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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (東北縦貫自動車道の全通)

東北縦貫自動車道の全通 東北縦貫自動車道は、青森線の十和田-碇ヶ関区間(二八・一キロメートル)が昭和六十一年七月三十日,この結果、東北縦貫自動車道の浦和-青森間(六七四・七キロメートル)が全線開通し、首都圏と青森市が一本の,東北縦貫自動車道の全通により、首都圏と青森県は約二時間短縮されて約七時間半で結ばれることになり、地元では,、前年の春以来、東北新幹線に接続する特急バス「ヨーデル号」を、弘前-盛岡間に運行してきたが、東北縦貫自動車道 / 東北縦貫自動車道の全通
通史編5(近・現代2) (運輸事業の申請)

運輸事業の申請 この時期には、道路整備と並行して自動車による運送事業の申請がなされ、昭和二十四年に弘前運送株式会社発起人代表,から申請された、小運送のためにする一般貸切貨物自動車運送事業が許可された(同前No.四一二)。,また昭和二十五年には、霊柩のためにする一般貸切貨物自動車運送事業経営免許申請(弘前衛生舎)及び一般乗合旅客自動車運送事業経営免許申請,(弘前乗合自動車株式会社設立発起人)が提出された(同前No.四一四・四一五)。,前者は、当時自動車による霊柩事業が皆無であり、専用外のトラック及び馬車などで輸送するというかなり不便を
通史編5(近・現代2) (タクシー事業の進展)

におけるタクシーの営業の始まりについても定かではないが、昭和二年(一九二七)六月十七日には既存の弘前自動車業組合,(和徳町大塚自動車方)という同業組合が改組され、中弘自動車営業組合(組合長富田孫七、事務所中土手町富田方,ってもこれに対抗して行くのが困難に見られるようなありさまであるが、五十銭タクの脅威は人力車を越えて弘前乗合自動車,にも及ぼし、実際五人五十銭でタクシーに乗れば青バスより心地よいというのでバスの客が減じたので、乗合自動車側,往復十五銭として大宣伝しているが、時節柄この割引を永続的なものにして市民の便宜を図ろうという案が出て十七日、自動車会社小山内社長
通史編5(近・現代2) (バス事業の本格化と戦時下統制)

してきたが、鉄道輸送に比べて施設上簡易・迅速で、頻繁輸送と交通量の少ない地方の連絡輸送に適するものとして乗合自動車,本格的なバス会社として、昭和五年(一九三〇)六月に既存の齋吉旅館自動車部と大室旅館自動車部が合併し、弘前乗合自動車株式会社,昭和十一年、石郷岡市長のときには弘前市が弘前乗合自動車を買収し市営バスの実現に乗り出そうとしたが、買収額,しかし、弘前乗合自動車側は新車輛の購入と路線の拡張によってすこぶる収益を増大させているので、石郷岡市長時代,を買収し、その弘南鉄道の自動車部が独立して弘前自動車(のちに弘南バス株式会社と改称)となるなどしたため
通史編5(近・現代2) (高速交通体系の整備)

高速交通体系の整備 昭和四十一年七月、東北地方の高速交通体系の整備として、東北縦貫自動車道建設(岩槻,一方、同年六月、弘前市議会では平野部路線誘致を決議、市議会東北縦貫自動車道対策特別委員会を発足させ、平地路線,さらに翌月には弘前市が中津軽郡、北津軽郡、西津軽郡の一五市町村に呼びかけ、東北縦貫自動車道津軽地方建設推進協議会,写真175 東北縦貫自動車道 大鰐・弘前インターチェンジ  また、同年九月には、全国新幹線鉄道整備法,このように東北縦貫自動車道および新幹線誘致に関しては、その実現に向けて弘前市の強い意気込みがあったが、
通史編5(近・現代2) (道路舗装の要求)

においては悪路による大きな事故がたて続けに発生していることから、昭和二十五年には弘前交通安全協会長(弘前自動車連合会長,ならびに弘前自動車運転者会長兼任)が弘前市議会に対して道路補修に関する陳情を行っている(同前No.四〇
通史編4(近・現代1) (運送業の活躍)

自動車に関しては、明治の末に個人所有の自動車が運転されていたというが、乗合自動車の開始は大正十年(一九二一
通史編5(近・現代2) (市街地の交通緩和対策)

市街地の交通緩和対策 昭和三十八年(一九六三)には、自動車の増加に伴い、旧市内の主要道路に通じる裏通,昭和三十八年十月十四日弘前市が行なった交通量の調査結果によると、代官町調査地点に於ける自動車類の交通量,この年にはこのほか、同連合会からは東北縦貫自動車道建設促進、公営駐車場用地買収、奥羽線複線化促進、国道整備促進等
通史編5(近・現代2) (バス事業の復興・伸展)

(一九五五)三月、弘南バス株式会社は五所川原市に本社を置く津軽鉄道株式会社からバス事業(一般乗合旅客自動車運送及,び一般貸切旅客自動車運送事業)の譲渡を受けた。,その後、西津軽郡及び北津軽郡で個人営業していたバス企業を次々と買収し、昭和十六年には国策としての自動車事業
通史編5(近・現代2) (幹線道路建設)

まず、弘前市とその近郊の基幹道路建設に関して見ると、まず東北縦貫自動車道の開通が重要である。,東北縦貫自動車道は、昭和五十四年(一九七九)に、青森から大鰐・弘前インターチェンジ間まで開通し、翌五十五年,国道七号は、平成元年に高田地区が四車線化し、東北縦貫自動車道大鰐・弘前インターチェンジへのアクセス道路,また国道一〇二号バイパスが東北縦貫自動車道黒石インターチェンジへのアクセス道路として、また、弘前・黒石,②国道一〇二号バイパスの東北縦貫自動車道全線開通と同時供用(暫定二車線)を期する。
通史編5(近・現代2) (「弘前電波」から弘前東工業高校へ)

「弘前電波」から弘前東工業高校へ 昭和五十五年、弘前電波高校は電子科の定員を減じて自動車科を新設した,電子科、情報科、自動車科も、時代の最先端にある技術や情報の基礎的な知識を学び、技術処理の応用力を身につけるための
通史編5(近・現代2) (終戦直後の国民学校)

・児童ハ米軍自動車ニ投石セザルコト。マタ自動車ヲ追イカケタリ、車ノ前ヲ横切ラザルコト。  
通史編5(近・現代2) (環境整備と衛生対策)

弘前市では青森県当局から清掃専用の自動車を貸与されていたが、六月には返還を命じられてしまった。,清掃車が不足したため市当局は、政府に清掃用貨物自動車の配給を申請している。
通史編1(自然・原始) (黒石逆断層系)

本断層の存在もしくは延長連続を示唆する温泉は、津軽平野南東縁部の東北自動車道の西側に分布し、想定される
通史編5(近・現代2) (鉄道の高速化)

一方、昭和六十一年六月には東北縦貫自動車道青森線の碇ヶ関-十和田(秋田県)間の開通により、青森-浦和(
通史編5(近・現代2) (ボクシング部の全国制覇)

もあり、それぞれ活動しているが、エンジニアの卵たちだけあって、文化部にはアマチュア無線・オーディオ・自動車研究
通史編5(近・現代2) (農村社会の変貌と減反政策)

自動車の普及と農村部の交通網・道路整備による兼業機会の拡大、都市生活者と変わらない耐久消費財の普及などにより,計画では、進展中の岩木山ろく開発などの規模拡大地の存在、生産性の高い米と特産物りんごの発展、東北縦貫自動車路線計画
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

道路の整備 自動車や馬車等の車輛の往来が増大する中で、道路整備に対しても積極的な取り組みがなされた。
通史編5(近・現代2) (ストライキの諸相)

また、弘前乗合自動車株式会社でも昭和五年十二月四日従業員解雇問題で争議が起き、弘前警察署長の調停で解雇取消
通史編5(近・現代2) (金属団地の建設)

、参加企業は一九社であり、その業種別内訳は鋳造業二、機械器具修理五、電気器具製造業一、鉄骨建築業八、自動車整備二,6 0 ○     ○   ○ ○   ○ ○ ○ ○   ○   ○ ○   ○   ○   皆川自動車,6 0 ○     ○   ○ ○   ○ ○ ○ ○   ○ ○     ○ ○   ○   皆川自動車整備
通史編5(近・現代2) (鉄道敷設の請願)

これは、既存の弘前-川部間(奥羽本線)、川部-藤崎間(五能線)に並行し、かつ、乗合自動車路線が二線営業
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

外国米屋ガ自動車ヲ買ヒ込ンダ。地主ト小作人ノ談判ガソチコチニ始マッタ。
通史編4(近・現代1) (鉄道の開通と運輸事業)

馬車は、鉄道の発達とともにその沿線から駆逐され、鉄道駅周辺の近距離輸送という役割に転じていったものの、自動車
通史編5(近・現代2) (石油危機の推移と高度成長の終焉)

そのころ、日本はエネルギー源を石炭から石油に転換し、石油化学製品の増加、自動車や電気によるエネルギー多消費型
通史編5(近・現代2) (満州事変から太平洋戦争へ)

三本木原の開拓であったが、戦争末期の十九年ともなると、学徒動員の第一陣として、五年生二五〇人が横浜の自動車工場
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

砂沢平(すなざわたい)館跡は、唐牛方面から流れる平川が長峰で大きく曲がる急な台地の杉林付近から、東北縦貫自動車道,昭和五十四年(一九七九)には東北縦貫自動車道建設工事に伴う発掘調査が行われ、その結果、曲輪は三つ、堀跡
通史編5(近・現代2) (卸売・小売業、飲食店の事業所)

飲食料品小売業 1,364 1,226 1,098 24.7 22.6 21.5 △10.1 △10.4 56 自動車,飲食料品小売業 4,876 4,602 4,642 18.7 19.1 17.8 △5.6 0.9 56 自動車
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

13.77m×13.22m、面積150.4m2、晩期初頭の大洞B式土器期)*202などのほか、東北自動車道,不動堂遺跡の調査を境として、東北地方北部でも発見が相次ぎ、岩手県では東北自動車道(八戸線を含む)や国道
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の弘前市民)

二、自転車、自動車、其の他車馬は今迄通り左側を通行すること(乳母車は歩行者見做し)。   
資料編1(考古編) ((1)縄文時代草創期)

この遺跡は、東北自動車道八戸線の建設に伴って調査され、その折、二ノ倉火山灰層を含む第Ⅸ層から100を上回
通史編4(近・現代1) ([口絵])

口絵49 大正6年富田の大火 (品川町胸肩神社付近の焼け跡) 口絵50 大正初期の自動車
通史編5(近・現代2) (金澤市政の財政)

①環境問題への取り組み  地球的規模における環境問題に対し、平成五年度、弘前市は電気自動車を購入して
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

昭和50年代に入ると、県教育委員会を中心として東北自動車道関連の発掘調査が大規模に始まった。,先の東北自動車道関連調査では、平賀町富山遺跡から中世の竪穴建物跡が銭貨を伴って検出され*14、尾上町永泉寺遺跡
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

さらに藤崎・浪岡を抜けて、陸奥湾に至るルートで、現在の東北縦貫自動車道とほぼ同じルートである。  
通史編1(古代・中世) (阿津賀志山の防塁)

ここは現在でも、東北縦貫自動車道・東北新幹線・東北本線・国道四号線が集中する陸地が狭まった場所で、鎌倉軍
通史編5(近・現代2) (弘前市総合開発基本計画(昭和四十六年計画)の策定)

弘前周辺地域では、東北縦貫高速自動車道路の開通が間近になり、また、青函トンネル開通、新空港整備などの高速交通時代
通史編5(近・現代2) (県立工業から弘前工業へ)

直ちに職員および四年生父兄を集めて協議の結果、とにかく下山させることを第一とし、校長以下職員一六人が自動車
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の市政事務)

市の農地委員会委員選挙の実施、元軍用地の一時使用、供出米の割当、薪炭配給、貨物自動車払下の申請、主要食糧
通史編5(近・現代2) (小売業の動向)

この時期には東北自動車道開通が予定され、また、中央の大規模店舗の弘前市進出が行われる直前の時期であった
通史編5(近・現代2) (国際化・自由化と農林業振興計画)

さらに、この時期には、東北新幹線、東北縦貫自動車道などの高速交通体系の整備が進み、流通の変化に対応した
通史編5(近・現代2) (弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定)

商業に関しては、東北自動車道の開通や大・中規模店の進出・拡大があり、地元商業者にとって、変化要因を抱えているという
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

②縄文時代草創期に属する土器類の発見…昭和五十六年(一九八一)、東北自動車道八戸線建設予定地内の、八戸市是川鴨平,特に、東北自動車道建設、六ヶ所村の石油備蓄基地建設、同村の核燃料サイクル施設建設に関連する調査が大きい
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

県営総合運動公園関係の青森市近野(ちかの)遺跡*119*143・東北自動車道関係の黒石市浅瀬石遺跡*319
通史編1(自然・原始) (泉質)

平野南東縁部では東北自動車道の西側に沿うように配列し、岩井(一九八〇)の黒石断層、村岡・長谷(一九九〇
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

 524   五 みちのく銀行の誕生 …………………………………………  534   六 東北縦貫自動車道
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