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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

平泉藤原氏 こうした清原氏同士のつぶしあいの末に生き残ったのは結局清衡のみであった。,を母にもつこの清衡ただ一人が二大豪族の継承者として残ったことが、鎮守府の実質的な軍政権を継承し、平泉藤原氏,としてこの清原(のちに藤原)清衡が、清原氏の遺領陸奥出羽両国「一万余之村」を継承し、以後、黄金かがやく平泉藤原氏時代 / 平泉藤原氏
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代清衡は、白河関から外浜に至る二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、,別として、浄土世界、中尊寺を最終目標とする行程路の整備が北からも南からもあり、その浄土世界に君臨する藤原氏,を目指したという説話があるが(史料四三七)、こうした伝説の背後には、奥州の実力者であった安倍・清原・藤原氏,さて平泉藤原氏は、奥大道や北上川水運などを整備することによって、北方世界からの物産の調達、南からの文物,平泉藤原氏はこうした北方世界につながるネットワークを通じて、糠部産の馬や金、そして鷲羽・水豹(あざらし
通史編1(古代・中世) (津軽氏の系譜と唐糸御前)

109)などには、先に触れた「唐糸草子」の所伝が取り込まれ、それが強引に北条時頼とつなげられて、平泉藤原氏
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

もちろん一方で、こうした急激な建郡ではなく、Ⅲ平泉藤原氏の支配下で一二世紀に入ってから徐々に建郡されたという,基頼の指揮のもと、平泉藤原氏・越後城氏・常陸佐竹氏のような新興領主層が育成され、その時代に、まったく新,②水田の開発がもっとも盛んだった時代が奥州藤原氏の時代と考えられること。,たとえば、平泉藤原氏の時代になると、擦文土器や内耳鍋が姿を消し、美濃・常滑・瀬戸・猿投(さなげ)といった,こうした事実は、まさに平泉藤原氏の時代の建郡の傍証になるとも考えられている。
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

しかし、津軽家が奥州藤原氏に連なることを主張すれば、奥州藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日,に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行葛西清重)

いずれにしろ清重は、平泉藤原氏に代わる頼朝の現地代官として、陸奥国内御家人の統制と平泉郡内の治安維持といった,平泉藤原氏の職権を継承する、諸国の守護に匹敵する重職に任じられた。,平泉藤原氏を継ぐ者として、まさに政治・経済の枢要の地を獲得したといえよう。
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

永承二年(一〇四七)の藤原氏の五位以上の貴族一覧表ともいうべきものを載せる『造興福寺記』にも、経清が「,図29 安倍・清原・奥州藤原氏略系図(誉田慶信作図)  ちなみに安倍頼良のもう一人の娘婿であった
資料編1(考古編) ((4)12世紀代)

この時期は、奥州藤原氏の隆盛期に当たる。,中でも、弘前市中崎館遺跡は、平泉藤原氏の政庁跡とされる柳之御所跡との関係が極めて強く認められる点で注目
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

また安倍氏自身が、(平泉藤原氏のように自称したかどうかは別として)蝦夷の末裔(まつえい)と考えられていたとしたら,もちろん安藤氏の蝦夷系譜づけが、こうした政策的措置である以上、平泉藤原氏の場合と同様、厳密に人種的系譜
通史編1(古代・中世) (四 中世前期の交易)

四 中世前期の交易 平泉で栄えた奥州藤原氏の二代基衡(もとひら)は、同地の毛越(もうつう)寺建立にあたって
資料編1(考古編) (1.12世紀の様相)

この時期は、安倍・清原氏と平泉藤原氏(間接的には京都の影響)の影響とともに、北陸地方からの影響も見逃すことはできない
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

」(陽明文庫蔵)には、藤原秀栄(ひでひさ)から四代目の頼秀が近衛家の始祖である近衛基通の女をめとり、藤原氏本流,それによれば、家光―家信―光信(みつのぶ)―盛信は源氏、政信―為則(ためのり)―守信―為信は藤原氏とされている,しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(
資料編1(考古編) ((1)東北地方南部以南との交易・交流)

12世紀は、奥州藤原氏が、平泉を拠点として東北地方のほぼ全域を支配した時期でもある。,浪岡城内館遺跡(浪岡町)や境関館遺跡(弘前市)、あるいは内真部遺跡(青森市)・蓬田大館遺跡(蓬田村)なども奥州藤原氏,藤原氏は北方、特に北海道や大陸北部との交易を重視していたことが文献上でも知られており、その交易を発展させるために
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

奥州藤原氏の経済力の豊かさを示す事例であるとともに、その使用目的が気にかかるところである。  ,) 5 珠洲四耳壺(中崎館) 6 珠洲四耳壺(田舎館村) 7 珠洲経容器(鯵ヶ沢町)  奥州藤原氏
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、その最大の障害は、いうまでもなく平泉藤原氏
資料編1(考古編) ((2)北方文化との交易・交流)

12世紀においては、北方との交易や交流が奥州藤原氏の管理下で活発に行われていたものと想定されるが、北方系文物
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

また、この土器は、12世紀に栄えた奥州平泉藤原氏の後半期の政庁跡とされる柳之御所跡にいても多量に使用されている,本館跡は、12世紀後半に主体的に機能しており、この時期は、奥州藤原氏(3代秀衡の時代)にとって、それまでの,本遺跡での「かわらけ」を含む多くの遺物は、奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所跡のそれと極めて類似した組,奥州藤原氏との直接的な関係の下に築かれた施設の可能性が高い。
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

そして郡郷制に編成されたかつての蝦夷の地域の統治の実権を、平泉藤原氏による新政権に委ねたのである。
通史編1(古代・中世) (防御性集落の消滅)

この北奥の地域は、平泉に誕生した新しい藤原氏の政権にしっかりと組み込まれ、結果として日常的な激しい内部紛争
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

のごとく延久合戦後の僧侶の移住、再興(事実上の創建)、住民を指揮しての開発といった伝説をもち、さらに平泉藤原氏時代
通史編1(古代・中世) (奥州合戦の勃発)

東国に軍事政権を確立しようとしている頼朝にとっては、その最大の邪魔者の平泉藤原氏を除くのは、幕府成立の
通史編1(古代・中世) (湊の始まり)

時はあたかも奥州藤原氏の滅亡から、鎌倉幕府による全国的な開発が進展していた時期であり、奥大道を中心とする
通史編1(古代・中世) (泰衡の死)

ここに奥州合戦は終り、平泉藤原氏は滅亡したのである。
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

安藤氏の所領 すでに詳しく見たように、平泉藤原氏が滅亡すると、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に入り、頼朝
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

この在り方は、一二世紀後半に奥州を支配した藤原氏の拠点であった平泉遺跡群や、一三世紀以降に鎌倉幕府の中枢
通史編1(古代・中世) (阿津賀志山の防塁)

阿津賀志山の防塁 これに対して平泉藤原氏側は、奥大道の交通の要衝、陸奥国伊達郡阿津賀志山(あつかしやま
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

写真27『大日本国地震之図』  のちに詳しく触れるように、平泉藤原氏の時代のころに、津軽地方は陸路
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信政は、春日四神(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏神たち)を祀る小社のあった高岡(現中津軽郡岩木町百沢
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

また、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「俘囚之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営,しかも、ともに天台宗を基調とする津軽安藤氏の山王坊と平泉藤原氏の中尊寺の建造物には、建築学的に一定のかかわりも,(慈覚(じかく)大師)の高弟安恵の開創とも伝えられる出羽山寺もまた、紛れもない天台宗寺院であり、平泉藤原氏,(29) 日照田薬師如来堂 同右 本尊は行基菩薩作と伝える (30) 追良瀬如意輪観音 康永三年 藤原氏家
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

三 北奥宗教界の中世的転回 鎌倉前期の幕府は、奥州平定に絡(から)む源義経・平泉藤原氏一族の討滅に流,明年者、所レ相二当于義顕并泰衡一族滅亡年之支千一也  この一文が端的に物語るように、奥州藤原氏の平泉中尊寺
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

また、奥州藤原氏との関連が推測される京都系のかわらけが、岩木川水系の要所で出土しており、十三湊が岩木川水系
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

なお、輪高台を持つ漆器は、12世紀代の奥州平泉藤原氏関連の柳之御所跡をはじめとして数多く出土しており、
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

…  170    一 延久蝦夷合戦 ………………………………………………  170    二 奥州藤原氏
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

に大規模調査が行われたが、中でも製鉄関連遺跡の鰺ヶ沢町杢沢遺跡*318(昭和63年・1988)、奥州藤原氏期
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●康永三年(一三四四南興国五)六月、藤原氏家、西浜追良瀬見入山観音堂を建立する。
資料編2(近世編1) (【解説】)

津軽家と近衛家との関係は、津軽氏の出自の源泉を藤原氏とする自家の系図を近衛家に保証してもらうという浅からぬ
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

『尾上町原遺跡発掘調査報告』尾上町教育委員会 1990年 *324 三浦圭介 「考古学的に見た奥州藤原氏
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 南部家文書 206 ●康永三年(一三四四南興国五)六月、藤原氏家、西浜追良瀬見入山観音堂
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