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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (瓦職人)

瓦職人 瓦職人には経験年数と技能の程度によって位付けがあった。 / 瓦職人
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

諸家業と職人 弘前城下における町人の家業についてわかる最も古い史料は、先に引用した元禄年間(一六八八,御役職人(藩に営業税を納める職人)は二八職種に分類され、この内、研屋・鞘師・塗師・経師(きょうじ)・筆師,御役職人は一九職種に減り、藩の御用を勤めるのは、研屋・鞘師・塗師・金具師の四種は寛政期と変わらないが、 / 諸家業と職人
通史編4(近・現代1) (新鍛冶町の方円館)

の鍛冶町・新鍛冶町・桶屋町界隈(わい)は、鉄工所を中心とした町工場や、桶屋などの家内工業が軒を連ねる職人町,一日の労働で疲れた職人たちにとっての楽しみといえば、寄席で聞く浪曲、義太夫、演説、手品など。,川留亭はそうした職人たちの客層で成り立っていたのだが、その職人たちもやがて映画の魅力に引きつけられて慈善館, 方円館では、映画の幕間に短い演芸ものを挟むという「映画と実演」の二本立て興行を打ち出し、その職人町
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

次に、職人集団であるが、職人町として、紺屋(こんや)町・鞘師(さやし)町・鍛冶町・大工町・銅屋(どうや,稼業は、いまだ職人が集住するようになってはおらず、各町に散らばって居住していたことがわかる。,また、藩庁の御用職人もしくは御用役職人の稼業には、「御かうやくみかしら」「御鉄ほう屋」などのように、「,こうした、職人集団の出自をその由緒書からたどってみると、津軽出身者以外では、秋田・加賀・近江・山城・和泉,つまり、彼らによって職人集団の礎が築かれたということができよう。
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

弘前城築城のために、大工などの職人を江戸その他から数百人も呼び寄せ、周辺の村にも日割りの人夫を課している,築城は、当時の技術の粋を集めた工事なので、建設工事に関係した職人の中に、漆工に関する知識や技を持つ者がいたであろう
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

実施されるということは、城下で家を壊し、農村部で新たに家を建てるということを意味し、そこには莫大な数の職人,つまり、土着策推進には職人の確保が不可欠であるということである。,「秘苑」同年二月十四日条によれば、城中の普請と在宅藩士が勤仕のために使用する長屋の建設のために諸職人が,したがって、城下の職人は使えないから、それらが済むまで他の一般の普請は差し止めとし、在宅の者は「在大工,職人の調達ができなかった大きな理由の一つは、蝦夷地警備にかかわっての職人の雇用であった。  
通史編3(近世2) (瓦の種類と生産量について)

 瓦 数 25,000枚   総 経 費 5貫638匁   内 訳 瓦職人,2094人日用銭 2貫421匁   瓦役人・瓦職人7312人の賄代 1貫385匁2分 手伝人足
通史編3(近世2) (織座)

紺屋(こうや)と称し、藍染を主とする染物職人の町)の北側にあり、西浜街道(西浜は津軽半島の西側日本海に,場所(現明の星幼稚園の辺り)  なお元禄十三年(一七〇〇)七月、織物所の建設に先んじて上方の織職人,職人たちは織場のできるまでの間、最初は本寺町(現市内元寺町)に借家を得、糸取り等の作業をしていたが、見物人,なお織物職人はこの後もたびたび来弘していて、元禄十五年には男二八人、女二三人、幼男九人、幼女一三人到着
通史編1(古代・中世) (五 城館の発掘成果)

五 城館の発掘成果 城館のなかでは、城館主や一族郎党そして家臣団および従属する下人・職人・工人・商人
通史編2(近世1) (信枚の築城)

築城のため、大工などの職人も多数江戸やその他の地域から呼び寄せ、城は一年足らずの内にほとんど完成した。,慶長十六年(一六一一)には城の築造がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

石神村九左衛門・青女子村(あおなごむら)専助・佐藤吉左衛門・池田源兵衛・清五郎のほか蒔絵師・六右衛門ら当時の職人,職人についてみると、大工六三、鞘師一二、紺屋一四〇、たばこつくり三二など、約三〇種、四六〇軒ほどの居住者
通史編3(近世2) (富田御屋敷跡における製陶)

仕込金一〇〇〇両や職人扶持申し出等の記述はあるが、築窯・焼成に関する記録は認められない。
通史編5(近・現代2) (弘前手織)

元禄七年(一六九四)、津軽塗と同様に四代藩主信政が現在の弘前市紺屋町に製糸場および織座をつくり、京都から職人,弘前手織が商品として一般に販売されたのは幕末の頃からで、金木屋武田甚左衛門が桐生から織布職人を招いて製糸場
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

触れたところであるが、百姓は郷夫(ごうふ)として動員させられていたのであり、足軽の多くは百姓・町人・職人,寛政十一年の東蝦夷地仮上知の際に当藩が用意した足軽五〇〇人の大半は町人・職人・郷夫であり、無苗字であることが,不都合であることから、以後職人・郷夫といった名目をやめ、勤番中は足軽として苗字を与えているのは、このことをよく,の内、多くが「浮腫病(ふしゅびょう)」で死亡するが、死亡者の約七割が、強制的に動員された百姓・町人・職人
通史編2(近世1) (諸役と運上)

このほかにも、塗師(ぬし)・鍛冶・桶屋・畳屋などの職人に対する役銀も、多くは同年に定められた。  ,寛政八年(一七九六)には、御役職人が二八種あり、軒数では大工が最も多く、一一五軒あった。
通史編2(近世1) (家臣団構成)

黒石藩成立以前で最も整ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の名前が記され、さらに職人頭
通史編5(近・現代2) (洋風建築の黎明)

これら建築の建設は、外国人施主の下で日本人の棟梁や大工・石工・左官の職人が当たったが、いち早く異国の先進構造技術
通史編2(近世1) (町支配の役人)

町支配の役人 「町支配并びに諸職人と知行取の由緒書」(資料近世1No.一一五一、故八木橋武實氏旧蔵)
通史編4(近・現代1) (愛光幼稚園の設立)

当時桶屋町、鍛冶町、新鍛冶町一帯には職人が多く住んでいて、それらの家庭は職業柄、幼児の世話に手が回りかねるところが
通史編1(古代・中世) (衣の道具)

や差歯になった下駄(写真176)、さらに独狐(とっこ)遺跡では子供用の小型下駄もみられ、下駄づくりの職人
通史編3(近世2) (西坂下御紙漉所)

天和二年(一六八一)十月、城中で催された御能見物を許された諸職人の中に、御紙漉屋喜兵衛と御紙漉白川七右衛門
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」通用の実態)

さらに、上納すべき金銀米銭を持たない「小商人ならひニ職人」には標符が与えられず、標符の流通範囲から除外,もちろん職人や日雇取りの賃銭は標符によって渡されることになっており、正銭での手取りはなかったのであるが
通史編3(近世2) (変わり塗と池田源兵衛)

金七両五人扶持、大江宇右衛門が金八両五人扶持であったが、帰国したときの源太郎は、金三両二人扶持(「町年寄役人職人調帳
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

一方、職人集団として鍛冶(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・大工三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一,一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士・足軽・小人・中間や藩から扶持米をもらっていた職人
通史編4(近・現代1) (町道場の設置)

階級的な地域を形成しており、藩政時代から上級家臣の居住する地域、中級またはそれ以下の家臣の居住する地域、職人
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と反戦デモ)

分析し、農家が五四・五%を占めて近代的な工場労働者が少なく、工業戸数六千の中で働く、五・六%の労働者も職人
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

彼らはすぐに矢嶋の敵陣へ連行され、いろいろと尋問されたが、職人であった今之助には軍事や政治向きの話はまったくわからず
通史編1(古代・中世) (住の道具)

、大工道具が出土すること自体稀(まれ)な事例であることを考えると、境関館には日常的に大工の仕事をする職人
通史編3(近世2) ((三)住居)

末年「津軽弘前城之絵図」と慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」によれば、町人町(町屋、商人町と職人町
通史編4(近・現代1) (大正新風俗)

その後も注文が増え続けたため、東京から職人を招き、アンパン、バターパン、クリームパン、ジャムパンなどを
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

この背景には、元禄八年の大飢饉によって藩財政が窮乏し、翌年「減少」と呼ばれる政策によって下級武士・御用職人
通史編3(近世2) (織)

の需給、特に絹織物については、藩御用の必需品であったこともあり、古くから先進地の江戸や福島から絹織物職人
通史編2(近世1) (領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)

ただし不足している諸職人については願いにより新たに借家札を交付したり、その業種によっては、在方から弘前
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

諸職人や日雇いも不足し、飢饉の反動からか、領内一帯が好景気に沸いたのである。
通史編2(近世1) (町役)

同年六月一日付で、弘前町中の伝馬・人足をやめ、町屋敷に居住する者は御用屋敷(役者屋敷・鍛冶などの御用職人
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

なお、派遣された足軽のほとんどは、郷夫(ごうふ)として動員された百姓や職人であり、本来の軍団編成ではなかった
通史編3(近世2) (町方の軍事負担)

16はその一覧であるが、三町全員では一五人の名がみられ、新町から七人、駒越町から四人、平岡町から三人の職人
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

慶安四年(一六五一)四月、同藩は青森の町人と職人に地子(ぢし)(田以外の土地、屋敷などに賦課された税),これより先、青森の町方へは残らず地子を納入するように下命したが、鍛冶衆からの納入がなく、改めて町人・職人
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

、すなわち家臣団編成の問題を始め、商・工業者の集住がまだ本格的に進んでいなかったことや、商・工業者・職人
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

そのことから、武士はもちろん居住していたと考えられるが、武士以外の商・工業者や技術職人といった、都市民
通史編2(近世1) (町方支配)

のこと   ⑤升樽極印打(ごくいんうち)支配のこと ⑥粒油・水油支配のこと   ⑦城下での買物監督 ⑧諸職人支配
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

鍛冶町、銅屋町、桶屋町など藩政時代からの職人町も、新たに軍用品の注文を受けて活況を取り戻した。
資料編3(近世編2) (二 町人の住居)

二階は、現在は背後に増築されて部屋ができているが、本来は「にわ」上の表から二間分だけで、ここに桶職人の
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

多数の藩士を蝦夷地に派遣していくということは、藩財政はもちろん、それに伴う藩の制度のありようや、農民・職人支配
通史編4(近・現代1) (町の様子)

然し夜中に乗じて下町連中は石戸谷末九郎の一派を嗾(そそのか)して銅細工の職人を呼んで夜中に城内の建造物
通史編4(近・現代1) (食生活の変化)

四十一年に売り出した西洋御料理は、一人前上等二円・中等一円五〇銭・並等一円で、東京から西洋料理人と菓子職人
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

ただ、この時暇を出された者の多くが藩から扶持米等を支給されていた職人、町扶持人、足軽、小人(こびと)、
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

この部分は商・工業者や職人が居住していた可能性が高い場所である。
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」の形態と呼称)

えに御員数方へ行けば、何匁何分と記した「横帳面の小冊」が員数方から出され、それをもって医者への薬代や諸職人
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

十六日、今日から杜氏(とうじ)(酒造りの職人)九人で酒一番火を入れる。  
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