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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一,)十月、豊臣秀吉は奥羽再仕置を終えてすでに奥羽から帰っていた浅野長吉を総奉行に任命し、肥前名護屋(ひぜんなごや / 二 肥前名護屋での「日本之つき合」
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

道案内をするよう命じ(仮道入明(かどうにゅうみん))、翌天正十九年(一五九一)十月、その前線基地として肥前名護屋,図13.肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型  この朝鮮出兵に際し伊達政宗,また、『太閤記』所収の肥前名護屋在陣衆に、津軽氏の場合一五〇人の兵が書き上げられ、さらに『天正記』には,図15.肥前名護屋城図屏風  秀吉は、晋州城攻略を下命した後、一方では講和にも乗り出した。,豊臣政権としては、朝鮮半島の厳しい戦局に直面している状況に鑑みて、肥前名護屋の地に在陣していた各武将に
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

これは文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略に際して、本州北端から九州の肥前名護屋へ、当該地域の大名が出陣するのを
通史編2(近世1) (人質徴収)

豊臣政権は、全国規模での軍事動員が可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年
通史編2(近世1) (刀狩り)

(一五九二)十二月、南部領では一戸(いちのへ)での「刀かり」が課題の一つとなっていたようであり、当時肥前名護屋
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

…  25   三 鷹献上と鷹保護 ………………………………………………  31 第三節 九戸一揆と肥前名護屋,………………  41   一 九戸一揆と動員大名 …………………………………………  41   二 肥前名護屋
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

南部信直が肥前名護屋(なごや)に在陣中の十二月晦日の段階でも、「在府」については、自分が国元に帰ってから
通史編2(近世1) (知行安堵)

津軽・南部両氏は「肥前名護屋在陣衆」の一員として動員されているので、両氏の知行石高は、少なくとも天正十九年十月
資料編2(近世編1) (【解説】)

にかけての奥羽日の本(ひのもと)仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸一揆(くのへいっき)出陣、肥前名護屋
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

図20.浅野長吉の陣所が置かれた弾正丸 図21.肥前名護屋城諸侯陣跡之図(部分) 右下に津軽為信
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄元年(一五九二)十二月晦日、津軽為信、肥前名護屋において、南部氏、秋田氏との和解を望み、徳川家康
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