学社会学部教授・考古学研究所顧問,【専門部会】  Ⅰ 自然・原始・古代・中世専門部会 部会長    村越潔 青森大学社会学部教授・考古学研究所顧問
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

〈注一覧…第4章〉 *1 考古学資料によって中世・近世遺跡と認定できる遺跡のみ抽出した。, 浪岡町教育委員会 『平成2年度 史跡浪岡城跡環境整備報告書Ⅱ』 1991年 74) 小山彦逸 『考古学,五所川原市 『五所川原市史資料編1』 1993年 82) 半沢紀 「柏村桑野木田出土の遺物」(青森県考古学第,昭和4)年3月 *3 江上波夫・ほか 『館址』 1958(昭和33)年 *4 後藤守一 『日本歴史考古学,出土することから東北地方では室町時代まで石器を使用していたと考えたが、山内はそれについて痛烈に反駁し「考古学
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

(五)発掘調査から見た遺跡 戦国動乱の激化を知る方法の一つに考古学による発掘調査の成果が挙げられる。
通史編1(自然・原始) (まえがき)

の旧石器の発見をはじめ、十腰内遺跡出土の遺物は、東北北部における縄文時代後期の標式となるなど、当時の考古学界,岩木山麓をはじめ、弘前市や津軽地方における考古学調査の成果を、「津軽の原始時代」と題し、遠い祖先の活動
通史編1(自然・原始) (一 北方に広がる円筒土器文化)

そのため一万年を超えるほど古い最初の段階と、弥生時代へと引き継ぐ段階とでは文化の内容に差がみられ、考古学
通史編1(自然・原始) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

センター 田舎館村教育委員会 大館市立中央図書館 開成技術株式会社 国土地理院 東北大学文学部考古学研究室
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

相前後して、政治的概念として文献に登場する「蝦夷」の時代の前代を象徴する考古学的概念として、在地の系譜,なお、津軽地方における平安時代の律令政府による開拓は、前代とは明らかに異なった様相を呈しはじめ、考古学的
資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

協力機関及び協力者一覧 〈順不同、敬称略〉 文化庁 東北大学文学部考古学研究室 弘前大学教育学部村越研究室
通史編1(古代・中世) (環壕集落の性格)

環壕集落の性格 一六世紀から一八世紀の寛政元年(一七八九)、アイヌ蜂起の時期頃までに位置づけられる考古学的調査
通史編1(古代・中世) (防御性集落登場の背景)

こうした環壕集落を「防御性集落」と呼ぶことには、考古学の立場からの反論もあるが(詳しくは本章第四節参照
通史編1(古代・中世) (環壕集落の構造と年代)

の対象を明確にしえないこの種の施設に対して、機能が明確に限定されてしまう「防御性集落」という名称は、考古学的,先にも触れたように、この時期の東北地方北部は、考古学的には地方色が顕在化してむしろ社会の安定化がうかがわれるのであり,アイヌ文化のチャシとの関連で説明されることがあるが、その多くは防御施設としての観点から論じられており、考古学的
資料編1(考古編) (4.発掘調査以外の遺跡)

1985年)、写真によって全国誌に紹介したりすること(成田紀夫 1981年)はあっても、実測図を入れて考古学的
通史編1(古代・中世) (四 中世前期の交易)

の消費地に運ばれると、二次加工が施されたり、消耗品的に使用されるため、現在まで残存することは少なく、考古学的資料
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

しかし堀越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている
資料編1(考古編) (第1節 中世・近世遺跡の概観)

第1節 中世・近世遺跡の概観 中世・近世遺跡の概念を考古学資料から見ると、日常生活容器として陶磁器が,における中世・近世の遺跡を見ると、そのほとんどは昭和50年代以降に調査された遺跡であり、表採品も含めて考古学的
通史編1(古代・中世) (ふたつの広域火山灰)

ここでは平安時代に相当する時代の津軽地方を考古学的に検証してゆくことにしたい。  
通史編1(古代・中世) (陶磁器と地域社会)

いみじくもこの区分は、中世から近世に至る和人社会とアイヌ社会との分断の歴史と連動するものであり、考古学資料
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

(2)太平洋戦争後から現代まで この時期は、戦時中の皇国史観から脱却し、歴史考古学の分野での本格的な,昭和20年代の後半から30年代には、在京の研究者を中心として本県の考古学調査が活発に行われた時期である,昭和48年(1973)には、青森県教育委員会に文化課が新設されると同時に、多数の考古学専門職員が配置され,昭和30年代までの断片的な考古学研究も、結果的にはそれを補う役割を果たした面もあったが、昭和40年代から,できるし、東日本人のなかで最後に日本民族化した人々といってもよいであろう」*334に集約されており、近年の考古学研究者
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

また、田中は、大正十五年(一九二六)に県師範学校へ赴任し、国史および地理の講義を担当する傍ら考古学の研究,我が国の考古学は、土器の緻密(ちみつ)な研究の点において世界を凌駕(りょうが)するといわれている。,さらに、地質学で用いられる層位(そうい)学の原理を考古学に適用させ、里浜貝塚や河南町宝ヶ峯(かなんちょうたからがみね,紀元二六〇〇年」ということで、八紘一宇(はっこういちう)の理想実現に向かって皇国史観がもてはやされ、考古学,昭和十八年(一九四三)五月に史前学雑誌、十一月古代文化、翌年九月は人類学雑誌と考古学雑誌が、戦時下のため
資料編1(考古編) (1.旧石器時代の概観)

したがって、相澤による同層中からの石器発見は、考古学界にセンセーションを巻き起こしたのである。,現在は、考古学と地質学とがタイアップして、関東ローム層の詳細な分類と年代が示され、それを基本に全国各地
資料編1(考古編) ((1)明治時代から太平洋戦争まで)

*6を唱えていた中、文献に見える蝦夷征伐の時期を指向しており、この意味においてもこの報告は、本県古代考古学
通史編1(自然・原始) (発刊にあたって)

次に「原始時代」では、いま最も注目される近年の考古学界の新研究で、弘前周辺の遺跡、出土品の調査について
資料編1(考古編) (あとがき)

また頁数が予定をはるかに超えために、今回は自然分野の「気候」と、考古の分野に加える予定であった「考古学研究
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

を顕す古代の津軽地方 文献史上では空白あるいは謎とされている津軽地方の一〇世紀後半から一一世紀は、考古学的
通史編1(古代・中世) (三 中世の道具と生産)

) 写真173 浪岡城の鉄鋌(右)  このような鉄生産にかかわる事例や陶磁器の動きのように、考古学資料
通史編1(自然・原始) (新編 弘前市史 通史編1(自然・原始) 目次)

を及ぼした地震と特徴 ……………………  240 第二章 津軽の原始時代  245 第一節 青森県の考古学研究史,…………  246   一 はじめに ………………………………………………………  246   二 考古学研究,の展開過程 ………………………………………  247   三 第Ⅰ期考古学研究の曙の時代 ………………,…………………  366   五 津軽地方災害年表 (近・現代) ……………………………  376 考古学史年表
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった堀越城
通史編1(古代・中世) (七・八世紀代の津軽地方)

定住的集落が営まれ、稲作のほかアワ・キビ・ヒエ・マメ類の雑穀栽培、シソ・アブラナ類の栽培が行われていたことが考古学的調査
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

写真167 『庭訓往来』 目録を見る 精細画像で見る  交易や文化交流という視点から、考古学的
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

それだけに、現在も各地に残る中世の城館跡は、板碑・五輪塔などの金石文資料や、考古学的な出土遺物・遺跡とともに,もちろん、この方法では地中に埋もれた遺構の発見は不可能で、最終的には考古学的な調査・研究との協力が必要
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

にさかのぼることが、近年の都市研究によって明らかにされている(前川要「中世都市遺跡調査の視点」『季刊・考古学,』三九号・特集中世を考古学する、一九九二年、など)。
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