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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

九戸一揆の鎮圧 九月一日、家康より派遣された井伊直政(いいなおまさ)を含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉・蒲生氏郷,この籠城戦には信直自身のほか、浅野長吉・蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政ら上方の軍勢が参陣したが、ほかに出羽国鹿角,この九戸城の包囲軍は、仕置奉行の蒲生氏郷が村松に、浅野長吉は城の本丸より北の八幡社に、堀尾吉晴はその隣
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

まさよし)と東朝政に六月十五日付の書状によって、家康と豊臣秀次が七月上旬に出馬することと、六月十四日に蒲生氏郷,奥州奥郡為御仕置被差遣御人数道行之次第」(前田育徳会尊経閣文庫蔵)によれば、米沢城主伊達政宗が一番、会津城主蒲生氏郷,状況のなかで、八月九日、為信は、奥羽再仕置の総大将に任じられ二本松に陣取った豊臣秀次から、仕置奉行の蒲生氏郷,このような動きの中、仕置奉行の一人である蒲生氏郷は、八月二十三日に和賀郡に着陣し、数日中には九戸城を落城
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

また、豊臣大名である蒲生氏郷に与えられた会津などで、少なくとも一〇城が残されており、木村吉清に与えられた,一方、陸奥国では、葛西・大崎の一揆は、蒲生氏郷(がもううじさと)・伊達政宗の出陣により沈静化するものの
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

羽柴会津少将とは蒲生氏郷(がもううじさと)を指す。
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

九戸一揆の意義 九戸一揆鎮圧後、しばらく浅野長吉や蒲生氏郷らの仕置軍は南部領に駐留し、逃散した百姓の
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

定めたものであるが、そのなかの「もくそ(牧使)城とりまき候衆」、すなわち牧使城を攻囲する軍勢として、蒲生氏郷,、最上義光、木村重茲に属する一手として秋田実季、前田利家に属する一手として南部信直と本堂忠親、蒲生氏郷
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

加賀宰相前田利家の配下には南部信直・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆,誓紙の中に、津軽為信・南部信直らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・最上義光(もがみよしあき
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

また、南部氏の居城が三戸城から天正十九年に蒲生氏郷の普請が加えられた福岡城(現二戸市)に移転され、かつ
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十九年(一五九一)八月九日、豊臣秀次、津軽為信へ判物を下し、津軽仕置に蒲生氏郷等を派遣することを
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