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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(菊池九郎の手紙)
菊池九郎
の手紙 この後の菊池武徳の華々しい活躍は周知のとおりである。,この状況を見て、
菊池九郎
の長男菊池良一や弘前士族で時事新報記者工藤十三雄も政界進出の希望を抱き、大先輩,の
菊池九郎
に相談した。,これに対し、
菊池九郎
は二人に次の手紙を与え、忠告している。 /
菊池九郎
の手紙
通史編4(近・現代1)
(青森県における衆議院議員選挙)
そして、選出された議員は、第一回自由党四人(奈須川光宝、工藤行幹、榊喜洋芽、
菊池九郎
)、第二回自由党三人,・改進党一人(工藤卓爾(改進)、工藤行幹、榊喜洋芽、
菊池九郎
)、第三回革新党(旧青森県自由党)四人(源晟,、工藤行幹、榊喜洋芽、
菊池九郎
)、第四回革新党四人(源晟、白鳥慶一、工藤行幹、
菊池九郎
)、第五回進歩党,(旧革新党)四人(徳差藤兵衛、奈須川光宝、工藤行幹、
菊池九郎
)、第六回憲政本党(旧進歩党)四人(奈須川光宝,、徳差藤兵衛、工藤行幹、
菊池九郎
)だった。
通史編4(近・現代1)
(中弘政社の誕生)
中弘政社の誕生 明治二十六年(一八九三)十二月、本県出身の自由党代議士
菊池九郎
、工藤行幹、榊喜洋芽らは,第三回総選挙の当選者は、第一区源晟(あきら)・工藤行幹、第二区榊喜洋芽、第三区
菊池九郎
、第四回は第一区源晟,・白鳥慶一、第二区工藤行幹、第三区
菊池九郎
である。,自由派の分裂を案じた館山漸之進は
菊池九郎
らに説いて両者の合同を図り、新たに中弘政社を誕生させた。,青森県では
菊池九郎
、工藤行幹ら四代議士も参加し、青森県革新党は解党し、進歩党支部を結成し、事務所を弘前市
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
選挙は、
菊池九郎
の率いる大同派と寺井純司を首領とする官僚派とに分かれて戦い、有権者も一級・二級・三級の,写真60 初代・第7代弘前市長
菊池九郎
当選者は次のとおりであった。 ,(以上一級一〇人) 五月十三日に市会を召集、長谷川如泡が議長となり、市長候補を選挙した結果、第一
菊池九郎
,、第二長谷川如泡、第三桜庭又蔵が当選、同月二十七日第一候補者
菊池九郎
に裁可があった。
通史編4(近・現代1)
(東奥義塾開学)
写真39 津軽承昭公から東奥義塾へ寄附金調書(
菊池九郎
筆) 東奥義塾開学の中心となったのは、兼松成言,、吉川泰次郎、
菊池九郎
、成田五十穂の四人である。,っており、旧藩学校の伝統を受け継ぐ各地の学校が公立となっていく中で、東奥義塾が私立であった背景には、
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(商業弘前倶楽部の活動)
同倶楽部は一〇七人の会員により発足し、弘前の有力財界人や政治家の大道寺繁禎、
菊池九郎
ら二一人を名誉会員
通史編4(近・現代1)
(県内遊説)
本多は
菊池九郎
とともに自由民権運動を推進することを決意し、明治十三年一月、田中耕一、出町大助、伴野雄七郎,十三年二月七日、運動推進のため東奥義塾に有志百余が集まり、委員として本多庸一・
菊池九郎
・赤石行三・八木沢彰六郎,中になお識見、人望を失わない旧藩重臣杉山龍江を首領に、その下に参謀長として工藤行幹、参謀に本多庸一、
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(弘城政社の内紛と解散)
革新同志会と市政刷新会は、引退して東京にいた
菊池九郎
を立てたため、弘城政社の小山内鉄弥は一四対一二で敗,五月三日の市会で、
菊池九郎
は次のような就任演説をした。
通史編3(近世2)
(東奥義塾)
このような状況下で、かつて藩命で慶応義塾に学び帰県した
菊池九郎
は、漢学教師兼松成言と英学教師吉川泰次郎
通史編4(近・現代1)
(助役問題)
政友会派一一人、伊東重の市政刷新会系の自治派一〇人、弘城政社小山派の弘前同志会派七人、中立二人の勢力分野で、
菊池九郎
市長辞職後
通史編4(近・現代1)
(勧業諸会の展開)
商業弘前倶楽部は、武田清七、竹内半左衛門ほか二九人が議員となり、一〇七人の会員で構成され、他に大道寺繁禎、
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
初代市長
菊池九郎
、同助役は長尾義連が就任した。,初代
菊池九郎
二代長尾義連 三代赤石行三 四代長尾義連 五代長尾義連 六代小山内鉄弥 七代
菊池九郎
八代伊東重
通史編4(近・現代1)
(大同派の支配)
明治二十一年九月一日に第一回青森県有志大懇談会が開かれ、青森大同会が結成されたが、その中心メンバーは弘前の民権派
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(請願建白文の審議)
父)、石岡三郎、小笠原宇八(のち青森町会議員)、樋口金蔵、今宗蔵(東義教師)、小山内清定、服部尚義、
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(保守派との合同団結)
中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江、西郡蒲田昌清、県会議員赤石行三、同本多庸一、共同会員
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(士族授産事業の成立と展開)
農牧社の組織は、社長大道寺繁禎、副社長笹森儀助、牧佃掛中畑清八郎、会計掛芹川高正、監督長尾介一郎、
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(弘城政社の衰退)
さらに、明治四十一年の衆議院選挙では、大同団結運動以来県の政界を領導してきた
菊池九郎
の突如の隠退が起きた
通史編4(近・現代1)
(東奥共同会の設立)
東奥共同会の主要メンバーは、
菊池九郎
、本多庸一のほか榊喜洋芽(さかききよめ)、田中耕一、伴野雄七郎(とものゆうしちろう,帝国憲法発布 4 弘前市制施行 5 第1回市会選挙 5 市会、
菊池九郎
通史編5(近・現代2)
(完結に寄せて)
藩祖為信公の領国形成、二代信枚公による弘前城下の建設、東奥義塾創設者にして初代市長
菊池九郎
の奮闘、りんごに
通史編4(近・現代1)
(後藤象二郎の青森県遊説)
弘前の後藤伯招待の発起人は、回天社と
菊池九郎
・長尾義連・田中耕一・村谷有秀ら一五人、大館への迎人は榊喜洋芽
通史編4(近・現代1)
(地主・小作関係)
農場は、空知郡沼貝村(現美唄市)に属し、明治二十九年(一八九六)、
菊池九郎
他七名の名義で未開地の貸付を
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校の創設)
のことは午後一時を以て始め、終って教師本多テイ子、海野ヨネ子並に工藤儀助氏、伊東重氏の演説並に弘前市長
菊池九郎
氏
通史編4(近・現代1)
(『弘前新聞』の論評)
大先輩の
菊池九郎
が息子の良一や工藤十三雄に注意しているのは、まさにこの津軽気質だった。
通史編4(近・現代1)
(陸羯南の手紙)
笹森は明治十二年十月、中津軽郡長だったが、
菊池九郎
、長尾介一郎らと函館の物産会社や七重の試験場を見学して
通史編4(近・現代1)
(私学東奥義塾の終焉-公立への移管)
菊池九郎
の必死の説得により、かろうじて廃校を免れたものの、明治十五年末には一時金一万円を交付する代わり
通史編4(近・現代1)
(地租増徴問題と青森県)
このとき、弘前出身で自由民権運動以来の政党指導者
菊池九郎
は憲政本党で、山県内閣と憲政党の星亨を批判して
通史編4(近・現代1)
(御真影下賜と教育勅語)
写真102 御真影 桐の箱に収められた御真影は相馬校長に恭しく捧持(ほうじ)され、
菊池九郎
弘前市長
通史編4(近・現代1)
(不平の源流)
櫛引英八・長尾義連・館山漸之進・赤石行三の名を挙げ、密議に与(あずか)り、気脈を通ずる者として、本多庸一・
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
([付図])
〉 11 陸羯南 新聞『日本』創刊〈明治22年〉 12 弘前市制施行~初代市長・
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の裏面)
はこの紛紜事件で保守派の大反撃を受けたが、しかし、明治十五年十月の県会半数改選の選挙で、中津軽郡は館山と
菊池九郎
通史編4(近・現代1)
(日清戦争と郷土部隊の出征)
日清間の緊張が高まると、弘前市内でも
菊池九郎
ら有志者が弘城義勇団の組織を計画し、開戦の時は従軍すべきことを
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の始まり)
当分同郡長心得申付けられ、中津軽郡長笹森儀助、同郡書記伊東正長、同内藤吉郎太の三君は依願本官を免ぜられ、本県士族
菊池九郎
君
通史編3(近世2)
(弘前の民衆)
それでも明治十年代の政界を主導していったのは大道寺繁禎(しげよし)・本多庸一(よういち)・
菊池九郎
・笹森儀助
通史編4(近・現代1)
(県政初期の混乱)
この問題のとき、
菊池九郎
は鹿児島留学の際の人脈を活用して大山格之助、前山誠一郎らを動かし、事を有利に結着
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