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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (宝暦改革と蔵米)

宝暦改革と蔵米 乳井貢が主導した宝暦改革では蔵米制が採用され、後年の恒常的な蔵米化の先駆けとなった。,、藩は飢饉のため在方の借金・借米を免除、同年九月に知行取から切米取(きりまいとり)に至るまで全藩士の蔵米化,この蔵米化は、「国日記」九月九日条によると(資料近世2No.三六)、知行地から年貢が徴収できず困窮した,蔵米化に当たっては、宝暦六年十月に発行された一種の現金手形である「標符(ひょうふ)」が活用された。,蔵米制も歩調を合わせるがごとく、同月に凶作後の復興もなったとして、再び地方知行制に戻された(同前No. / 宝暦改革と蔵米
通史編2(近世1) (安永期の蔵米化)

安永期の蔵米化 宝暦八年(一七五八)に、乳井貢は失脚し、宝暦改革も頓挫するが、藩の財政はその後も度重,図133.宝暦10年の知行帳  そして、安永三年(一七七四)に至り、再び全藩士の蔵米化が実施される,蔵米化は直接的には藩士財政を藩財政に組み込むことによって、藩が自由に運用できる部分を増やし、財政難に対処,藩側の論理では、貞享検地から既に九〇年以上が経って減石が目立ち、このままでは勤務に差し支えるとして、蔵米制 / 安永期の蔵米化
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

の知行地が設定され、年貢の課徴権(あるいは限定付きながら領主裁判権)を与える制度であるが、全国的には蔵米知行,しかし、津軽領の場合、藩が藩士への俸禄の支給を一括して管理する「蔵米制」への移行が進み、貞享二年(一六八五,)に早くも全藩士への蔵米化がなされているが、正徳二年(一七一二)には再び地方知行制が復活している。,なお、武家社会においては蔵米制より地方知行制のほうが格が高いものという意識があり、蔵米制になって以降も
通史編2(近世1) (恒常化する知行借り上げ)

藩の俸禄制度は知行制と蔵米制を繰り返していたが、宝暦改革期の一時的な蔵米制導入を経て、安永三年(一七七四,)以降は蔵米制が常態となるのである。,蔵米制のもとでは藩士への年貢米の支給率はその時々の藩の財政状況で容易に変更されうるものとなった。
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

国元と大坂間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた敦賀廻着の段階と異なり、隔地間の価格差,また上方廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と金融とを結びつけることとなった,さらに、このとき、蔵米販売は、米とその代銀の脇払いを禁止して行われており、敦賀廻着のときにみられた、藩,の手による蔵米販売は不可能となってきているのである。,弘前藩は、藩財政を支えるためには、北国諸藩のなかでも加賀藩に次ぎ秋田藩と並ぶほど、より多くの蔵米を大坂廻米
通史編2(近世1) (近世初期海運)

また、この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが,加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも,出羽地方の諸藩と同様に、近世初期から弘前藩の御蔵米の払い方は、主として京都・大津で行われていたのであった
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

文禄四年(一五九五)十二月、若狭小浜の豪商組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この,したがって、組屋が請け負った津軽の蔵米から推測される津軽地方の蔵入地の石高とほぼ一致する。  ,津軽地域の蔵入地からの蔵米は、鷹運搬のための費用とすることを認められたものであったのであろう。  ,そして、このとき、舟賃は「秋田蔵米」を充てることになっていた(同前)。,これら「隣郡之衆」にも、三月に由利五人衆が指示されたように、やはり、秋田実季の領内の蔵入地からの蔵米を
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

これに伴い信英が幕府から支給されていた蔵米三〇〇俵は返上を命じられ、また津軽家からの蔵米一〇〇〇石支給
通史編2(近世1) (経済政策の前提)

この措置は、同五年の大凶作を経て、翌六年からの知行蔵入り(蔵米知行制)へと展開している。,そして、その上で蔵米を俸禄に応じて全額支給した。,詳しくは後述するが、藩士への蔵米支給が「標符」によってなされたことからも知られるところである。  
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

こうした状況になった最大の理由は、地方制から蔵米制という知行制の変換にあった。,蔵米制下の代官は、代官支配地を替えられることによって在地性を失い、地方役人としての性格が強くなった。,そのため、蔵米取としての知行高の中でしか、自身の再生産と、その職務の遂行を果たしえなくなっていたのであった
通史編2(近世1) (天保の飢饉の特徴)

表59 天保年間の蔵米収入 年 西 暦 蔵米収入高 天保 2 1831 15万6500石 &
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

その一方で、藩は十二月二十八日には御蔵米の値段を安値に放出して米価を下げようとしたり、翌二十九日には青森町,正金銭でなければ購入できないため、町方の者が難渋に及んでしまうということで、今別町奉行が青森御蔵からの蔵米五,城下町の弘前でも小売米が減少し、町奉行が御蔵米四〇〇俵の払い下げを求めた際も、町の有力者が自分自身で他国
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

をしてくれたので乗り切ることができたと感謝しながらも、返済の見込みが立たないことを恐縮しており、同年の藩士の知行蔵米化,宝暦五年の蔵米化は凶作下という特殊事情もあったが、後で触れる安永三年(一七七四)の蔵米化はより直接的に
通史編2(近世1) (地方知行制の復活と借知制の実施)

貞享期以来続いてきた蔵米制の廃止が決定され、地方知行制が復活したのである。,蔵米制の知行宛行状では藩士に宛行(あてが)われる知行高のみの記載となっているが、これが地方知行制になると
通史編2(近世1) (元文検地の実施)

給人に対しては、元文二年(一七三七)二月に三新田に給地が入り組み年貢収量が不足した場合、蔵米をもって充足
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

目明は町目付の下にあり、定員二名で蔵米一〇俵が給せられていた。
通史編3(近世2) (慈雲院)

享保十三年(一七二八)には諸堂建立のため領内托鉢修行の願いが出され、同十七年に藩から蔵米渡しで俵子五〇
通史編2(近世1) (天明期の借り上げと寛政期までの状況)

この制度の目的と経過については本章第二節のとおりであるが、在宅制度は知行地と藩士財政が完全に分離される蔵米制,以後は弘前藩の俸禄制度は再び蔵米制を基調にして、幕末に至った。
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

同じ西浜の深浦では天明三年七月三十日に蔵米を津出しようとした問屋、三国屋助左衛門・秋田屋惣左衛門が打ちこわしを
通史編2(近世1) (材木移出)

このようにして津軽領内から移出された材木は、上方においては、蔵米と同じように現銀化可能な有力商品であった,蔵米と並び、材木の販売代金が、藩財政収入に大きく貢献していたと思われる。
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

これは前月二十八日に、青森町年寄・町名主により御蔵米(おくらまい)一〇〇〇俵払い下げの請願があったのを,受けたもので、同日に御蔵米の放出も決定している(「秘苑」)。
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

津軽地方における上方廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部
通史編2(近世1) (俸禄の支給方法)

俸禄の支給方法 しかしながら蔵米化以後も財政状況に伴う俸禄の借り上げは続いた。
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

大名の分限である一万石にするために、本家の蔵米を充当しようとしたのは、幕府の加増を受けて大名に昇格することが
通史編3(近世2) (寺院の動向)

その内容は、以後、寺社禄は地方知行(じかたちぎょう)(知行地からの年貢徴収をその領主に任せる方式)から蔵米支給,されていないのは、寺社禄合計二七五九石余(明治二年当時)中、社禄は四五四石余と少なく、地方(じかた)知行から蔵米支給
通史編2(近世1) (新施策の実施と知行制度の転換)

地方知行制(じかたちぎょうせい)から、藩が一元的に取り立てた年貢米から知行高相当の米を俸禄として与える蔵米
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

一方、人件費といえる藩士への蔵米渡・役知・切米・扶持米等は六万一〇一石(二八・五九パーセント)である。,木谷藤右衛門 他5名)買受米他 16,911 8.04 在方1万俵之元利 4,800 2.28 知行の蔵米渡
通史編2(近世1) (騒動の要求と結果)

によってやや異同はみられるものの、(一)来年三月まで公定価格での米の販売、(二)廻米の停止と来秋までの藩による蔵米
通史編2(近世1) (糧米確保)

さて、八月十四日に弘前城下での蔵米・町米、十五日には「浦々九ヶ所」での米価を公定し、二十三日に改定されている,23.6) 50.0(21.2) 60.6(25.6) 55.5(23.2) 注) 但し,数値の上段は蔵米
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

また、酒田の舟持商人は、特に最上氏家臣などの蔵元的機能を持っており、上方商人に中継して蔵米の売却を行っていて,、酒田と上方(敦賀)間の蔵米の廻漕・販売は行ってはいなかったようである。
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」発行の前提と経過)

同六年九月十五日、藩は知行蔵入りに加え、藩士の借金の返済肩代わりと延納分の「皆捨」を発令して、藩士に対しても等しく蔵米,蔵米の扱いはすべて町人の取り扱いとなったのである。  
通史編2(近世1) (上方廻米)

このように、敦賀を廻着地とする上方市場への蔵米販売は、藩の主導のもと不安定な条件の下で行われていた。
通史編2(近世1) ((二)藩士土着政策の展開)

(二)藩士土着政策の展開 改革意見書にみられるように、藩士土着策は、端的には、藩士の城下集住策と蔵米知行制
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

さらには同年八月、藩士の蔵米知行制が、再び旧来の地方知行制へと転換した。
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

さらに、北屋と提携した上方商人長浜屋源左衛門は、弘前藩の蔵米の売却にもかかわっていた(『五所川原市史』
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

財政再建にも熱心であり、財政機構改革や新田開発や改易大名領を加えた幕領の増加、不正代官の糾弾や旗本知行の蔵米地方直
通史編2(近世1) (貞享検地)

(一六八五)三月に、知行の蔵入が行われたことが反映され(これにより知行高の六〇パーセントを基準として蔵米
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

さらに、寛文十三年(一六七三)二月三日付の十三御蔵奉行宛ての布達によれば、三世寺・板屋野木からの御蔵米
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

藩士へも知行を止め、すべて蔵米渡しとし、藩が藩士への扶持を一括管理することにした(同前No.三六)。
通史編2(近世1) (宝暦五年の米切手と標符(通帳))

なお、一〇石に統一されたのは、蔵米札の表示内容量が、米の場合、普通は一〇石かその倍数、またはそれに相当
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

その搬出すべき米は青森御蔵にあった津軽弘前藩の蔵米が充てられており、勘定奉行が藩側の払米責任者となり管理
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

細部にわたった規定が盛り込まれているが(『御定書』三五)、なかでも、岩木川舟運によって運搬されてきた御蔵米
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

この記載の形式は、文化六年(一八〇九)、黒石津軽家が本家から六〇〇〇石の蔵米を加えられて一万石の大名となった,四〇〇〇石は実際に黒石津軽家が内分で得ている知行地の高であり、六〇〇〇石は蔵米支給のため、判物の役割りである
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

家中禄米を三歩引きとして財政難打開を図ったり(同九月)、寺社禄を地方知行制(じかたちぎょうせい)から蔵米
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

表61 子年(文化13年)納米方収入 費  目 米 高 比率 ① 当子年収蔵米 144,400石 73.82%
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

「国日記」享保二年(一七一七)十二月七日条には、米屋仲間が弘前御蔵米を買いたいとの請願を行っており、米屋仲間
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄四年(一五九五)十一月二十日、若狭小浜の組屋源四郎、津軽の太閤蔵米を売却する。,●文禄四年(一五九五)十一月二十六日、浅野長吉、若狭小浜の組屋源四郎売却の、津軽の太閤蔵米販売代金を受領,●慶長十九年(一六一四)五月四日、家臣小山和泉、蔵米と打出米を受領する。
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