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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)藩主家の
菩提寺
大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,、自分の没後は甲胄のまま埋葬すること、これまで海蔵寺を
菩提寺
としてきたが、自分のために一寺を建立せよと,この時から曹洞宗長勝寺は大浦(津軽)氏の
菩提寺
となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,図204.革秀寺津軽為信霊屋 信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を
菩提寺
として埋葬されたが,この時から国元でも報恩寺を
菩提寺
とする取り扱いになった。 / (一)藩主家の
菩提寺
通史編3(近世2)
(津梁院)
これより江戸における
菩提寺
は津梁院になり、藩主・正室は一〇代信順の正室を除いてここに葬られた。,津軽黒石家も同院を
菩提寺
とした。 ,一六二三)に離檀したが、信建の長男大熊、次男弁千代もここに葬られているので、一時期ではあるが信建一族の
菩提寺
通史編3(近世2)
(信枚)
授けられ、天海の一字を得て津梁院殿寛海(しんりょういんでんかんかい)と称し、天海の弟子本祐の常福寺を
菩提寺
,信枚は、それまでの津軽家が
菩提寺
としてきた曹洞宗から天台宗に改宗した。
資料編3(近世編2)
(●報恩寺 本堂 新寺町--県重宝)
●報恩寺 本堂 新寺町--県重宝 津軽三代信義の
菩提寺
として創立されたもので、その後、三代藩主の五〇
通史編3(近世2)
(長勝寺)
藩主家は曹洞宗を信仰してきたが、信枚が天台宗に改宗し、後に建立される報恩寺を
菩提寺
に改めた。,しかし、長勝寺はこれまで
菩提寺
として重きをなしていたため、信著は遺言で長勝寺へ埋葬させたことから、報恩寺
資料編3(近世編2)
(●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝)
西茂森二丁目--県重宝 元禄年間(一六八八~一七〇四)に津軽四代信政が、その実母久祥院殿のために
菩提寺
通史編3(近世2)
(藩主の位牌を盗む)
現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である義道(ぎどう)は、天保十四年(一八四三)五月に津軽家の
菩提寺
通史編5(近・現代2)
(承祜公のミイラ)
報恩寺はもともと天台宗で、津軽家の
菩提寺
として由緒ある寺であったが、一二代藩主を継ぐべくして夭折した承祜
通史編3(近世2)
(藤先寺)
同八年、為信の娘で津軽建広へ嫁した富姫が死去すると、ここを
菩提寺
とした。
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より
菩提寺
としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,また、為信は実父守信の
菩提寺
として耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺(そうとくじ))、そのほか、最勝院
通史編3(近世2)
(薬王院)
報恩寺信枚が天海に帰依したことから、藩主家は江戸の
菩提寺
を天台宗津梁院・常福寺としてきた。,信政は父信義が明暦元年(一六五五)死去すると、国元に報恩寺を建立し、長勝寺に替えて
菩提寺
とした。
通史編4(近・現代1)
(顕彰碑の建立)
顕彰碑の建立 大正八年十月十五日、山田家の
菩提寺
である新寺町の貞昌寺で、孫文、犬養毅、頭山満、宮崎滔天
通史編3(近世2)
((二)年中行事と生活)
彼岸…仏前・
菩提寺
へ団子供え。,
菩提寺
へほかい。盆中は門前にかば火焚き。 十六日…作事方休み。
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
ともに曹洞宗(そうとうしゅう)寺院であり、津軽家の
菩提寺
や為信の
菩提寺
であったりと、津軽家との関係も深
通史編3(近世2)
(草創期三代)
死後は津軽家の
菩提寺
長勝寺に手厚く埋葬された。 図158.柳川調興の墓
通史編3(近世2)
(火災)
藩主の
菩提寺
である長勝寺(ちょうしょうじ)と報恩寺(ほうおんじ)に対しては、延宝三年(一六七五)に寺の
通史編3(近世2)
((一)年中行事と生活)
彼岸、入日・中日(ちゅうにち)・過る日、仏前・
菩提寺
へ団子供え。
通史編3(近世2)
(信政)
遺髪・爪は
菩提寺
報恩寺に五輪塔を建て、ここに納めた。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
革秀寺(かくしゅうじ)は父為信の
菩提寺
として慶長十三年(一六〇六)創立し、寺領一〇〇石を寄進した。
通史編3(近世2)
((一)衣服)
藩主家の
菩提寺
である長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・報恩寺(ほうおんじ)(現市内新寺町
通史編3(近世2)
(災害と生活)
この大火により、津梁院(しんりょういん)(藩主家の
菩提寺
)へ近火見舞のため物頭格(ものがしらかく)の藤岡三左衛門
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
図236.長勝寺三門 津軽家霊屋は
菩提寺
である長勝寺の境内に、歴代藩主やその奥方の霊屋が、為信
通史編3(近世2)
((二)富籤興行)
すでに、藩の財政は、為信の生母の
菩提寺
として寺領六〇石を寄進し、浄土宗僧録所にしている貞昌寺の再建ができず
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
信政の葬儀は
菩提寺
の天台宗報恩寺で営まれ、神道による祭儀によって高岡に葬送された。
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
一六三一)二月二十一日に、高野山遍照尊院(へんじょうそんいん)と契約を結び、以後、高野山における津軽家の
菩提寺
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
長勝寺(曹洞宗)は津軽家の
菩提寺
であり、津軽氏の先祖崇拝の中心的寺院である。
通史編3(近世2)
(出開帳)
寛延元年(一七四八)、善光寺如来開帳のことが、寛永寺門主から江戸の津軽家の
菩提寺
津梁院(しんりょういん
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
報恩寺は、三代信義の
菩提寺
として創建された天台宗の寺院であり、その五〇回忌に当たって再建されたのが現本堂
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
図61.津軽信枚画像 一方、領内に目を向けると、慶長十三年(一六〇八)に為信の
菩提寺
である革秀寺
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信が亡父光信の
菩提寺
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
大浦盛信が亡父光信の
菩提寺
として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
同年七月十八日には、信枚は父為信の
菩提寺
革秀寺(ぼだいじかくしゅうじ)に高一〇〇石の寺領宛行状を発給しており
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