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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(菊池楯衛とりんご植栽)
菊池楯衛
とりんご植栽 明治政府は、殖産興業政策の一環として洋種果樹の生産を奨励した。,うちりんごは、代官町の
菊池楯衛
(きくちたてえい)、相良町の山野茂樹(やまのしげき)、五林平(ごりんだい,この需要にこたえるべく大きな役割を果たしたのが、
菊池楯衛
(弘化三-大正七 一八四六-一九一八)と佐野楽翁,中でも
菊池楯衛
は、園芸に強い関心を持ち、りんご栽培以外にも、果樹では日本梨、西洋梨、桃、桜桃など多数の,写真19
菊池楯衛
菊池は、明治十年代初めから、全国各地の博覧会、共進会、品評会に出席し、出品人総代 /
菊池楯衛
とりんご植栽
通史編4(近・現代1)
(組織的活動-化育社)
民間で最も早くりんごを試植し、苗木の普及に努めた
菊池楯衛
は「青森県りんごの開祖」と呼ばれるが、菊池を中心,は年中行事の一つで、「官権の力を借りずに農事の改良、新知識の普及を計った」(前掲『陸奥弘前後凋園主
菊池楯衛
遺稿,研究会は、
菊池楯衛
を中心とする旧藩士等一一人によって明治十七年に結成され、明治二十三年、楠美冬次郎(くすみふゆじろう,
菊池楯衛
の没後、大正九年(一九二〇)四月、旧津軽産業会のメンバーが中心となり、最勝院の境内に顕彰碑が建立
通史編4(近・現代1)
(勧業諸会の展開)
勧業諸会の展開 旧弘前藩士の
菊池楯衛
や中畑清八郎らは有志者一五人の協議により、明治十年(一八七七)に
通史編4(近・現代1)
(明治二十年度予算審議)
果樹栽培に熱心な郡書記
菊池楯衛
の懸命な説得によってやっと半額が認められた。,第一次会 番外二番
菊池楯衛
茂森坂(註、新町(あらまち)坂のこと)タルヤ嶮坂ニモ拘ハラス該坂ハ迂曲ニテ,六番寺井純司 今四百余円ノ金ヲ以テ該坂改良スルトキハ何ヶ年位修繕ヲ要セサルノ見込ナリシヤ 番外二番
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(荒城の桜)
〇〇〇本もの桜苗木を植樹したのは、青森県に初めてりんごの苗木を試植したことで知られる青森りんごの開祖・
菊池楯衛
通史編5(近・現代2)
(完結に寄せて)
領国形成、二代信枚公による弘前城下の建設、東奥義塾創設者にして初代市長菊池九郎の奮闘、りんごに生涯を捧げた
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(凶作と副業の奨励)
津軽産業会では常議員会を開催し、幹事長
菊池楯衛
の名で県知事、各郡市長に建議書を提出した。
通史編4(近・現代1)
(城跡の荒廃)
桜は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に
菊池楯衛
が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始
通史編4(近・現代1)
(辞職勧告運動の失敗)
(たお)レテ止ムヘシ、然ルニ自ラ之ヲ改メス、却テ反対党ノ寺井(純司)ハ云々、猪股(俊策)ハ云々ナリ、
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
〇票 本多謙一 四二七票 花田直太郎 四二四票 葛西末吉 次点(反対派) 二八四票
菊池楯衛
,反対派) 二四票 大高歳行 二四票 笹森要蔵 二四票 一戸豊蔵 二四票
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(明治二十年(一八八七)の予算審議)
大道寺繁禎が議長となり、質疑を行っており、理事者として堀見景正、小山内彦一、
菊池楯衛
、相馬保之進らが出席
通史編4(近・現代1)
([付図])
明治4年〉 2 「学制」頒布〈明治5年〉~含英女小学校集合写真 3 りんごの始祖・
菊池楯衛
試植
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の始まり)
同野際原吾君は同郡書記(一七等相当)に、そして南津軽郡書記清野準一、外崎高勝、益子力太郎、中津軽郡書記
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)
青森県は全国に先駆けており、明治三十年(一八九七)に旧弘前藩士の蛯名昌一が噴霧器によるボルドー液撒布を
菊池楯衛
通史編4(近・現代1)
(津軽産業会の活動)
第廿五条 本定款は通常会員半数以上の同意あるにあらされは変更せさるものとす 役員 理事長
菊池楯衛
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