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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (万蔵寺)

万蔵寺 「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、弘長二年(一二六二)、藤崎村唐糸(からいと)の前(現南津軽郡藤崎町,衰退していた午堂教院を臨済宗護国寺に改めたとか、霊台寺に改めたなどと記され、戦乱の中で衰微し、曹洞宗万蔵寺,なお現在、長勝寺にある「嘉元鐘(かげんしょう)」は、万蔵寺にあったという。 / 万蔵寺
通史編5(近・現代2) (善蔵と洋次郎)

善蔵と洋次郎 多くの評者がつとに指摘しているように、「金魚」(昭和八年)は石坂文学の成立にかかわるきわめて,ここでは、その石坂洋次郎と善蔵との関係について、故郷・弘前市を中心として少しく触れてみる。,住宅は元市長も住んでいた静かな屋敷町にあり、生活環境は抜群であった。,ところが、新任式の前に、すなわち七月十三日に善蔵が突然訪問したのである。, 別巻』昭和五十年 津軽書房刊)によれば、「十三日、帰郷、石坂洋次郎、平川力の世話で弘前市元寺町斎吉旅館 / 善蔵と洋次郎
通史編2(近世1) (安永期の蔵米化)

安永期の蔵米化 宝暦八年(一七五八)に、乳井貢は失脚し、宝暦改革も頓挫するが、藩の財政はその後も度重,宝暦八年(一七五八)には全藩的な田畑調査を行い、田畑や樋・橋の場所を記載した「元帳」や百姓に渡す「小帳,そして、翌年には元文年間に検地を終えた新田地方の村々を新たに知行地として組み入れるなどの処置が行われた,で「御蔵奉行」から切手を現米に交換して受領するという方法がとられた。,さらに元禄時に藩士が大量解雇された前例があることから、藩士が不安を抱くことを解消するべく、不服がある者 / 安永期の蔵米化
通史編4(近・現代1) (洋風建築と蔵造り)

洋風建築と蔵造り そのころ、町の建物は商家も住宅もほとんど柾葺(まさぶ)きの石屋根であった。,それが次第に洋風建築や蔵造りなど、都会風な新しい外観に変わっていった。,洋風建築の始まりは、明治七年に本町一丁目に建った佐々木元俊邸だが、その後、百石町小路の天主堂が明治十五年,に建ち、また、元寺町のメソジスト教会堂が三十年に改築されて、異国情緒を漂わせた。,蔵造りは、二十七年和徳町に建った久一呉服店が最初で、次第に商家の流行建築になった。 / 洋風建築と蔵造り
通史編3(近世2) (高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)

高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入 真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年,第四代藩主津軽信政(のぶまさ)を埋葬した高岡(たかおか)霊社(現中津軽郡岩木町百沢、明治初年に高照神社と改称)の御宝蔵の,錠前を破って侵入し、太刀・小刀などを盗み、同十一日には弘前城の御金蔵に二度も侵入して盗みを働いた。,庄太郎に対する刑罰は、「文化律」の項目「盗賊御仕置之事」・「御蔵之財物を盗取候者御仕置之事」の中の規定,庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗 / 高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

弘前市蔵 写真17 弘前市立博物館蔵 写真18 「山野茂樹日記」弘前市立図書館蔵 写真19 『改元記念東奥人名録,」弘前市立図書館蔵 写真60 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真61 『津軽之山水』弘前市立図書館蔵, 津軽書房 1980年 写真68 弘前市蔵 写真71 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真74,写真117 弘前市立博物館蔵 写真118 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真119 『養生哲学,写真136 弘前市 貞昌寺 写真137 『南島探験』弘前市立図書館蔵 写真138 『改元記念東奥人名録 / 掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

73 弘前市 長勝寺蔵 74 南津軽郡浪岡町 浪岡八幡宮蔵 75 鉄砲之定 元和9年 弘前市立博物館蔵,95 弘前市立図書館蔵岩見文庫 96 弘前惣御絵図 元禄11年 弘前市立博物館蔵 97 南津軽郡岩木町, 高照神社蔵 98 新撰陸奥国誌 巻30 東京大学史料編纂所蔵 99 江戸日記 元禄6年12月18日条,大光寺組金屋村当戸数人別田畑共取調帳 弘前市立図書館蔵八木橋文庫 187 (元治元年)御郡内人別宗旨分并戸数諸工諸家業牛馬船総括牒,青森県立郷土館蔵 194 蓬か島 弘前市立図書館蔵一般郷土資料 195 国日記 嘉永元年3月21日条  / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。,したがって、組屋が請け負った津軽の蔵米から推測される津軽地方の蔵入地の石高とほぼ一致する。  ,そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,また、慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、秋田実季より「伏見向嶋橋板」,そして、これら「隣郡之衆」の領内にはいずれも太閤蔵入地が設定されており、後に、自領の蔵入地からの蔵米によって / 太閤蔵入地の設定
資料編1(古代・中世編) ((2)縄張り復元)

(2)縄張り復元 国吉館跡の縄張り復元に用いた資料は、次のとおりである。  ,①分限図(明治二十七年ころ作成) 大字国吉字坂本  ②航空写真(昭和二十年代のもの、弘前市役所蔵), ③その他 地図・地元住民からの聞き取り 図37 国吉館跡の分限図(明治27年ころのもの) / (2)縄張り復元
資料編1(古代・中世編) ((2)縄張り復元)

(2)縄張り復元 先に述べたように、坂本館跡は現在大部分がリンゴ園として利用されていて、遺構の判断は,また、明治時代に作られた分限図も非常に簡略なものであるため、縄張り復元の資料としては使えなかった。,そのため、昭和二十年代の航空写真(弘前市役所蔵)を参考にしつつ現地調査を行い、図40・41の復元図を作成,図40 坂本館縄張り推定復元図 図41 坂本館縄張り推定復元図(古館) / (2)縄張り復元
通史編2(近世1) (元文検地の実施)

俵元・広須・金木の三新田の検地は、享保二十年(一七三五)九月、実施が命じられた。,翌年に入り検地が実施され、元文二年(一七三七)に検地帳が作成された(同前)。,これが「元文検地」と呼ばれる検地である。  ,給人に対しては、元文二年(一七三七)二月に三新田に給地が入り組み年貢収量が不足した場合、蔵米をもって充足,図120.元文元年の検地水帳 目録を見る 精細画像で見る / 元文検地の実施
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

伏見作事板の運上と太閤蔵入地 豊臣政権にとって秋田氏領内の太閤蔵入地(豊臣政権の直轄地)は、伏見指月城,慶長元年以降の伏見作事板の切り出しと廻漕は、秋田氏を中心としながらも北羽の大名・小名を動員して行われ、,表3「隣郡之衆」に賦課された伏見作事杉板     年代 大名 文禄4年 慶長元年 慶長2年 慶長3年,津軽為信は、慶長元年には九〇間、慶長二年から四年までは一四五間の杉板を運上するよう下命されている。,しかし、津軽氏は、慶長元年に秋田山から杉板を受け取り廻漕しただけで、それ以後慶長二~四年までの分について / 伏見作事板の運上と太閤蔵入地
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

口絵1 弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵2 弘前市立博物館蔵 口絵3 弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵,御軍政御用留 明治元年8月5日条 弘前市立図書館蔵津軽家文書 52 学校法人 東奥義塾蔵 53 弘前市立博物館蔵,135 弘前市 泉光院 136 弘前惣御絵図 弘前市立図書館蔵一般郷土資料 137 国日記 元禄14,176 長利武久氏蔵 177 平尾とよ氏蔵 178 弘前市立博物館蔵 179 弘前市立図書館蔵一般郷土資料,246 江戸日記 元禄14年7月26日 弘前市立図書館蔵津軽家文書 247 弘前市 普門院 248 個人蔵 / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

口絵10 弘前市 万蔵寺蔵 口絵11 弘前市 法源寺蔵 口絵12 弘前市 貞昌寺蔵 口絵13 弘前市,岩手県胆沢郡胆沢町教育委員会写真提供 写真20 国立歴史民俗博物館 写真21 弘前市 村越潔氏写真提供 写真22 日本書紀 斉明天皇元年,133 千葉県松戸市 本土寺蔵 写真134 国史略 元享2年条 弘前市立図書館蔵 写真135 弘前市 , 評論社刊 図12・13 長谷川成一他『図説 青森県の歴史』1991年 河出書房新社刊 図14 『松元遺跡発掘調査報告書, 1996年 市浦村教育委員会刊 図44 作成 図45 「15世紀前半ころの十三湊中心部(想定復元図) / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品 弘前藩津軽家が所蔵した美術工芸品については比較的記録が残っていて、その,(一八四二)完成の「津軽家所蔵書画文房什物目録(以下「什物目録」と略称)」(三二八件)は、どちらも弘前藩,および津軽家所蔵の書画骨董や什器などに関する台帳である。,その後は大正以後二度の津軽家蔵品売立目録や津軽家の記録などで行方が追える。,ほかには英(はなぶさ)一蝶や狩野常信など信寿ゆかりの絵師たちの絵、雪村や狩野元信、永徳らの古画屏風などが / 弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

口絵1~口絵3「津軽名勝と産業」弘前市蔵 口絵5   同 上 口絵10  弘前市立博物館蔵 口絵,14 『青森県綜観』弘前市蔵 口絵17  同 上   写真 5 『青森県水害実記』弘前市立図書館蔵,』弘前市立図書館蔵 写真21 『青森県綜観』弘前市蔵 写真22 「乳幼児ニ関スル書類綴」弘前市立図書館蔵,弘前市蔵 写真28 「銃後奉公会関係綴」昭和16年度 弘前市立図書館蔵 写真29 『青森県綜観』弘前市蔵,写真292 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真293~写真299『弘前市の洋風建築』弘前市教育委員会 / 掲載写真の典拠・所蔵一覧
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

三 大浦城「縄張り」の復元 先に述べたように、現在の大浦城跡は破壊が進んでおり、そのままでは旧状復元,昭和五十二年刊) 図18 大浦城跡の古絵図  (3)航空写真(昭和四十年代のもの、弘前市役所蔵), (4)その他 地図・地元住民からの聞き取り  基本となる資料は(1)ア及び(2)アで、現状では,失われ確認できない土塁・堀跡や曲輪の位置や形が復元できる。,資料(1)イは、大浦城の東、賀田地区にあったという「城下町」を復元する手がかりとなる。 / 三 大浦城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) (三 堀越城「縄張り」の復元)

三 堀越城「縄張り」の復元 堀越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,い、縄張り図の作成及び「城下町」の復元を行った。  ,の見取図 上、堀越城跡略図(明治4年模写)  (3)航空写真(昭和二十年代のもの、弘前市役所蔵), (4)その他 地図・地元住民からの聞き取り 図27 堀越城跡測量図 / 三 堀越城「縄張り」の復元
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画 平成九年(一九九七)の調査終了時点で、市内八四ヵ寺に八三〇件二〇〇〇点余,、京七条仏所右京了意作・隣松寺千体地蔵菩薩立像など制作地と名高い仏師の名を確かめ得るものも少なくない。,ちなみに江戸時代中から四国や近畿地方では京や大坂から求めた仏像の修理を製造元に送り返して行っていたが、,なお、そうした在地の仏師は、本尊像ではなく、地蔵堂や観音堂、あるいは亡者供養の小像など限られたものを手,図185.木造十一面観音坐像 図186.木造羅漢立像  このほか弘前の寺院所蔵文化財で / 弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画
資料編1(古代・中世編) (三 乳井茶臼館「縄張り」の復元)

三 乳井茶臼館「縄張り」の復元 一で述べたように、現在、乳井茶臼館跡はその大部分がリンゴ園となり、丘陵全体,そこで縄張り復元に当たっては、表面観察に加えて以下の資料、特に(1)の分限図を最大限に活用して、まず明治時代半,もちろんこの方法でも、それ以前の開墾で造成された段々畑を区別することは不可能で、以下に示す縄張り復元図,沼舘愛三作成の見取図(『津軽諸城の研究』昭和五十二年)  (3)航空写真(昭和四十年代のもの、弘前市役所蔵), (4)その他 地図・地元住民からの聞き取り / 三 乳井茶臼館「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) (三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)

三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の石川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,道路の建設、宅地化、リンゴ園の造成などによって、著しく旧状を損ねており、表面観察だけではかつての姿を復元することは,そこで、次に挙げる諸資料を用い、現状と照合しながら縄張り(城の平面プラン)の復元を行った。,明治16年9月,貴田稲城筆写の古絵図 (3)航空写真(昭和四十年代のもの、弘前市役所蔵),石川城跡の航空写真(昭和40年代撮影) (4)その他、大仏公園造成前の測量図(弘前市役所蔵) / 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

元禄の大飢饉と家臣召し放ち 元禄八年(一六九五)の凶作は、従来貯蔵していた米穀を売り払ってしまうという,家臣団に向けて出された最初の達(たっし)は元禄八年九月朔日のもので、不作への対応として節倹を命じ、さらに,」元禄八年十二月九日条)。,元禄八年段階の全藩士の知行高が一四万四一六五石四斗二升五合である(「元禄八乙亥十一月廿一日改弘前御家中分限帳覚,(福井前掲「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」)。 / 元禄の大飢饉と家臣召し放ち
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士 したがってこの鐘の銘文の第二区から第三区にかけて名を連ねている施銭檀那,沙弥行心」に続く「丹治宗員(たじむねかず)」は、鹿角郡柴内村に地頭職を持つ御家人丹治党安保(あぼ)氏(武蔵国賀美,「源光氏(みつうじ)」は、弘前市中別所の正応元年(一二八八)銘の板碑(資料編1六一一頁・写真115)にもその,この道曉なる人物は、常陸国行方郡の長勝寺の元徳二年銘の鏡の施主でもある。,こうしたことを前提に考えるとき、地元の大豪族津軽安藤氏の前に名が置かれているこれら四人は、関東に本拠を / 嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

最大の借入先であった茨木屋は、元禄以来津軽弘前藩の蔵元(くらもと)を務めていた。,蔵元とは蔵屋敷の管理に当たり、大名から廻米を中心とする「蔵物」の売却・出納をつかさどった商人のことで、,蔵元は大名から手数料である口銭(こうせん)を与えられるなど利益も多く、大商人は競って蔵元・掛屋になりたがり,、十八世紀中期の大坂には一〇〇人を越す蔵元が存在したという。,また、大名の中には借金を踏み倒したり、返済できないまま蔵元を罷免して、新規の町人を蔵元に任用する者もあり
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

これら雇船は、藩の町人蔵元によって派遣されたものであった。,すなわち、大坂廻着の雇船は、多くが蔵元によって雇われ、廻米の販売が行われたのであった。,国元と大坂間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた敦賀廻着の段階と異なり、隔地間の価格差,そして、これら金主の中には、蔵元や掛屋に任用され藩財政にかかわる者も現れた。,上方で金主と借金(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。
資料編2(近世編1) ([付図])

[付図] 一、弘前古御絵図・慶安二年頃(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   二、藤崎村絵図・天和四年,(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   三、岩館村絵図・天和四年(平賀町個人蔵)   四、青森御町絵図,・寛文初期(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   五、奥州十三之図・慶安元年(市立函館図書館蔵),  六、奥州深浦之図・慶安元年(市立函館図書館蔵)   七、陸奥鰺ヶ沢之図・寛文二年(市立函館図書館蔵
資料編3(近世編2) (2 本所の上屋敷)

2 本所の上屋敷 元禄元年(一六八八)の八月十三日に神田屋敷を引き払い、九月十一日に本所屋敷の引き渡,替地後の建物の作事は元禄二年(一六八九)ころから始まり、元禄四年(一六九一)四月ころまでには、一応の完成,その後、元禄八年(一六九五)十二月二十六日と元禄十五年(一七〇二)十二月二十五日の二度にわたって類焼しており,○「元禄十五年以前 本所御上屋敷惣御絵図」          (国立史料館蔵、架蔵番号二二四五),○「元禄十五年以前 本所御上屋敷御絵図」          (国立史料館蔵、架蔵番号二二四八)  
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

し、江戸での蔵元を主に勤めていたのは津軽屋であった。,貞享元年(一六八四)八月五日、当時の当主米屋三右衛門が津軽弘前藩最初の蔵元に任命され、以来、時期によって,ほか)、津軽屋だけは一貫して蔵元として江戸廻米を一手に引き受けて取りさばいていた。,寛政十年(一七九八)に久しぶりに津軽屋以外の蔵元に任命された菊屋は、文化元年(一八〇四)ころには早くも,蔵元としての在任期間はわずか七年に過ぎなかった。
通史編2(近世1) (上方廻米)

上方廻米の販売は、蔵元(くらもと)(蔵屋敷で蔵物の出納・販売をつかさどる役人)によって行われた。,一般に、蔵元は初期には藩の役人がこれに当たり、寛永末ころから町人蔵元がそれに代わった。,当藩の場合、遅くとも寛文期には町人蔵元がそれを担っていた。,しかしながら、敦賀を廻着地とする上方廻米においては、国元から敦賀までの廻漕、敦賀の蔵宿、大津の蔵元と、,流通機構が分断されていたこともあり、蔵元にとっては、決済が上方の相場で行われ、手数料収入しか得られず、
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

本町 在府町 相良町                       宮崎文蔵  元大工町 森町 覚仙町, 塩分町 元長町 上白銀町         打越(うてつ)永吉  茂森町 西茂森町                         ,成田俊蔵  茂森新町 古堀町 古堀新割町                   大島佳寿  新寺町 ,清水慶太郎  親方町 百石町 同細小路 一番町                 小田桐〓  東長町 元寺町, 鉄砲町 上・下鞘師町 元寺町小路 下白銀町    佐野覚蔵  土手町                              
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

度重なる借金に茨木屋は悲鳴を上げ、再三蔵元を辞退したいと述べている。,「大坂で他に借り入れ先がない」と、藩に泣きつかれた茨木屋は再び蔵元を引き受け、「御郡内御扶助米」として,この結果、ついに茨木屋は蔵元を辞退した。  ,藩では藩主名で蔵元の再着任を要請したが、茨木屋は天明二年に自家の経済的困窮と藩の不誠実を理由に正式に断,っている(「(茨木屋安右衛門大坂蔵元再勤被仰付候ニ付御断口上書)」国史津)。
資料編2(近世編1) ([口絵])

[口絵] 津軽為信画像 (国立史料館蔵) 津軽為信霊屋(弘前市・革秀寺) 為信の霊屋は,本文史料231号) 慶長九年八月十七日 津軽信建奉納 巌鬼山神社鰐口 (弘前市・巌鬼山神社蔵、,津軽信枚書状 白取瀬兵衛・服部康成宛(本文史料372号) 近衛家雑事日記(京都市・陽明文庫蔵),弘前藩庁日記(弘前市立図書館蔵) 寛文元年から慶応四年に至る約二〇〇年間の藩の公式記録であり, 御国中道程之図(国立史料館蔵) 全23巻,掲載した図は1巻目の「大手町御門より碇ヶ関峠御境迄」
通史編2(近世1) (恒常化する知行借り上げ)

津軽弘前藩では藩士への借り上げは元禄期からみられる。,第三章第一節でみたように、元禄飢饉で財政が窮乏した元禄八年(一六九五)には、知行の半知借り上げを実施し,藩の俸禄制度は知行制と蔵米制を繰り返していたが、宝暦改革期の一時的な蔵米制導入を経て、安永三年(一七七四,)以降は蔵米制が常態となるのである。,蔵米制のもとでは藩士への年貢米の支給率はその時々の藩の財政状況で容易に変更されうるものとなった。
資料編3(近世編2) ([口絵])

忍ぶ草 (本文史料一六一・一六二号) 弘城出立之図 北蝦夷地陣屋着之図 元喜再,ひ兄の墓へ詣、涕泣のあまり新に卒塔婆を建、句を吟する図 元喜帰宅、句を吟する図 津軽図譜, 平尾魯仙原画(弘前市立博物館蔵) 文化13年の稽古館暦(弘前市立博物館蔵) 稽古館本,(弘前市立図書館蔵岩見文庫) 金木屋日記(弘前市立図書館蔵八木橋文庫) 餓死者供養名号塔,青海波文月千鳥蒔絵長手箱(弘前市立博物館蔵)
資料編3(近世編2) (3 柳原の中屋敷)

その後、元禄十一年(一六九八)九月には火災によって類焼し、同十六年(一七〇三)二月にまた類焼している。,○「元禄十五壬午江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御中屋敷差図」(国立史料館蔵、架蔵番号二三〇二),袋への書き込みからもわかるように、元禄十五年(一七〇二)以前の指図であることは明らかである。,しかし実際には、元禄十一年(一六九八)の火災復旧後の様子が描かれたものと見られるのである。,○「正徳五未乙年十一月 柳原御屋敷惣御絵図」          (国立史料館蔵、架蔵番号二三〇九)
資料編1(古代・中世編) ([付図])

[付図] 石川城縄張り推定復元図   乳井茶臼館縄張り推定復元図   大浦城縄張り推定復元図,乳井神社墓地 25~29 弘前市薬師堂字熊本 愛宕神社境内 30 弘前市境関字富岳 境関館跡(県埋蔵文化財調査,沢町種里町字大柳 種里城跡 3 鰺ケ沢町種里町字大柳 臥竜院墓地 4・5 鰺ケ沢町日照田町字野脇 地蔵堂前,沢町赤石町字宇名原 松源寺境内 10 鰺ケ沢町田中町 無量庵墓地 11 鰺ケ沢町舞戸町字鷲見 館の地蔵堂横,(2) 57 里見館 123 居土観音館 58 紙漉沢館 124 折紙館 59 五所野沢館 125 蔵館
通史編3(近世2) (全昌寺)

全昌寺 全昌寺(ぜんしょうじ)は、京徳寺四世松室の隠居所として海蔵寺と宝積院の間に創建された。,元禄十五年(一七〇二)には衰退し、廃寺になっていたものとみられ、明治三年(一八七〇)に海蔵寺に合併された
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

津軽地方における上方廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部,敦賀の蔵屋敷には御蔵が付設され、後の機能から考えて、主に国元からの廻漕物資、上方で購入した物資の国元への,そして、これが緒(ちょ)についたのは、鰺ヶ沢に町奉行が設置された元和期であると思われる(渡辺前掲書)。,しかし、蔵物(くらもの)の上方廻漕によって積み荷が急増したため、おおよそ寛永から寛文期ころに藩船を利用
通史編2(近世1) (二三 松井四郎兵衛留書)

全部で三巻あり、年代は元禄三年(一六九〇)ころより宝永五年(一七〇八)に至る町方に関する史料が収められている,特に元禄六年から同十年が詳しく、当時の都市の状況や町役人の職掌を知るうえで貴重な史料。,青森県立国書館蔵。
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

三 弘前藩庁日記 寛文元年(一六六一)から慶応四年(=明治元年〈一八六八〉)に至る、約二〇〇年間の津軽弘前藩政,「御国日記」には、寛文元年から元治元年(一八六四)に至る領内の政治に関する各項目に加えて、江戸藩邸からの,「江戸日記」は国元や幕府との連絡事項、藩主の交際に関すること等が主な内容で、総冊数は一二一四冊。,意味では第二次的史料の性質を持つが、津軽弘前藩政史研究のきわめて貴重な基本史料で、弘前市立図書館に収蔵されている
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

寛文五年(一六六五)十一月十一日の「御蔵百姓諸役之定」によれば、蔵入地の百姓に対して諸役の一つとして一斗一升,(代銀二匁六分)の犾米(蔵からアイヌに売却される米)納入が定められていたが、寛文末ごろになると史料からその,元禄元年(一六八八)には下賜される米・銭が、献上量や質によって定められ、さらに元禄六年(一六九三)には,寛文6年)7月17日 今別狄 和泉 熊皮  4 米10俵 1677 (延宝5年)2月9日 今別犾 林蔵, 両人 貝玉   2      8月3日 今別狄 貝玉   2 米2俵 1688 (元禄元年
通史編5(近・現代2) (弘前銀行の解散)

昭和七年になると大蔵省の斡旋を受け入れ、経営陣の刷新を図るが、昭和八年に元重役による背任横領疑惑が出てくると,結局、この事件は容疑をかけられた元重役が同行の信用を守るために粉飾決算を行ったという商法違反として結審,その後、同行は事件が一段落した昭和九年になってから再建を目指すが、すでに大蔵省は昭和八年の段階で弘前銀行
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

にかかわるすべてについての調査であり、家中すべての役知・役料・勤料をはじめ、家中借米高、過去二〇年間の御金蔵の,)事務は上納方金蔵事務扱い、紙御蔵・三御馬屋(さんおうまや)の仕入れは商人に一任、米蔵勘定をはじめ金銀米銭,の諸扱いは御調方役所を通して実施、蔵方と切米方の統合、などである。,から「無格(むかく)」の元司職となった。,貢への権力集中はそのまま「元司職」への諸権限の集中につながった。
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

給地百姓から、一二〇四人(器械持夫、鉄炮等雑器持夫・浮夫(うきふ))が蔵百姓から出されることになっている,明和四年(一七六七)時の給地と蔵入地の石高比率が、二四・〇パーセントと七六・〇パーセントであるから(「,田畑不熟損毛御届一件」弘図古)、蔵百姓の動員が多いことになる。, 弘図古)ことからも知られるように、蔵百姓を貸郷夫(かしごうふ)として藩士に与えていたのである。,各藩士の従者と器械持に当たる人夫が一六一人で、そのうち四一人が掃除小人からの貸し付け、一二〇人が「御蔵・
資料編3(近世編2) (1 神田の上屋敷)

その後、元禄元年(一六八八)八月に、弘前藩の上屋敷は本所二つ目に屋敷替となっている。  ,○「江戸神田御上屋敷御指図」          (国立史料館蔵、架蔵番号二二四一)  これは、貼絵図彩色,江戸神田御上屋敷御指図(国史津・2B-2241) ○「神田御上屋敷御絵図」          (国立史料館蔵、,架蔵番号二二二七)  これも貼絵図彩色のもので、その仕上がりは非常に美しいものである。
通史編4(近・現代1) (市会と市役所開庁)

宮川富三郎 蒲田廣 本多謙一 花田直太郎 葛西末吉 芹川得一 佐田正之丞 桜庭又蔵 奈良誠之助 石郷岡文吉,(以上三級一〇人)  宮本甚兵衛 海老名東太郎 宮川久一郎 片山忠兵衛 今泉文蔵 武田荘七 山内金三郎,ここは、旧東長町外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年元寺町一番地の中津軽郡役所跡に移った。,助役には長尾義連、収入役は高倉良蔵で吏員は三一人だった。,写真61 元寺町の市庁舎(明治25年新築)  中津軽郡各村の初代村長は次のとおりである。
通史編4(近・現代1) (地券の発行準備)

その意図は大蔵省によって各府県へ伝えられ、県は町村へ伝達した。,  第拾九区  元和徳組 第弐拾区  元弘前   第弐拾壱区 元駒越組 第弐拾弐区 元駒越組  第弐拾三区, 元藤代組 第弐拾四区 元高杉組  第弐拾五区 元高杉組             伊藤正良             ,平出清             神市太郎(後略) (弘前市立図書館所蔵)  このようにして発行された,持主之候地所者、反別高、現今売買相当之地価、并地引絵図共持主切取調、一村毎ニ取纏メ可申出事 (弘前市立図書館所蔵)
通史編3(近世2) (瓦の利用)

その後、三の丸南門、次いで東門と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。,元禄十七年(一七〇四)三月十三日条によると、報恩寺作事入用瓦として九万枚余の見積もりが出されている。,②百沢寺では、元禄十一年(一六九八)八月二十三日条によると、神蔵および黒門・番所・腰懸(掛)・外繋(そとつなぎ,初見は元禄五年(一六九二)九月二十日条の蔵の破損瓦の修復である。,初見は元禄三年(一六九〇)三月九日条に認められるが、屋根丸瓦の破損、その他に関するものである。
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

そのころの様子は、元禄時代以前の弘前城や城下を描いた絵図によって、ほぼ知ることができる(ここで言及する,―若干の解脱と復元―」『弘前大学人文学部特定研究報告書 文化における北』一九八九年参照)。  ,その後も御用地として屋敷が召し上げられた家臣が郭外に移転する例があったが、本格的な移転は元禄八年(一六九五,この時期の様子を示しているのが、元禄十一年(一六九八)改訂された「弘前惣御絵図」である。,移転の結果、城内の家中屋敷跡には、二の郭に御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵
通史編2(近世1) (預手形の性格)

預手形の性格 宝暦の標符と異なり、預手形の発行に当たっては、「御元方御用達」として任じられた城下の主要,発行主体は「北御蔵拼頭(からかき(からげ)) 竹内勘六」「亀甲御蔵拼頭 宮崎八十吉」「石渡御蔵拼頭 宮崎新太郎,手形の額面にも、藩が直接関与する文言はなく、御元方御用達の一人、宮崎八十吉(やそきち)の署名と押印があることから,しかし、藩の保証の元に正金銭と交換できる建前だったから、実質的な藩札であったとみてよい。
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