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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

正中二年(一三二五)九月十一日付の譲状(史料六二一)には、譲渡する諸職の内容として、津軽鼻和郡絹家島(,けんかしま)・尻引(しりひき)郷・片野辺(かたのべ)郷と糠部宇曽利(ぬかのぶうそり)郷(下北半島)・中浜御牧,具体的にそれらの地名を考えてみると、津軽鼻和郡内の「絹家島」と「片野辺郷」については現地比定が困難であるが,「湊」については、それを十三湊とする説と、下北半島の内に求める説とに分かれるが、配列のみからいうと後者,ただし右掲の二点の安藤嫡流家に関する譲状に、津軽半島の陸奥湾側である外浜の名がみられないことから、外浜 / 安藤氏の所領
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

安藤氏の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤氏と南部氏との戦いの結果、安藤氏,が「エソカ島」へ敗走し、幕府がその調停に乗り出したことが伝えられる(史料七七一)。,にわたって途絶えていたことから、安藤氏は没落したともいう。,当主ではない)が十三湊を南部氏に攻められ松前に逃れ、盛季の子康季(やすすえ)が文安二年(一四四五)に夷島より,南部氏は自らの支援で安藤氏の擁立をしてまでも、安藤氏権力を吸収したかったのである。 / 安藤氏の没落
通史編1(古代・中世) (安藤氏の特殊な氏族結合)

安藤氏の特殊な氏族結合 ところで右の「三沢安藤四郎」という名乗りは、苗字らしいものが知られない安藤氏一族,もっとも苗字なら「安藤三沢」と名乗るのが通例であり、また他に苗字史料がないことから、安藤氏にはやはり苗字,松島の雄島(おしま)の貞和五年(一三四九)銘の板碑にみえる「安藤太郎妻」を含む多数の結衆は、やはり女系,こうした海の民・山の民としての在り方こそ、津軽安藤氏の元の姿であった。,津軽においては安藤氏は、藤崎や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。 / 安藤氏の特殊な氏族結合
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

湊安藤氏の誕生 「北海夷狄」の動乱が起きていたというちょうどそのころ、下国安藤盛季の弟鹿季が足利義満,163)でも鹿季が秋田の湊を攻め、湊家の元祖となったことを伝え(史料一一五三)、これは秋田湊をめぐる安藤氏一族,秋田城介の一党が南朝方に加担したことにより、責任を問われて改替され、それへの抵抗として津軽側の下国安藤氏,そして、「秋田屋形」を公的な称号とし、秋田湊を本拠とし、秋田小鹿島の一帯を支配するようになった。  ,の北畠氏を御所称号の扱いの家柄とし、夷島南部の館主たちとアイヌとの交易を統括させるというものであった。 / 湊安藤氏の誕生
通史編1(古代・中世) (渡嶋の終焉)

渡嶋の終焉 その後、寛平(かんぴょう)五年(八九三)にも、元慶の乱の後遺症から、渡嶋蝦夷と他の蝦夷との,間でもめごとがあったことが伝えられているが(史料三五一)、これを最後に、「渡嶋」の名は歴史から消えていく,写真55『本朝往古沿革図説』  東北経営の完了とともに、渡嶋の本州部分は津軽に取り込まれ、北海道,一方、こうした北奥の実力者としての津軽の蝦夷の伝統は、中世津軽安藤氏に引き継がれていくこととなるのである / 渡嶋の終焉
通史編4(近・現代1) (後藤象二郎の動向)

後藤象二郎の動向 このとき、後藤象二郎は時機至れりとして起(た)った。,しかしながら、この弾圧は志士の猛攻を一時防いだだけで、翌年四月二十二日東北有志の大会が福島の松葉館で開,かれて、後藤も参加した。,全天下を挙げて「後藤出でずんば蒼生(人民)を奈何せん」と叫んだのである。,写真62 後藤象二郎 / 後藤象二郎の動向
通史編1(古代・中世) (海の民・山の民としての安藤氏)

海の民・山の民としての安藤氏 この安藤氏といえば、従来は津軽を中心に、東は下北、西は男鹿半島、北は渡島,安藤一族の海の民としての広がりは、仙台湾や松島湾周辺の史料にその姿が記録されていることからも知られる。,安藤氏が山の民であったことは、のちに触れる鎌倉末期の「安藤の乱」(津軽大乱)鎮圧のことを「津軽山賊誅伐事,や三沢安藤四郎についても、やはり津軽安藤氏一族に属するものと考えられる。  ,安藤氏の始祖伝承中にみえる安日はまた、山の民マタギの祖先でもある(史料一一五七)。 / 海の民・山の民としての安藤氏
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

福島正則の改易 福島正則は尾張の住人福島市兵衛正信の長男で、母は豊臣秀吉の伯母木下氏と伝えられている,加藤清正・加藤嘉明・片桐且元らの「賤ヶ嶽の七本槍」と称される秀吉近侍の家来よりも一段上の、別格扱いされる,そのため、この年十一月安芸・備後二ヵ国で四九万八二二三石の領地を与えられ、広島城主となった。,図63.福島正則画像  しかし、元和五年(一六一九)六月二日、先に広島城を無届けで修築したことをとがめられ,図64.戦災で消失する前の広島城 / 福島正則の改易
通史編1(古代・中世) (安藤の乱の展開)

安藤の乱の展開 出羽の蝦夷蜂起と同じ元亨二年(一三二二)春、惣領安藤又太郎季長(すえなが)とその従兄弟五郎三郎季久,元来、山の民・海の民として自由な存在であった安藤氏ではあるが、このころには、蝦夷管領も鎌倉殿というよりは,同時に安藤惣領の通り名「又太郎」も名乗るようになった。,あるいは発祥の地藤崎を上国、移住先十三湊を下国とでもいう慣習があったのであろうか。,後述するが、南北朝期以後には、出羽国小鹿島の安東氏を上国、津軽安藤氏を下国と称するようになっていくものと / 安藤の乱の展開
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

安藤愛季の津軽侵略 安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ,写真199 安倍(安藤)愛季坐像  天正三年(一五七五)、織田信長は愛季郎従南部宮内少輔の帰国に,一方、安藤氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。,さて、愛季は天正六年(一五七八)から津軽に侵攻を開始するが、このとき、夷島の蠣崎季広が愛季を支援し浪岡口,為信は安藤勢との戦いという苦境のなかで、南部氏に降伏を余儀なくされ、和約を結んだ可能性があるという。 / 安藤愛季の津軽侵略
通史編1(古代・中世) (夷島流刑と東夷成敗権)

夷島流刑と東夷成敗権 当時の幕府・六波羅探題の法律書『沙汰未練書』には「武家ノ沙汰」の一つとして「東夷成敗,東夷トハ蝦子(えぞ)事也」とあるが(史料六一五)、夷島への流刑行為はこの幕府独自の権限である「東夷成敗権,つまり夷島流刑とは、いったん京都の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」,を鎌倉幕府に渡し、鎌倉殿の手で夷島に流すという国家的流刑なのである。  ,早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている / 夷島流刑と東夷成敗権
通史編1(古代・中世) (夷千島王の朝鮮遣使)

夷千島王の朝鮮遣使 文明十四年(一四八二)四月、足利義政の使者栄弘(えいこう)と夷千島王(えぞがちしまのおう,さて、夷千島王の使者については、朝鮮側はこの国の存在を知らない上に、宮内卿が朝鮮側からの質問に適切に答,っていることなどから、日の本将軍としてある程度の独立した勢力を持ち、日本海交易と密接にかかわる安藤氏ではないかといわれる,日の本将軍の呼称と同じように、この夷千島王についても、地域の自立性が指摘されるのである。  ,なる人物は日本列島北部の者ではありえず、対馬島民であり対馬島主宗貞国が支援していた可能性が高いという指摘 / 夷千島王の朝鮮遣使
通史編4(近・現代1) (鍋島知事の対応)

鍋島知事の対応 鍋島知事は弘化元年(一八四四)佐賀に生まれた。,福島九成前知事の施政に大変革を加えたが、特に重要なのは三〇万円の特別土木工事の中止である。,動ずることなく、翌年広島県知事に栄転、のち貴族院勅選議員となり、男爵を授けられた。,鍋島知事を補佐した松沢光憲は秋田県新庄の出身で、昌平黌に学び、舎長となり、のち警視庁に入り、鍋島知事の,軽侮罵言極メシト云ヘリ  九月一日 今日各郡ヨリ(八戸ヨリモ来ル)来集ノ有志ト唱スル者(是ハ過日後藤伯 / 鍋島知事の対応
通史編5(近・現代2) (藤森市政の財政)

藤森市政の財政 合併初年度となる昭和三十一年度に第二二代(~第二六代)弘前市長に就任した藤森睿(さとる,その後、五期にわたる藤森市政の財政は、津軽広域圏のインフラ整備と都市開発が重点施策となった。    ,その後指定に向けた運動が展開され、五十年三月、総面積二万六〇〇〇ヘクタール余り、津軽半島北端部から日本海,(二)市政における重点施策  藤森市政における重点施策は弘前市の都市開発にあった。,写真153 議場での藤森市長   ①公共物の建設  昭和三十年三月、弘前市は中津軽郡一一ヵ村と / 藤森市政の財政
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

このことから、師季の保護は、南部氏が十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,が替わった可能性も指摘されている)氏を擁立して、その存在に依拠する形で津軽・下北・夷島(蝦夷島)各所の,安藤一族を懐柔し、また、旧安藤領支配を円滑なものにするとともに、室町幕府から認められていた安藤氏の地位,さらに文明二年(一四七〇)には、安東政季(師季)が津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館,この「夷千島王遐叉」の正体については諸説あり、夷千島王遐叉を安東政季とすることは難しい。
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

幕府による蝦夷沙汰の具体例としては、先に夷島流刑について説明したが、幕府の夷島支配については、頼朝からの,鎌倉殿の夷島流刑といった行為は、まさに鎌倉殿が京都の朝廷より付与された「東夷成敗権」に基づくものなのであり,早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている,安藤氏は夷島流刑の、現地における執行者なのである。  ,夷島流刑についても、穢(けがれ)を扱うものはやはり穢れたものの子孫でなければならないという、都人の認識
資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

岡田康博 岡村道雄 葛西励 菊池徹夫 木村高 木村鉄次郎 木本元治 北林八洲晴 工藤竹久,工藤泰博 工藤雅樹 江坂輝彌 小井川和夫 小島道裕 小松正夫 坂井秀弥 塩原鉄郎,進藤秋輝 高橋昭治 高橋潤 高橋信雄 高橋学 高橋与右衛門 田中寿明 千田嘉博 辻秀人,冨樫泰時 豊島勝蔵 七崎修 奈良昌紀 成田盛 畠山昇 林謙作 半沢紀 福田友之,藤沼邦彦 船木義勝 本堂寿一 前川要 松山力 三辻利一 三宅徹也 横山英介 吉岡康暢
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

                         成田俊蔵  茂森新町 古堀町 古堀新割町                   大島佳寿,                    竹内廣太郎  桶屋町 銅屋町 南川端町                     斉藤定一,                     吉澤勇馬  新町                               工藤寅之助,                          石郷岡平次郎  また、明治十四年の中津軽郡役所資料によると、 旧藤代組,                           鳴海仁太郎  蒔苗村                              小島七郎
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●長治元年(一一〇四)七月、藤原清衡、藤原忠実に馬を贈る。,●元永元年(一一一八)八月、藤原忠実、藤原清衡所進の馬を藤原忠通に贈る。,●文治五年(一一八九)九月三日、藤原泰衡、夷狄島をめざし糠部へと北上するも、比内郡贄柵で敗死。,●建久二年(一一九一)十一月二十二日、京都罪人を夷島流刑。,●正治二年(一二〇〇)六月二十四日、大津神人の訴えにより、検非違使庁下部を夷島に流刑。
通史編1(古代・中世) (奥羽の特殊産物)

そこで異民族たる蝦夷の住む夷島に注目し、奥羽の延長に夷島があり、したがってその夷島産物は奥羽所出品であるという,先にみた正中二年(一三二五)の「安藤宗季譲状」(史料六二一)に記された糠部の地名はほとんどが「浦」であり,一族として「もくし(牧士)きとう四郎」なる人物がみえることから明らかなように、山の民・海の民である安藤氏,以上のように、安藤氏が就いた蝦夷管領とは、幕府による蝦夷支配と犯罪人の夷島流刑を現地で執行する代官職であり,環日本海世界を舞台に、スケールの大きい交易活動に従事していた安藤氏の在り方は、こうした蝦夷管領たる職にふさわしい
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

協力者及び協力機関一覧(敬称略) ※個人・各機関ごとに五十音順   秋田一季(東京都豊島区),阿部光男(秋田県鹿角市) 市村高男(千葉県我孫子市) 入間田宣夫(宮城県仙台市) 遠藤巖(宮城県名取市,) 平賀町教育委員会(青森県) 深浦町教育委員会(青森県) 深浦町歴史民俗資料館(青森県) 藤崎町教育委員会,(青森県) 藤島神社(福井県福井市) 北海道立文書館(北海道札幌市) 身延山久遠寺(山梨県身延町,) 陽明文庫(京都府京都市) 遊行寺(神奈川県藤沢市) 龍泉寺(青森県弘前市) 林清寺(秋田県秋田市
通史編1(古代・中世) (北方の蝦夷の乱)

北方の蝦夷の乱 蝦夷管領として蝦夷および夷島を支配してきた安藤氏であるが、鎌倉末期、その蝦夷管領職相続,、かねて北の地に生じていた蝦夷の反乱と重なって、津軽は鎌倉幕府滅亡の一原因ともされるような大乱(「安藤氏,蝦夷管領職は安藤氏の北方支配の権力の根源であるから、この争いは深刻なものであった。  ,しかしそうした安藤氏一族の内紛が騒ぎを大きくした直接の契機であるとはいえ、その前提としての、このころ頻発,していた蝦夷=アイヌの争乱こそ、むしろ安藤氏の乱の主要な原因として重要視すべきであろう。
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

姓は後日のもの  7 榊田幸蔵 59歳 諸手足軽 5石2斗1升 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,家督は息子彦蔵へ  8 岩崎彦蔵 54歳 諸手足軽 5石2斗 秋田矢島領吉沢村 永世17俵,俵 家督は息子音五郎へ 10 岩沼小兵衛 28歳 諸手足軽 不明 秋田矢島領吉沢村 永世15俵 家督は,へ 32 藤田文吉 22歳 三等銃隊 無足 秋川矢島領吉沢村 永世15俵 永世禄は父卯之吉へ 33 佐藤平吉,永世50俵・物品 家督は息子郡太郎へ 63 工藤善司 22歳 以上支配 12石2人扶持 秋田矢島領吉沢村
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●永享三年(一四三一)、安藤盛季、小鹿島赤神権現に神領を寄進するという。,●永享四年(一四三二)十月、下国安藤氏、南部氏に敗れ蝦夷島に敗走。幕府、調停に乗り出す。,●嘉吉三年(一四四三)十二月、下国安藤盛季、小泊より蝦夷島へ渡り、文安元年死没するという。,●文安二年(一四四五)、下国安藤康季、蝦夷島より津軽に入るが、引根城で病死するという。,●康正二年(一四五六)、秋田の湊安東堯季、蝦夷島の下国安東政季(師季)を小鹿島に迎え、さらに河北郡に入部
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

応永十八年の衝突 応永十八年(一四一一)、南部師行は葛西持信(かさいもちのぶ)の支援を受けて、秋田湊の安藤鹿季,写真165 『聞老遺事』 目録を見る 精細画像で見る  室町期、安藤氏を除いて、国人相互間に奥州探題,つまり、奥州探題体制が及ぶのは、南奥羽から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は,安藤氏は、夷島・北奥羽の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物,応永三十年(一四二三)に安藤陸奥守(盛季ヵ)が五代将軍足利義量(よしかず)に馬・鳥・鵞眼(ががん)(銭
通史編5(近・現代2) (一 小学校教育)

番号 種別 学校名 所在地 校長名 教員数 児童生徒数 学級数 1 小学校 修斉 十面沢字赤坂三 藤田利一郎,2 小学校 草薙 大森字田浦一二 成田武作 七 二一四 六 3 小学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二 工藤一雄,14 小学校 静修 津賀野字岡本一五 猪股文雄 八 二一八 六 15 小学校 明誠 撫牛子字橋本二二 島村喜美,八 三一五 七 16 小学校 福村 福村字林元八一の一 福島直江 一三 三九一 一〇 17 小学校,小学校 第一大成 土手町一五七 高橋芳一 三七 一七七〇 三一 29 小学校 第二大成 品川町七一 和島秀夫
通史編5(近・現代2) (総選挙での戦い)

したがって、昭和五年一月、浜口内閣によって行われた第二回普選では、第一区は日本大衆党公認小島利雄、第二区,は前回同様石渡春雄という弁護士の輸入候補を立てて戦ったが、小島候補一四一一票、石渡候補二九四七票で、石渡,  東目屋村 長谷川毅  清水村 成田清太郎  和徳村 佐藤多作  弘前市 佐藤昇一  同 近藤東助  ,  執行委員長 小島利雄   書記長   西村菊次郎(党本部中央執行委員を兼任)   各部長   ,社会民衆党県支部連合会(会長欠く)   書記長   阿保与一   執行委員  古木名真太郎、幸田儀一郎、竹島儀助
資料編3(近世編2) (「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))

平成十一年四月一日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 編纂委員長  福沢重夫  弘前市助役 副編纂委員長 佐藤圭一郎, 弘前市教育長 監修者    乕尾俊哉  弘前大学名誉教授 編纂委員   工藤茂起  弘前市企画部長,  浪岡町町史編さん室主幹 執筆協力員  二部濱男  元青森気象台調査官   〃    佐藤仁   ,瀧本壽史  青森県史編さん室主幹   〃    坂本壽夫  県立五所川原工業高校教諭 執筆協力員  小島康敬,  国際基督教大学教養学部教授   〃    成田敏   県立郷土館主任学芸主幹   〃    高島成侑
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 ○編纂委員長  新宅清司  弘前市助役 ○副編纂委員長  佐藤圭一郎,  弘前市教育委員  村越潔   弘前大学教育学部教授  長谷川成一 弘前大学人文学部教授  齊藤利男,原始・古代・中世専門部会〕 ○部会長  村越潔   弘前大学教育学部教授 ○執筆編集員  齊藤利男,県企画部広報広聴課青森県史編さん担当総括主査  坂本寿夫  県立五所川原高校教諭 ○執筆・調査協力員  小島康敬,  国際基督教大学準教授  成田敏   県立郷土館主任学芸主査  高島成侑  八戸工業大学教授
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

円覚寺(西津軽郡深浦町) 円明寺(弘前市) 大国主神社(秋田県仙北郡西木村) 大阪府立中之島図書館,大日霊貴神社(秋田県鹿角市) 大鰐町企画観光課 尾上町教育委員会 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市),鹿島神社(茨城県東茨城郡桂村) 金ヶ崎町教育委員会 京徳寺(弘前市) 宮内庁正倉院事務所 宮内庁書陵部,福島県立博物館 藤崎町教育委員会 法源寺(弘前市) 法立寺(弘前市) 本土寺(千葉県松戸市,  秋田美篤 齋藤淳 南部光徹 乳井りや 守矢早苗
通史編5(近・現代2) (市民の政治意識の変化)

当時第二区の代議士は、黒石の兼田秀雄(政友-昭和会)、弘前の工藤十三雄(政友)、菊池良一(民政)の三人,さらに、政友会から公認の津島文治(金木町)と非公認の對馬桑太郎(石川町)、民政党からは公認で藤田重太郎,当選     一五、〇三四票 小野謙一(東方会・新)     一一、一八三〃 津島文治(政友・新),兼田秀雄(昭和会・前)      三、一五〇〃 岩淵謙二郎(社大・新)      二、九四八〃 對島桑太郎,なお、津島文治は、選挙違反に座して代議士当選を辞退したため、次点の菊池良一が繰り上げ当選となった。
通史編5(近・現代2) (四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)

全県一区の大選挙区制、定員七 三万五八六二票 日本社会党 大沢 久明 青森市 三万二七五一票 進歩党 津島 ,黎一 つがる市木造 四万六五四七票 自由民主党 田沢 吉郎 田舎館村 四万七六七〇票 日本社会党 島口重次郎,弘前市 昭和四十年七月四日第七回参議院議員通常選挙 一八万三四三九票 自由民主党 津島 文治 五所川原市金木,吉郎 田舎館村 六万〇〇〇四票 自由民主党 竹内 黎一 つがる市木造 四万四三四七票 日本社会党 島口重次郎,武一 青森市浪岡 昭和四十六年六月二十七日第九回参議院議員通常選挙 二六万〇六三三票 自由民主党 津島 
通史編1(自然・原始) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分))

弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 編纂委員長  藤田喜代一, 弘前市助役 副編纂委員長 佐藤圭一郎 弘前市教育長 監修者    乕尾俊哉 弘前大学名誉教授,編纂委員   工藤茂起 弘前市企画部長   〃    森山泰太郎 東北女子大学名誉教授   〃    ,青森県立郷土館主任学芸主査   〃    坂本壽夫 青森県立郷土館主任研究主査 執筆協力員  小島康敬, 国際基督教大学教養学部教授   〃    高島成侑 八戸工業大学工学部教授   〃    須藤弘敏
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

  芹川得一(弘前・自由)       一九票  佐田正之丞(弘前・自由)   次点  一二票  藤岡知言,の天長節を期して青森古川で起工式が行われたのだが、翌十九年七月福島知事が非職となって、次の鍋島知事によって,多くの問題を残して、明治二十二年暮れ、鍋島知事は広島県知事に転出し、後任に宮内省大書記官から佐和正が本県知事,は同じ東北の仙台藩士、維新政府のもと司法、警察、内務の諸官に就き、欧州に派遣されて警察制度を調査、伊藤博文,大杉村、浪岡村、藤崎村、和徳村、弘前市元寺町、同親方町、同松森町、堀越村、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

貝玉   1 10月11日 釜野沢狄 初鱈   1 1貫文 1687 (貞亨4年)3月18日 今別藤島,るてれき 貝玉   1 米1俵 熊皮  4枚 160目 1689 (元禄2年)4月17日 今別藤島狄,1694 (元禄7年)6月12日 今別  清八 貝玉   1      11月22日 藤島,#160;12月19日 宇鉄  るてるけ 貝の玉 賜 食被下物      12月22日 藤島,この時、松ヶ崎・六条澗(ろくじょうま)・藤島(ふじしま)・釜ノ沢(かまのさわ)・上宇鉄(かみうてつ)・
通史編1(自然・原始) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

  江坂輝彌(東京都世田谷区) 北村峰一郎(青森県弘前市) 木村徳栄(青森県南津軽郡浪岡町) 工藤雄太,  ボーリング資料提供  板柳町  田舎館村 岩木町  尾上町  黒石市  常盤村  平賀町  藤崎町,弘前市教育委員会   資料調査の協力者および情報提供者  岩井武彦  氏家良博  川村眞一  工藤一彌,  塩原鉄郎  柴正敏  島口天  七崎修  成田盛  成田秀伸  奈良昌紀  奈良正義  根本直樹
通史編1(古代・中世) (奥州安倍氏とのつながり)

奥州安倍氏とのつながり そしてこの(安倍)高丸を介して、安藤氏が、奥州のかつての覇者安倍氏の系譜につながることとなる,安藤氏が安倍氏の子孫を自称したのは、北奥において、その支配者として強烈に意識され続けた安倍氏の系譜に連,であった宇曽利(現在の下北半島北部)と密接な関係を有していることが知られている。,そこでこの富忠が、実際に安藤氏の祖であった可能性もないわけではないが、証明は難しい。  ,ただ中世において、南の辺境の固めという、北の安藤氏と類似した役割を果たした九州の松浦(まつら)氏(党)
資料編1(考古編) (24.黒石沢層※Ⅱ)(くろいしざわそう))

24.黒石沢層※Ⅱ)(くろいしざわそう) 斎藤(1951)の命名による。,模式地は、秋田県北秋田郡藤里村黒石沢流域及び相馬村関ヶ平南西。,本層からは、阿仁合型植物化石群、台島型植物化石群及び貝化石を産する。,層厚は150~450m(藤倉川流域では240m)。  ,備考:北村ほか(1972)の藤倉川層上部及び砂子瀬層下部に相当する。
通史編1(自然・原始) (第五節 引用参考文献)

第五節 引用参考文献 (1)藤本幸雄(一九八九)  (3)白神山地、日本の地質2東北地方、共立出版、,再検討-、弘前大学教育学部紀要 第七四号、二九-三六頁 (10)鎌田耕太郎・田中剛・角田ゆかり・佐藤恵里子,29)大沢穠 (一九六二) 五万分の一地質図幅「弘前」および同説明書、地質調査所、五二頁 (30)斉藤常正,誕生、岩波書店、二二六頁 (35)豊原富士夫・植杉一夫・木村敏雄・伊藤谷生・村田明広・岩松暉(一九八,〇) 北部北上山地-渡島半島の地向斜、総研A報告書「日本列島北部における地向斜および構造帯区分の再検討
通史編5(近・現代2) (子ども会の動向)

舞踊、演劇活動を中心としたもので、昭和二十一年五月、市内国民学校の教員千葉寿雄(第一大成国民学校)、小島正雄,(第一大成国民学校)、伊藤秀俊(青森師範学校女子部附属国民学校)、佐藤徳男(元国民学校教員)らの発意で,子ども会には演劇、音楽、舞踊の三部門があり、演劇部は島村喜美(和徳国民学校)と千葉が担当し、音楽部は小島正雄,と伊藤秀俊、舞踊部は佐藤徳男と田中志摩子(田中舞踊研究所)がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その,茂森町の「鳳鷹会」(代表蝦名良逸)、南横町の「南友会」(代表小野俊夫)、駒越町の「駒越少年会」(代表佐藤逸郎
通史編5(近・現代2) ((二)明治言論界の巨星・陸 羯南)

その意味で、明治三十七年(一九〇四)に、函館へ向かう島崎藤村を秋田雨雀(明治一六-昭和三七 一八八三-,なぜなら、島崎藤村に深く傾倒していたこの二人が青森県の近代文学の草分けであったからである。  
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

その山伏の中心道場として、紀伊半島の熊野、大峯、金峰山、出羽三山、四国の石槌山、九州の彦山などが広く世,先祖安藤太郎重光と申者有之、俗名ニ而牡鹿遠嶋先達職相預リ罷在リ、其後右親族安藤四郎此人当郡十八成浜惣右衛門先祖江家督相続,南部氏との政争の末、一旦、蝦夷島への敗走を余儀なくされた安藤氏は、離島後の応仁二年(一四六八)においても,これまで政教一如の態を示し続けてきた「日ノ本将軍」安東氏も、康正二年(一四五六)、湊安東惟季に秋田小鹿島に,の「旦那職」を引き継いだのであろうが、文亀三年(一五〇三)十月二十四日、熊野御師重豊が、津軽一円・夷島一円
通史編5(近・現代2) (二 中学校教育)

番号 種別 学校名 所在地 校長名 教員数 児童生徒数 学級数 1 中学校 修斉 十面沢字赤坂三 藤田利一郎,中学校 草薙 大森字田浦一三 成田武作 四 一〇一 三 3 中学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二の二 加藤屹郎,九 一九〇 六 4 中学校 新和 種市字小島五七 角田豊夫 一五 四三一 一一 5 中学校 高杉 独弧字山辺一四,佐々木盛三郎 一二 三一〇 九 6 中学校 船沢 富栄字浅井名七 前山定雄 一三 三五一 九 7 中学校 藤代,中学校 第一 北横町字野田六三 磯野金郎 三七 一三八〇 二八 15 中学校 第二 新町二三七 工藤秀俊
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

(さなだゆきみち)、同国飯山(いいやま)(現長野県飯山市)藩主松平忠倶(まつだいらただとも)、同国高島(,津軽家が担当する検地受持分は、高田領二四万石のうち刈羽(かりわ)・三嶋(さんとう)両郡で六万九〇〇〇石余,津軽家が担当した二郡の内三嶋郡の検地帳が残存している(「越後国三嶋郡御検地村高帳」弘図古)。,それによると三嶋郡の農村三組(五千石組、批把嶋組、小国東組)は合わせて六五ヵ村(含新田村)で、検地総高,図91.越後国三嶋郡御検地村高帳 目録を見る 精細画像で見る  次に、この検地に派遣された人々
通史編3(近世2) (剣術)

剣術 ○一刀流(いっとうりゅう)―流祖は伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ)。,以後、古藤田(ことうだ)・小野(おの)・梶(かじ)・中也・溝口(みぞぐち)派など諸派が発生した。,正しくは鹿島新当流卜伝手筋(かしましんとうりゅうぼくでんてすじ)という。
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

第3章〉 *1 廣澤安任 「アイノノ遺跡ノ事」(東京人類学会報告2-11) 1887年 *2 佐藤重紀, 「陸奥国上北郡の竪穴」(東京人類学会報告5-51) 1890年 *3 佐藤重紀 「竪穴及チャシコツ,」(東京人類学会報告6-57) 1890年 *4 佐藤傅蔵 「日本本州に於ける竪穴発見報告」(東京人類学会雑誌, 「下北半島新石器文化の編年的研究」(考古学雑誌36-4) 1950年 *10 岩月康典 「下北半島,に於ける土師器の竪穴」(考古学ノート5) 1951年 *11 加藤孝 「塩釜市表杉ノ入貝塚の研究」(
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

延文二年(正平十二年、一三五七)、秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生しているが(史料七一六,)、これは秋田の蝦夷沙汰のため、鎮守府将軍足利直義が安藤孫五郎を抜擢したのが原因だと推測されている。,尊氏は安藤師季らをその処理に当らせた。  
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

、岩木川下流域から外浜の北半分に及んでいたといい、しかも松前家の家譜である「新羅之記録」によると、夷島の,浪岡御所北畠氏は夷島の蠣崎氏もその影響下に置き、日の本将軍安藤氏と密接な関係にある存在であった。,写真198 『新羅之記録』  したがって、為信の浪岡攻略は、安藤氏との関係を悪くするものであり、,安藤氏による津軽侵攻を招くことになった。
通史編5(近・現代2) (東亜連盟同志会の活動)

東亜連盟同志会の活動 このころ、佐藤正三を中心とした東京在住の養生会員を主要構成メンバーとした東亜連盟東京研究会,は、指導原理の研究発展と同志組織の質的発展を任務として、外交政策は宮本誠三・小島渡・鈴木仁治、総動員計画,は小野元士・葛西洋・宮本義平、組織計画は福井恒太郎・牧野朝彦・伊東勇治、政治活動は小田桐孫一・佐藤正三,昭和十九年一月、東亜連盟同志会の指導者中山優の求めに応じて、佐藤は「大東亜戦争ノ戦争指導ニ就テ」を書き
通史編3(近世2) (凡例)

向美紀、第三節・第四節 坂本壽夫 第七章 第一節・第二節 黒瀧十二郎、第三節 黒瀧十二郎・花田要一・佐藤吉長,・佐藤武司 第八章 第一節 小島康敬、第二節 小島康敬・黒瀧十二郎・須藤弘敏、第三節 篠村正雄・高島成侑
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