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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(藤崎1~6)
藤
崎
1~6
藤
崎
1 南
藤
崎
町
藤
崎
字四本松-八幡宮境内-
藤
崎
2 南
藤
崎
町
藤
崎
字四本松-称名寺墓地-,
藤
崎
3 南
藤
崎
町
藤
崎
字村元-稲荷神社境内-
藤
崎
4 南
藤
崎
町
藤
崎
字村元-摂取院境内-
藤
崎
5 ,南
藤
崎
町
藤
崎
字西若松-唐糸御前史跡公園内-
藤
崎
6 南
藤
崎
町
藤
崎
字唐糸-唐糸御前史跡公園内- /
藤
崎
1~6
通史編1(古代・中世)
(藤崎系図)
藤
崎
系図 『
藤
崎
系図』(史料一一五一)は、津軽から常陸に移住した
藤
崎
氏(白鳥氏)に伝来したもので、安
藤
氏関係,』に酷似しており、また『
藤
崎
系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図』ではことごとく詳細に,は、全国各地の安
藤
氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『
藤
崎
系図』を見た、あるいは,さらに、『
藤
崎
系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。,に逃れ、
藤
崎
城主となり、さらにその子堯恒が
藤
崎
の領守(主)として跡を継ぎ、安東太郎、のちに
藤
崎
太郎を号 /
藤
崎
系図
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
藤
崎
城と中世都市 戦国期の城下町ということでみるならば、
藤
崎
町の城下町も津軽地域における特異な手法によって,写真207
藤
崎
城周辺の天和の絵図面 その絵図でみると、
藤
崎
城は一辺一〇〇メートル×,図65
藤
崎
城墟図 写真208
藤
崎
城跡航空写真 しかし解明されなければならない問題点,それはこのような
藤
崎
城や
藤
崎
の中世都市を、誰がどのような目的で作ったかということである。,そのようなことから推察すると、一六世紀前半に
藤
崎
安
藤
氏が滅亡した後も、
藤
崎
城は「番城(ばんじろ)」として /
藤
崎
城と中世都市
通史編3(近世2)
(藤先寺)
藤
先寺
藤
先寺(とうせんじ)は、天正元年(一五七三)に開山を中岳とし、
藤
崎
村(現南津軽郡
藤
崎
町)に創建,寺号は五郎・六郎の戒名「空春
藤
公」・「達叟先公(たっそうせんこう)」によった。 /
藤
先寺
通史編3(近世2)
(山崎蘭洲)
山
崎
蘭洲 文教面における第一人者であり、藩校稽古館の創設に大きくかかわった人物に山
崎
蘭洲(一七三三~,その後、京都・長
崎
・熊本に遊学し、広く人士と交わり儒学・暦学・医学の研鑽に努めた。,かいとくどう)の儒者五井蘭洲(ごいらんしゅう)、同じく大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)、京都古義堂の儒者伊
藤
東所,(とうしょ)(伊
藤
東涯(とうがい)の長男)、熊本藩校時習館の儒官藪孤山(やぶこざん)および古屋愛日斎(,学校御用懸を仰せつけられた葛西善太清俊、唐牛(かろうじ)大六満春、伴才助建尹(たけただ)、工
藤
民助懿文 / 山
崎
蘭洲
通史編1(古代・中世)
(安藤系図)
安
藤
系図 一方、『安
藤
系図』(史料一一五二)はその伝来過程、作成年代とも明らかではない。,『
藤
崎
系図』でも大和の阿倍氏とのかかわりはみられるが、これほど明確ではない。,この書き方の方が『
藤
崎
系図』よりは素直ということになる。,)を経て、次の季任が、安倍と養父
藤
原の姓を合して、「出羽奥州」の安
藤
氏の元祖となり、安
藤
太郎を称したとされている,なお安
藤
氏関係の系図のなかでは、この系図にのみ、先に触れた阿津賀志山合戦の功労者「安
藤
次」の名(季信 / 安
藤
系図
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
また、この土器は、12世紀に栄えた奥州平泉
藤
原氏の後半期の政庁跡とされる柳之御所跡にいても多量に使用されている,本館跡は、12世紀後半に主体的に機能しており、この時期は、奥州
藤
原氏(3代秀衡の時代)にとって、それまでの,本遺跡での「かわらけ」を含む多くの遺物は、奥州
藤
原氏の政庁跡とされる柳之御所跡のそれと極めて類似した組,奥州
藤
原氏との直接的な関係の下に築かれた施設の可能性が高い。,64 中
崎
館遺跡出土擦文土器 図65 中
崎
館遺跡出土鉄器・古銭 図66 中
崎
館遺跡 / 4.中
崎
館遺跡
通史編1(古代・中世)
(安藤の乱の展開)
安
藤
の乱の展開 出羽の蝦夷蜂起と同じ元亨二年(一三二二)春、惣領安
藤
又太郎季長(すえなが)とその従兄弟五郎三郎季久,季長・季久両人とも鎌倉に上り、理非を争ったわけであるが、得宗家の実権を握る内管領長
崎
高資は、両方から賄賂,同時に安
藤
惣領の通り名「又太郎」も名乗るようになった。,あるいは発祥の地
藤
崎
を上国、移住先十三湊を下国とでもいう慣習があったのであろうか。,しかし長
崎
高資の収賄に象徴されるような、この津軽大乱の処理をめぐるあまりの不手際は、季兼らを誅伐できなかったことと / 安
藤
の乱の展開
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の系譜認識)
安
藤
氏の系譜認識 地方豪族が通常そうであるように、津軽安
藤
氏の場合も、その出自の実態についてはまったく,安
藤
氏に関する系図は多数あるが、内容から整理して『
藤
崎
系図』『安
藤
系図』『秋田家系図』『下国伊駒安陪姓之家譜,また『下国伊駒安陪姓之家譜』をめぐっては、北海道に残った安
藤
氏の末裔である下国氏によって多数の関連系譜,しかしそこに込められた、系図作成者がもっていた系譜意識は、安
藤
氏一族の本質を示すものとして重要である。 / 安
藤
氏の系譜認識
通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
得宗領・安
藤
氏との関わり 「空船(舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、,秋田で付加されたものらしいが、土
崎
湊といい、外浜といい、
藤
崎
湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を,伝える寺院が津軽安
藤
氏・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが注目される。,津軽にも「清
藤
家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を十三湊とするものがある。 ,こうしたことからすると、おそらくは得宗領を中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述の安
藤
氏 / 得宗領・安
藤
氏との関わり
通史編4(近・現代1)
(後藤象二郎の動向)
後
藤
象二郎の動向 このとき、後
藤
象二郎は時機至れりとして起(た)った。,のおそれあると見なされた人物は皇居三里以内からの退去を命ぜられ、同月中に星亨・片岡健吉・中江兆民・尾
崎
行雄,これを導火線に、後
藤
の大同団結運動は信州・越後・奥羽の各県を席巻し、さらに九月には埼玉・群馬・神奈川・,全天下を挙げて「後
藤
出でずんば蒼生(人民)を奈何せん」と叫んだのである。,写真62 後
藤
象二郎 / 後
藤
象二郎の動向
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の所領)
安
藤
氏の所領 すでに詳しく見たように、平泉
藤
原氏が滅亡すると、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に入り、頼朝,弘前市三世寺の付近には、平泉政権と密接なかかわりを有するものと思われる中
崎
館遺跡が存在する。,を安
藤
一族の所領とは見ない見解もある。,しかし鎌倉幕府末期の安
藤
の乱(後述)当時、安
藤
宗季派が外浜に築城したこと(史料六一七)、外浜の伝尻八館跡,の支配者が、出土品から見て安
藤
氏と考えられることから、外浜も安
藤
氏一族のものと見るのが穏当なところであろう / 安
藤
氏の所領
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の特殊な氏族結合)
安
藤
氏の特殊な氏族結合 ところで右の「三沢安
藤
四郎」という名乗りは、苗字らしいものが知られない安
藤
氏一族,もっとも苗字なら「安
藤
三沢」と名乗るのが通例であり、また他に苗字史料がないことから、安
藤
氏にはやはり苗字,安
藤
氏の族的結合は、他の豪族とは異なり、かなり特殊なものであったのかもしれない。 ,こうした海の民・山の民としての在り方こそ、津軽安
藤
氏の元の姿であった。,津軽においては安
藤
氏は、
藤
崎
や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。 / 安
藤
氏の特殊な氏族結合
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
安
藤
愛季の津軽侵略 安
藤
愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ,写真199 安倍(安
藤
)愛季坐像 天正三年(一五七五)、織田信長は愛季郎従南部宮内少輔の帰国に,一方、安
藤
氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。,さて、愛季は天正六年(一五七八)から津軽に侵攻を開始するが、このとき、夷島の蠣
崎
季広が愛季を支援し浪岡口,為信は安
藤
勢との戦いという苦境のなかで、南部氏に降伏を余儀なくされ、和約を結んだ可能性があるという。 / 安
藤
愛季の津軽侵略
通史編5(近・現代2)
(東門会の佐藤正三)
東門会の佐
藤
正三 昭和六年正月二日、東門会の指導者だった佐
藤
正三(さとうしょうぞう)は、官立弘前高等学校,それに対して佐
藤
は「すべてがたゞ淋しく思はれる現在の自分」と書く。,三月二十九日佐
藤
は官立弘高文科乙類に合格した。四月十日の入学式の後、次の感想を書く。,弘ちゃん(注、女優川
崎
弘子)の「女はいつの世にも」、里見弴(とん)作の「多情仏心」見る。,鳴海理三郎に宛てた手紙で、佐
藤
正三は次のように自分の信念を記している。 / 東門会の佐
藤
正三
資料編1(古代・中世編)
([付図])
木村賢一氏地所内 17 岩木町熊島字里見 熊野神社境内 18・19 岩木町鼻和字平岡 保食神社境内
藤
崎
,1
藤
崎
町
藤
崎
字四本松 八幡宮境内 2
藤
崎
町
藤
崎
字四本松 称名寺墓地 3
藤
崎
町
藤
崎
字館川 稲荷神社境内,4
藤
崎
町
藤
崎
字村元 摂取院境内 5
藤
崎
町
藤
崎
字西若松 (
藤
崎
町教育委員会保管) 6
藤
崎
町
藤
崎
字唐糸,館野越館〕 10 志戸野沢館 75 銀館〔杉銀館〕 11 蒔苗館 76 水木館 12 三世寺館 77
藤
崎
城,13 中
崎
館 78 和泉館 14 町田館 79 堂野前館 15 船水館 80 黒石城 16
藤
代館
通史編1(自然・原始)
(津軽平野中央断層)
温泉掘さく深度と泉質組成分布から推定されるもので、弘前市新里(にさと)から境関(さかいぜき)、さらに
藤
崎
町
藤
崎
,を通り
藤
崎
町中野目(なかのめ)に至るN-S系の断層である。
通史編3(近世2)
(稽古館の儒学者たち)
稽古館の儒学者たち 稽古館を彩った歴代の儒学者には、津軽永孚、山
崎
蘭洲に加えて、伴才助、唐牛大六、葛西善太,、葛西健司、黒滝彦助、黒滝
藤
太、長
崎
慶助、伊
藤
熊四郎、神文左衛門、釜萢(かまやち)太一、石岡舎蔵、赤松粂之助,葛西善太も山
崎
蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から,黒
崎
彦助、その弟黒滝
藤
太、長
崎
慶助、葛西健司、釜萢太一、伊
藤
熊四郎、川村善之進等もいずれも江戸に上り、,
藤
太は刑律に詳しく、文化律の改正作業に尽力した。長
崎
慶助は順承と世子の承昭の侍講を務めた。
通史編3(近世2)
(革秀寺)
革秀寺 革秀寺(かくしゅうじ)は、慶長三年(一五九八)に為信が禅の教えを受けた格翁の隠居所として
藤
崎
村,(現南津軽郡
藤
崎
町)に創建された。
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
この鐘は、もと
藤
崎
にあった護国寺に寄進されたもので、銘には執権北条貞時の法名「崇演」の文字が含まれている,
藤
崎
は、得宗領を管理した安
藤
氏の拠点であり、北条氏の所領維持政策と結び付く文化財と考えられる。,安倍季盛が、安
藤
氏を代表する人物だったことは言うまでもない。,
藤
原宗直・宗氏は平賀郡乳井郷(弘前市乳井)の福王寺に関係した小川(河)氏と考えられている。 ,「嘉元鐘」が寄進された護国寺は、
藤
崎
町
藤
崎
の北西にあった。
通史編1(自然・原始)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
江坂輝彌(東京都世田谷区) 北村峰一郎(青森県弘前市) 木村徳栄(青森県南津軽郡浪岡町) 工
藤
雄太, ボーリング資料提供 板柳町 田舎館村 岩木町 尾上町 黒石市 常盤村 平賀町
藤
崎
町,弘前市教育委員会 資料調査の協力者および情報提供者 岩井武彦 氏家良博 川村眞一 工
藤
一彌, 塩原鉄郎 柴正敏 島口天 七
崎
修 成田盛 成田秀伸 奈良昌紀 奈良正義 根本直樹
通史編3(近世2)
(万蔵寺)
万蔵寺 「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、弘長二年(一二六二)、
藤
崎
村唐糸(からいと)の前(現南津軽郡
藤
崎
町
通史編5(近・現代2)
(四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)
地方区定員一 昭和二十七年十月一日第二五回衆議院議員総選挙 三万八三〇七票 自由党 木村 文男
藤
崎
町,昭和二十八年四月十九日第二六回衆議院議員総選挙 四万八〇三一票 改進党 楠美 省吾 五所川原市高野 右同 四万五二三六票 自由党 木村 文男
藤
崎
町,のため 昭和三十年二月二十七日第二七回衆議院議員総選挙 四万三五一四票 民主党 木村 文男
藤
崎
町 第二区定員三,市木造 六万九七七六票 自由民主党 田沢 吉郎 田舎館村 六万七六三一票 新自由クラブ 木村 守男
藤
崎
町,つがる市木造 昭和六十一年七月六日第三八回衆議院議員総選挙 八万三〇五二票 自由民主党 木村 守男
藤
崎
町
通史編1(古代・中世)
((五)発掘調査から見た遺跡)
さらに津軽領内での合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、
藤
崎
町
藤
崎
城跡なども開発に伴う緊急発掘調査
通史編4(近・現代1)
(護憲を巡る動き)
政友会からは尾
崎
行雄・岡
崎
邦輔など三〇人、国民党からは犬養毅ほか数人、そのほか無所属議員や新聞記者を合,来会する者、板垣退助・尾
崎
行雄・岡
崎
邦輔・犬養毅をはじめ貴衆両院議員・新聞記者・実業家など三千余人、座長杉田定一,大正二年二月二十六日、憲政擁護会の竹越與三郎、望月圭介、菊池武徳が特派され、柾木座で演説会を開き、佐
藤
要一,会する者、高杉金作、川村譲、
藤
田重太郎、小山内正作、大高喜八郎、佐
藤
昇一、小杉佐吉、岩谷吉太郎、斎
藤
晋作,脱党し、政友倶楽部を組織した菊池武徳らの演説会があり、十月十四日弘前公園本丸で開かれた政友倶楽部の尾
崎
行雄
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
本町 在府町 相良町 宮
崎
文蔵 元大工町 森町 覚仙町, 竹内廣太郎 桶屋町 銅屋町 南川端町 斉
藤
定一, 吉澤勇馬 新町 工
藤
寅之助, 石郷岡平次郎 また、明治十四年の中津軽郡役所資料によると、 旧
藤
代組,大瀬新太郎 町田村 小山内小三郎 中
崎
村
通史編5(近・現代2)
(鉄道敷設の請願)
さらに昭和十七年にはこの予定線を五能線岩
崎
駅もしくは深浦駅に延長する日本海貫通鉄道の敷設が申請された(,その理由としては、岩
崎
および深浦が朝鮮・満洲ならびにウラジオストクに最短航路の軍事上重要な港であり、またその,もう一つ却下された鉄道敷設計画として、昭和四年と同七年に申請された弘
藤
鉄道(弘前市-南津軽郡
藤
崎
町間),これは、既存の弘前-川部間(奥羽本線)、川部-
藤
崎
間(五能線)に並行し、かつ、乗合自動車路線が二線営業
通史編2(近世1)
(領内アイヌ支配の変化)
ちせかる
藤
島 るてるけ 釜ノ沢 ししはあいぬ 六条間 かのたあいぬ 砂ヶ森狄,貝玉 1 10月11日 釜野沢狄 初鱈 1 1貫文 1687 (貞亨4年)3月18日 今別
藤
島,るてれき 貝玉 1 米1俵 熊皮 4枚 160目 1689 (元禄2年)4月17日 今別
藤
島狄,1694 (元禄7年)6月12日 今別 清八 貝玉 1 11月22日
藤
島,この時、松ヶ
崎
・六条澗(ろくじょうま)・
藤
島(ふじしま)・釜ノ沢(かまのさわ)・上宇鉄(かみうてつ)・
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾
崎
喜蔵(,「尾
崎
ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,浪岡は、この時、為信が関ヶ原で使用する武器・矢・弾薬等を検査するため城内の櫓(やぐら)にいたところ、尾
崎
ら,三人が本丸へ押し入り、留守居の田村ら三人を討ち取った」とし、その後「本城に籠城した尾
崎
ら三人が、金(こん,慶長七年(一六〇二)に家臣天
藤
(てんどう)氏による天
藤
騒動が起こった時も、天
藤
氏らが「堀越城内へ駆けつけ
通史編4(近・現代1)
(出生の真実と仏苗学園)
出生の真実と仏苗学園 昭和三十三年(一九五八)五月七日朝、宿なし流浪の禅僧と言われた千
崎
如幻(せんざきにょげん,千
崎
如幻については、
藤
本光城の『海を渡った禅僧』や島野栄道の『心に東西なし』で具体的な活動を知り得るが,千
崎
如幻は、北津軽郡鶴田町生まれの工
藤
平次郎という、大工と仏師を兼ねた細工師の子である。,祖母は同じ十三村の浄土宗湊迎寺の二四世工
藤
定巖和尚のもとへ愛蔵を引き取ってもらった。,平次郎は深浦で千
崎
家の養子となり、一家を構えた。
通史編1(自然・原始)
(平野内の水系と等高線の配置)
途中の
藤
崎
付近では、大鰐山地に源を発する平(ひら)川と十和田湖の外輪山に源を発する浅瀬石(あせいし)川,平野内の等高線をみると、
藤
崎
以北では標高二〇メートル未満で、勾配が一〇〇〇分の一以下の平坦な沖積低地(,平野最奥の弘前盆地では、三〇~六〇メートルの等高線の配置が
藤
崎
および板柳を中心とする弧状の配置をなし、
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
組合長 弘前消費組合 弘前市大町 古木名眞太郎 和徳消費組合 中郡和徳村百田 佐
藤
多三郎, 黒石消費組合 南郡黒石町 柴田久次郎
藤
崎
消費組合 南郡
藤
崎
町 竹島儀助 ,伝馬分店 同町伝馬 清
藤
多作 下町支部 同町横町 山本久兵衛 中川消費組合, 南郡浅瀬石村 斎
藤
常太郎 常盤消費組合 南郡常盤村 浅利 崇 浪岡協同組合 南郡浪岡村
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
県下には
藤
崎
町を中心に時頼廻国にちなむ、その妾唐糸御前(からいとごぜん)の伝説(写真103)があり、また,写真103 延文の板碑(
藤
崎
町) (唐糸の板碑) 写真104 法光寺(三戸町)
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
一八ヵ村) 黒滝村 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村 和徳村 高
崎
村,津賀野村 堅田村 撫牛子村 三小区(一七ヵ村) 菅野村 境関村 福田村 福村 新里村 高田村 外
崎
村,黒土村 吉川村 桜庭村 米ヶ袋村 中野村 番館村 中畑村 杉ヶ沢村 白沢村 大秋村 田代村 村市村
藤
川村, 土堂村 石渡村 鳥町村 萢中村 船水村 八代村 外瀬村 町田村
藤
内村 中
崎
村 三世寺村 小山村 青女子村,大森村 貝沢村 十面沢村 十腰内村 津軽郡第二大区 一〇小区(一二ヵ村) 大沢村 石川村 小金
崎
村
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村 和徳村(大字堅田)-堅田村 和徳村 高
崎
村,大久保村 津賀野村 百田村 向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外
崎
村,(大字船水)-船水村
藤
代村 土堂村 石渡村 鳥町村 萢中村 町田村 中
崎
村 三世寺村 大川村 新和村, 貝沢村 鬼沢村 楢木村 十面沢村 十腰内村 石川村(大字八幡舘)-乳井村 八幡舘村 鯖石村 小金
崎
村,
藤
代村-大村
藤
代村と旧藩時代
藤
代組の頭村に由来。
通史編4(近・現代1)
(出家と禅画)
父佐
藤
忠正(旧津軽藩士)、母つやの三男、幼名を忠三という。,この後、県立弘前中学校に入学して三十六年に卒業したが、この間、禅僧千
崎
如幻の仏苗学園でも学んだ。,佐
藤
ドクトル」の愛称で親しまれた。,しかし、姉の死のこともあり、人生に悩み、千
崎
如現の師、釈宗演の門を叩き、明治四十年の初夏、鎌倉東慶寺で,写真135 佐
藤
禅忠「十牛図」
資料編1(考古編)
(1.12世紀の様相)
えられるものは認められず、少なくとも12世紀代と想定される製品に、蓬田大館遺跡・高館遺跡・浪岡城内館・中
崎
館遺跡,では中国製白磁小皿、浪岡城内館では中国製白磁四耳壺・合子・碗と須恵器系甕・常滑渥美系甕及びかわらけ、中
崎
館遺跡,この時期は、安倍・清原氏と平泉
藤
原氏(間接的には京都の影響)の影響とともに、北陸地方からの影響も見逃すことはできない,カラー図1 中
崎
館遺跡出土陶磁器(1) 1~6青磁(表裏) カラー図2 中
崎
館遺跡出土陶磁器,カラー図4 中
崎
館遺跡出土かわらけ(表裏) 図5 陶磁器写真・実測図(1) 1
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
南津軽郡平賀町岩館 一基 南津軽郡大鰐町宿川原 一基 南津軽郡大鰐町三ッ目内 一基 南津軽郡
藤
崎
町
藤
崎
,①弘前市高杉の宇気茂都大神の板碑は、工
藤
喜久雄氏屋敷内へ移転し、奥石神社として祭られている。,昭和四十年代の城東団地の造成で、高
崎
堤の東にあった板碑二基は外
崎
三丁目外
崎
氏地所へ、通称「寺内」の螺喰田圃
通史編1(自然・原始)
(人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))
の外
崎
覺(とのさきかく)、田舎館(いなかだて)村の工
藤
彦一郎(くどうひこいちろう)らが相次いで入会し、,外
崎
覺(覺蔵 一八五九~一九三二)は、中津軽郡相馬(そうま)村湯口(ゆぐち)のハチモリオトス、ならびに,下澤保躬 (『東奥人名録』1913年より) 佐
藤
蔀 (青森県立郷土館「特別展 佐
藤
蔀図譜,」より) 外
崎
覺 (『六十有一年』1922年より) 工
藤
彦一郎(祐龍) (田舎館村教育委員会提供,その際、佐
藤
蔀・外
崎
覺らも同行し調査の方法を見学している。
通史編5(近・現代2)
((二)明治言論界の巨星・陸 羯南)
その意味で、明治三十七年(一九〇四)に、函館へ向かう島
崎
藤
村を秋田雨雀(明治一六-昭和三七 一八八三-,なぜなら、島
崎
藤
村に深く傾倒していたこの二人が青森県の近代文学の草分けであったからである。
資料編1(考古編)
(協力機関及び協力者一覧)
岡田康博 岡村道雄 葛西励 菊池徹夫 木村高 木村鉄次郎 木本元治 北林八洲晴 工
藤
竹久,工
藤
泰博 工
藤
雅樹 江坂輝彌 小井川和夫 小島道裕 小松正夫 坂井秀弥 塩原鉄郎,進
藤
秋輝 高橋昭治 高橋潤 高橋信雄 高橋学 高橋与右衛門 田中寿明 千田嘉博 辻秀人,冨樫泰時 豊島勝蔵 七
崎
修 奈良昌紀 成田盛 畠山昇 林謙作 半沢紀 福田友之,
藤
沼邦彦 船木義勝 本堂寿一 前川要 松山力 三辻利一 三宅徹也 横山英介 吉岡康暢
通史編1(古代・中世)
(竪穴から掘立柱へ)
竪穴から掘立柱へ 中
崎
館においてはカマド付きの竪穴住居はまったく認められず、かわりに掘立柱建物跡を中心,図35 中
崎
館遺跡の遺構変遷 Ⅰ期 居住区内に区画性が薄弱で小さい掘立柱建物跡が数棟存在するだけである,もし中
崎
館が饗宴を行うという政庁的な機能を有していたとすれば、このような居住空間の構成を変える要因に関,中世初期から有力な開発の主体者が存在したことを実証するとともに、氏姓は不明ながら後世の記録などから、安
藤
氏,の拠点であったと考えられる三世寺や
藤
崎
に近接しており、これらとの関連性も否定できない(史料七〇二)。
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
もう一つの分布ラインは、
藤
崎
町の唐糸塚・昭伝寺墓地、中里町中里五林神社の御神体、市浦村十三及び磯松を結,これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井福王寺の勢力や
藤
崎
・十三の安
藤
氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城,また、岩木川・平川の合流点に近い三世寺や中
崎
にも分布していた。,「巴御前の墓」という伝説を持つ中
崎
の五輪塔は、太平洋戦争中に失われたという。,『陸奥古碑集』に見える五輪塔 二(右上)は中
崎
,七(右下)は高杉八重の森,十一(左)は乳井の五輪塔
資料編1(古代・中世編)
(三 板碑の造立者とその時期)
鎌倉時代末期に目屋地方を知行したのは工
藤
貞祐だったが、建武二年(一三三五)には別系と考えられる工
藤
貞行,後年、南部氏に追われた
藤
崎
の安
藤
氏の場合、勢力圏と考えられる地域の板碑造立は、一三〇〇年代に入ってから,安
藤
氏と関係が深い
藤
崎
城域や三世寺に分布する板碑は、一三一〇年代から五〇年代にかけて造立されており、そこからは,深浦町関の甕杉下には安
藤
氏の別称「安倍」の名を刻む板碑が二基あり、安
藤
氏の活動状況を知ることができる。,し、やがて安
藤
氏は蝦夷島に退去したことが全く無関係とは言いきれないのではなかろうか。
通史編1(古代・中世)
(黄海の戦い)
天喜五年十一月、頼義が兵千八百余人を率いて貞任を討とうとすると、貞任は逆に四〇〇〇人もの精兵を集めて河
崎
(,かわさき)柵(岩手県川
崎
村)に入り、黄海(きのみ)(岩手県
藤
沢町黄海)で頼義軍を撃破した(史料四四六),
藤
原経清は衣川関に出て、磐井郡以南にも進出し、使を出して諸郡から官物を徴収したという。
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●宝徳四年(一四五二)六月、幕府、造内裏段銭を諸国に賦課し、奥州探題大
崎
教兼、奥州の諸氏に納入を命じる,●享徳元年(一四五二)、この年、武田信広、奥州田名部に来り蠣
崎
に拠ると伝えらる。,●南部側の所伝に、蠣
崎
氏を南部守行の子、または弟の家系と伝えるものあり。,●文明二年(一四七〇)正月二十九日、下国安東政季(師季)、津軽に打入り
藤
崎
館を攻撃するが、帰国後長木大和守,●明応三年(一四九四)五月二十日、蠣
崎
(武田)信広、死去すると伝えられる。
通史編5(近・現代2)
(市会の勢力図)
、工
藤
道生らの大物が落選した。,政友派 桜庭源三郎 伊
藤
金蔵 桜田清芽 工
藤
福弥 宮川久一郎 成田貞次郎 雨森勝三郎 山
崎
峰次郎 久保喜一郎, 民政派 小山内鐵蔵 清
藤
唯七 石戸谷清一 野村峰次郎 工
藤
重任 植田廣一郎 興新同盟 , 副議長 工
藤
重任 また、弘前の政党の代表者は次のとおりである。 ,立憲政友会青森県支部弘前分所長 近
藤
東助 ″ 分所顧問 石郷岡文吉 工
藤
十三雄
通史編1(自然・原始)
(清野袋面)
清野袋面上には岩木川西岸にあっては南から浜の町、石渡、中
崎
、三世寺(さんぜじ)、大川、青女子(あおなご,せいのふくろ)、向外瀬(むかいとのせ)、大久保、津賀野(つかの)、百田(ももた)、そして岩木川東岸では
藤
崎
,高度は
藤
崎
以北では一五~二〇メートル、岩木川-平川間では二〇~二五メートル、そして浜の町付近では二五~,
藤
崎
でも同様な堆積物が認められ、たとえば西豊田地区の浄水場(二〇メートル)では地表下約一三メートルまでは
通史編1(古代・中世)
(秋田家系図)
に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の孫堯恒までは『
藤
崎
系図,なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安
藤
次郎まで触れた『安
藤
系図』の影響がみられないのは、『安
藤
系図
通史編2(近世1)
(一里塚)
たとえば「東御門町境より新城村通油川村御札所迄道路絵図」では、弘前城下を出てから二つ目の一里(一里塚)は
藤
崎
村外,(はず)れの毘沙門堂(びしゃもんどう)境内にある旨の記載と朱色の印があるが、「道程帳」では
藤
崎
村から二三町離,れた次の矢沢村の端(
藤
崎
村寄りか)にあることになっている。
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