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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)
文化五年(一八〇八)、
若狭
について書いた『稚狭考(わかさこう)』(福井県立図書館『拾椎雑話(じゅうしいざつわ,
若狭
塗は、もともと海底を意図して塗り、研いで仕上げたものである。,
若狭
塗の元祖である。,松浦氏は絶えてしまい、同じ塗り技法を行う西脇氏など数軒が城下において
若狭
塗を職業としている。,
若狭
塗は、各地に知れわたり、有名になっている。」
通史編3(近世2)
(変わり塗と池田源兵衛)
たちは、変わり塗技法(色漆を塗り重ね、研ぎ出して平滑に仕上げる)を用いて漆器を製作し、これらの漆器は、
若狭
塗,同じように元禄六年(一六九三)にまとめられた『
若狭
郡県志』にも、「魚子塗」「虫喰塗(むしくいぬり)」など,、変わり塗漆器が
若狭
の土産品(みやげひん)として書かれている(杉原丈夫他『越後
若狭
地誌叢書』下巻 一九七三年
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
なお、伏見作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、
若狭
小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて敦賀湊に一旦陸揚,げされ琵琶湖を経て伏見へと廻漕されたが、木村重茲は
若狭
府中城主であり、杉板が集結する敦賀の城主は、後に,図32.越前国敦賀湊・
若狭
国小浜交通図 仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地
通史編1(古代・中世)
(一 「日の本将軍」安藤氏)
一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月に焼失した
若狭
国羽賀寺
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
まず、屋号にみえる地名からは(表30)、 ①日本海沿岸地域、なかでも越中を除き出羽から
若狭
・丹波までの,南部屋 黒石屋 最上屋 8 2 2 1 1 1 北 陸 加賀屋 越後屋 越前屋
若狭
屋,そして、これらの地名は、越前・
若狭
・加賀などの各湊津に物資を揚げ、琵琶湖を経由して京・大坂へと通じる輸送路
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
九戸城は本丸・二の丸・三の丸・松の丸・石沢館・
若狭
(わかさ)館によって構成され馬淵川(まべちがわ)に臨,津軽為信を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は
若狭
館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
中世の北国海運
若狭
・敦賀(つるが)を中点として、日本海沿岸地域と畿内とを結びつけた北国(ほっこく),の商人を使って取り寄せていることが知られ(『能代市史』資料編中世二)、慶長六年(一六〇一)二月には、
若狭
小浜城主,である京極氏の城の大橋に使う板を、
若狭
の各港の船頭に命じて、能代から取り寄せるための船が派遣されている
通史編3(近世2)
(最勝院)
最勝院は社家頭小野
若狭
・長利薩摩を通じて領内の神職大半を支配し、心応院を通じて修験のほとんどを支配するという
通史編3(近世2)
(津軽国学社中)
)、岩間滴(したたり)、三谷大足(みたにおおたり)、増田幸太郎、植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野
若狭
通史編4(近・現代1)
(関東大震災後の巡錫布教)
宗演は
若狭
高浜生まれ、明治四年、十二歳で親戚であった京都妙心寺の釈越渓について出家、のち鎌倉円覚寺の今北洪川
通史編3(近世2)
(本町の繁栄)
までは大坂屋(おおさかや)・大黒屋(だいこくや)・練屋(ねりや)・吉野屋(よしのや)・藪屋(やぶや)・
若狭
屋
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の没落)
しかし、その後、永享八年(一四三六)に安藤康季が
若狭
羽賀寺の再建に際して莫大な費用を寄進(写真166)
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
これを受けて弘前八幡宮の神官小野
若狭
(わかさ)は「大平神」六体を預かり、藩の諮問(しもん)に答えて「大平神,ところが、預かった小野
若狭
はこれを神前に安置し、御酒・御膳を供(そな)えて祀っている。
通史編3(近世2)
(討庄応援部隊の解兵)
この間の動向はやがて国元にも広まったが、弘前八幡宮神主小野
若狭
(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」下国安藤康季、後花園天皇の勅命を受け
若狭
国羽賀寺の,●長禄四年(一四六〇)八月十八日、下国安東師季(政季)、鹿角郡総鎮守大日堂に大檀那として、
若狭
国鋳造の,●寛正四年(一四六三)四~六月、
若狭
小浜の守護武田氏被官と一色氏被官、大船「十三丸」とその荷物をめぐって
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
また、永享八年(一四三六)、「奥州十三湊日之本将軍」としての安藤康季が行った
若狭
(わかさ)羽賀寺の再建事業,本浄山羽賀寺縁起」史料七八〇)や、長禄四年(一四六〇)の安東師季による鹿角(かづの)郡総領守大日堂への、
若狭
国鋳造
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
まずは、陸奥国に設定されたという蔵入地についてみてゆくことにしよう(以下は、渡辺信夫「南部・津軽藩と
若狭
海運,文禄四年(一五九五)十二月、
若狭
小浜の豪商組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
社家長には旧最勝院社家頭の小野磐根(いわね)(旧名
若狭
)と長利薩雄(おさりさつお)(旧名薩摩)が任命された
通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
さらに、
若狭
(わかさ)国羽賀(はが)寺縁起に記された「奥州十三湊日之本将軍安倍康季(やすすえ)(安藤康季
通史編3(近世2)
(社家・修験隊の組織)
)の者で武芸に精通し盛壮な者を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、社家隊諸事取締役を斎藤長門・小野
若狭
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
した漆栽培は寛永年間ころに始まるとされ、元禄期には現在の津軽塗の原型になった唐塗(からぬり)の技術が、
若狭
通史編3(近世2)
(神道)
ところが、社家頭小野
若狭
が元禄七年(一六九四)、京都の吉田家へ官職受領に赴き、本末関係を結んで領内触頭
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
家業は
若狭
屋の屋号を持つ魚屋であったが、幼時から画を志し、学問・画業に優れた元用人の毛内雲林(もうないうんりん
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●永正十一年(一五一四)四月、
若狭
国羽賀寺、後柏原天皇綸旨と青蓮院門跡尊猷法親王勧進状により本堂修復。,●天文十七年(一五四八)、この年、蠣崎季広、
若狭
武田氏と音信を通ずるという。,●天文十九年(一五五〇)八月、
若狭
守護武田信豊、関戸豊前守(下国安東舜季家臣か)に「奥州戸館馬」贈与の
資料編3(近世編2)
(二 思想)
では鶴舎有節を筆頭として、今村真種、岩間滴、三谷大足、増田幸太郎、植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野
若狭
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
く、江戸屋・京屋・大坂屋・兵庫屋・堺屋・尾張屋・丹波(たんば)屋・広島屋・備前(びぜん)屋・大和屋・
若狭
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
大寺院が中心となり、本山・末寺制度を通して、一方神職は神明宮(しんめいぐう)をはじめとして八幡宮神官小野
若狭
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
260 ●長禄四年(一四六〇)八月十八日、下国安東師季(政季)、鹿角郡総鎮守大日堂に大檀那として、
若狭
国鋳造,……………… 鹿角郡大日堂梵鐘銘 261 ●寛正四年(一四六三)四~六月、
若狭
小浜の守護武田氏被官と一色氏被官,…………… 新羅之記録・福山秘府 281 ●永正十一年(一五一四)四月、
若狭
国羽賀寺、後柏原天皇綸旨と,…… ニコロ・ランチロット報告書 293 ●天文十七年(一五四八)、この年、蠣崎季広、
若狭
武田氏と音信,… 新羅之記録・松前家記・八戸湊文書 294 ●天文十九年(一五五〇)八月、
若狭
守護武田信豊、関戸豊前守
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●文禄四年(一五九五)十一月二十日、
若狭
小浜の組屋源四郎、津軽の太閤蔵米を売却する。,●文禄四年(一五九五)十一月二十六日、浅野長吉、
若狭
小浜の組屋源四郎売却の、津軽の太閤蔵米販売代金を受領
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
……………………………………… 東京大学史料編纂所影写本 小浜本鏡寺墓碑銘 … 山名暢氏論文「戦国期
若狭
小浜,………………………………………………………………………………………… 東京大学史料編纂所写真版 わ
若狭
組屋文書
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