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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(藤崎1~6)
藤崎
1~6
藤崎
1 南
藤崎
町
藤崎
字四本松-八幡宮境内-
藤崎
2 南
藤崎
町
藤崎
字四本松-称名寺墓地-,
藤崎
3 南
藤崎
町
藤崎
字村元-稲荷神社境内-
藤崎
4 南
藤崎
町
藤崎
字村元-摂取院境内-
藤崎
5 ,南
藤崎
町
藤崎
字西若松-唐糸御前史跡公園内-
藤崎
6 南
藤崎
町
藤崎
字唐糸-唐糸御前史跡公園内- /
藤崎
1~6
通史編1(古代・中世)
(藤崎系図)
藤崎
系図 『
藤崎
系図』(史料一一五一)は、津軽から常陸に移住した
藤崎
氏(白鳥氏)に伝来したもので、安藤氏関係,』に酷似しており、また『
藤崎
系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図』ではことごとく詳細に,記述されていることから、じつは『
藤崎
系図』は『秋田家系図』を転写したもので、系図各所の欠損は、その古さを,さらに、『
藤崎
系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。,に逃れ、
藤崎
城主となり、さらにその子堯恒が
藤崎
の領守(主)として跡を継ぎ、安東太郎、のちに
藤崎
太郎を号 /
藤崎
系図
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
藤崎
城と中世都市 戦国期の城下町ということでみるならば、
藤崎
町の城下町も津軽地域における特異な手法によって,写真207
藤崎
城周辺の天和の絵図面 その絵図でみると、
藤崎
城は一辺一〇〇メートル×,図65
藤崎
城墟図 写真208
藤崎
城跡航空写真 しかし解明されなければならない問題点,それはこのような
藤崎
城や
藤崎
の中世都市を、誰がどのような目的で作ったかということである。,そのようなことから推察すると、一六世紀前半に
藤崎
安藤氏が滅亡した後も、
藤崎
城は「番城(ばんじろ)」として /
藤崎
城と中世都市
資料編1(古代・中世編)
([付図])
木村賢一氏地所内 17 岩木町熊島字里見 熊野神社境内 18・19 岩木町鼻和字平岡 保食神社境内
藤崎
,1
藤崎
町
藤崎
字四本松 八幡宮境内 2
藤崎
町
藤崎
字四本松 称名寺墓地 3
藤崎
町
藤崎
字館川 稲荷神社境内,4
藤崎
町
藤崎
字村元 摂取院境内 5
藤崎
町
藤崎
字西若松 (
藤崎
町教育委員会保管) 6
藤崎
町
藤崎
字唐糸,館野越館〕 10 志戸野沢館 75 銀館〔杉銀館〕 11 蒔苗館 76 水木館 12 三世寺館 77
藤崎
城
通史編1(自然・原始)
(津軽平野中央断層)
温泉掘さく深度と泉質組成分布から推定されるもので、弘前市新里(にさと)から境関(さかいぜき)、さらに
藤崎
町
藤崎
,を通り
藤崎
町中野目(なかのめ)に至るN-S系の断層である。
通史編3(近世2)
(革秀寺)
革秀寺 革秀寺(かくしゅうじ)は、慶長三年(一五九八)に為信が禅の教えを受けた格翁の隠居所として
藤崎
村,(現南津軽郡
藤崎
町)に創建された。
通史編3(近世2)
(万蔵寺)
万蔵寺 「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、弘長二年(一二六二)、
藤崎
村唐糸(からいと)の前(現南津軽郡
藤崎
町
通史編1(古代・中世)
((五)発掘調査から見た遺跡)
さらに津軽領内での合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、
藤崎
町
藤崎
城跡なども開発に伴う緊急発掘調査
通史編3(近世2)
(藤先寺)
藤先寺 藤先寺(とうせんじ)は、天正元年(一五七三)に開山を中岳とし、
藤崎
村(現南津軽郡
藤崎
町)に創建
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
この鐘は、もと
藤崎
にあった護国寺に寄進されたもので、銘には執権北条貞時の法名「崇演」の文字が含まれている,
藤崎
は、得宗領を管理した安藤氏の拠点であり、北条氏の所領維持政策と結び付く文化財と考えられる。,「嘉元鐘」が寄進された護国寺は、
藤崎
町
藤崎
の北西にあった。
通史編1(自然・原始)
(平野内の水系と等高線の配置)
途中の
藤崎
付近では、大鰐山地に源を発する平(ひら)川と十和田湖の外輪山に源を発する浅瀬石(あせいし)川,平野内の等高線をみると、
藤崎
以北では標高二〇メートル未満で、勾配が一〇〇〇分の一以下の平坦な沖積低地(,平野最奥の弘前盆地では、三〇~六〇メートルの等高線の配置が
藤崎
および板柳を中心とする弧状の配置をなし、
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
県下には
藤崎
町を中心に時頼廻国にちなむ、その妾唐糸御前(からいとごぜん)の伝説(写真103)があり、また,写真103 延文の板碑(
藤崎
町) (唐糸の板碑) 写真104 法光寺(三戸町)
通史編2(近世1)
(一里塚)
たとえば「東御門町境より新城村通油川村御札所迄道路絵図」では、弘前城下を出てから二つ目の一里(一里塚)は
藤崎
村外,(はず)れの毘沙門堂(びしゃもんどう)境内にある旨の記載と朱色の印があるが、「道程帳」では
藤崎
村から二三町離,れた次の矢沢村の端(
藤崎
村寄りか)にあることになっている。
通史編1(自然・原始)
(地形の概説)
藤崎
以南の弘前盆地では浅瀬石川や平川などの流域に扇状地が形成され、台地状に発達している。,平野中央部の、
藤崎
から五所川原にかけての自然堤防帯は氾濫原であって、掌(てのひら)状の自然堤防とそれに
資料編2(近世編1)
([付図])
[付図] 一、弘前古御絵図・慶安二年頃(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」) 二、
藤崎
村絵図・天和四年
通史編1(自然・原始)
(清野袋面)
せいのふくろ)、向外瀬(むかいとのせ)、大久保、津賀野(つかの)、百田(ももた)、そして岩木川東岸では
藤崎
,高度は
藤崎
以北では一五~二〇メートル、岩木川-平川間では二〇~二五メートル、そして浜の町付近では二五~,
藤崎
でも同様な堆積物が認められ、たとえば西豊田地区の浄水場(二〇メートル)では地表下約一三メートルまでは
通史編5(近・現代2)
(鉄道敷設の請願)
もう一つ却下された鉄道敷設計画として、昭和四年と同七年に申請された弘藤鉄道(弘前市-南津軽郡
藤崎
町間),これは、既存の弘前-川部間(奥羽本線)、川部-
藤崎
間(五能線)に並行し、かつ、乗合自動車路線が二線営業
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
和徳消費組合 中郡和徳村百田 佐藤多三郎 黒石消費組合 南郡黒石町 柴田久次郎
藤崎
消費組合, 南郡
藤崎
町 竹島儀助 伝馬分店 同町伝馬 清藤多作 下町支部 同町横町
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
隣接する町村では、大鰐町宿川原・三ッ目内・八幡舘、
藤崎
町
藤崎
、平賀町岩館などが挙げられる。
通史編1(自然・原始)
(津軽平野)
図2に示したが、盆地内の弘前から黒石にかけては台地状の開析扇状地が展開し、
藤崎
町から五所川原にかけては
通史編5(近・現代2)
(四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)
青森市 地方区定員一 昭和二十七年十月一日第二五回衆議院議員総選挙 三万八三〇七票 自由党 木村 文男
藤崎
町,昭和二十八年四月十九日第二六回衆議院議員総選挙 四万八〇三一票 改進党 楠美 省吾 五所川原市高野 右同 四万五二三六票 自由党 木村 文男
藤崎
町,工藤鉄男病没のため 昭和三十年二月二十七日第二七回衆議院議員総選挙 四万三五一四票 民主党 木村 文男
藤崎
町,市木造 六万九七七六票 自由民主党 田沢 吉郎 田舎館村 六万七六三一票 新自由クラブ 木村 守男
藤崎
町,つがる市木造 昭和六十一年七月六日第三八回衆議院議員総選挙 八万三〇五二票 自由民主党 木村 守男
藤崎
町
通史編1(古代・中世)
(「嘉元鐘」)
集古十種』長勝寺鐘銘文 元来この鐘は、鎌倉建長寺流の禅宗寺院で関東祈禱所でもある、格式の高い
藤崎
,
藤崎
や護国寺については、すでに唐糸にまつわる時頼廻国伝説のところでも述べたが、鎌倉幕府による当地方支配
通史編1(古代・中世)
(安藤系図)
『
藤崎
系図』でも大和の阿倍氏とのかかわりはみられるが、これほど明確ではない。,この書き方の方が『
藤崎
系図』よりは素直ということになる。
通史編1(自然・原始)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
ボーリング資料提供 板柳町 田舎館村 岩木町 尾上町 黒石市 常盤村 平賀町
藤崎
町
通史編1(古代・中世)
(津軽の唐糸伝説)
といって、容色は世にまれで、性格もよい女性がいたが、婦人の妬みを受けたために、にわかに出家の志を抱き、津軽
藤崎
,なお右の伝説にみえる
藤崎
護国寺については、本章第三節第二項に詳しい。
通史編1(自然・原始)
(岩木火山の姿)
一方、板柳町から
藤崎
町にかけては岩木火山の雄姿が一変し、まるで「屏風」のようなイメージをもつが、津軽平野特有
通史編1(自然・原始)
(掘さくの深度)
五〇〇メートルより浅い温泉は弘前市街地に多く、北方の
藤崎
町・板柳町付近では点在し、津軽平野南部の中央部,ただし、弘前市街地-
藤崎
町と平賀町-田舎館村の境界部の掘さく深度は図上において連続性が鮮明であるとともに
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
(現
藤崎
町
藤崎
)・舞田屋敷村・川辺村(現田舎館村川辺)の三村内での宛行であった(同前No.二六六)。,(現弘前市境関)が含まれているが、現在の市町村でみると、青森市・弘前市・五所川原市・岩木町・平賀町・
藤崎
町,ただし、慶長時のものは、
藤崎
村・舞田屋敷村・川辺村の三村で一〇〇石であったが、元和時は駒越村(現岩木町駒越,)・土堂(つちどう)村(現弘前市土堂)・壱町田(いっちょうだ)村(現岩木町一町田)・
藤崎
村の四村で一〇〇,同年二月には重臣杉山八兵衛に横沢村(現板柳町横沢)・俵升(たわらます)村(現
藤崎
町俵升)・たも木派村(
通史編5(近・現代2)
(消費者の抵抗)
七月十九日
藤崎
町の演説会では臨席の警官と同盟側幹部と衝突、四人が体刑の判決を受けた。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
南津軽郡平賀町岩館 一基 南津軽郡大鰐町宿川原 一基 南津軽郡大鰐町三ッ目内 一基 南津軽郡
藤崎
町
藤崎
通史編5(近・現代2)
(弘電の反攻)
五年十二月十三日、黒石同盟会は商工会系幹部と弘電会社の取引によって解散、以後闘いは弘前同盟会と
藤崎
同盟会
通史編1(古代・中世)
([口絵])
弘前市熊野奥照神社 4 板石塔婆〔正応碑〕 (重美)弘前市 5 延文の板碑〔唐糸碑〕(町指定)
藤崎
町
通史編1(古代・中世)
(秋田家系図)
に『秋田家系図』(写真126)についてみると、前述したように、長髓彦の兄安日から貞任の孫堯恒までは『
藤崎
系図
通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
モチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、秋田で付加されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、
藤崎
湊
資料編1(古代・中世編)
(三 板碑の造立者とその時期)
後年、南部氏に追われた
藤崎
の安藤氏の場合、勢力圏と考えられる地域の板碑造立は、一三〇〇年代に入ってから,安藤氏と関係が深い
藤崎
城域や三世寺に分布する板碑は、一三一〇年代から五〇年代にかけて造立されており、そこからは
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、
藤崎
城主安東教季・大光寺城主葛西頼清
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の系譜認識)
安藤氏に関する系図は多数あるが、内容から整理して『
藤崎
系図』『安藤系図』『秋田家系図』『下国伊駒安陪姓之家譜
通史編1(古代・中世)
(下国伊駒安陪姓之家譜)
これは『
藤崎
系図』『秋田家系図』では安日・長髄という兄弟、すなわち二人の人物であるとされているのとは大
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
いはあるものの、①秋田領境之明神堂(さかいのみょうじんどう)~大間越~深浦~鰺ヶ沢~十腰内(とこしない)~弘前~
藤崎
,ではこの他にも小道・脇道の記載が多数あるが、浪岡~高田~荒川~浜田~青森間の大豆坂(まめさか)通り、
藤崎
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
もう一つの分布ラインは、
藤崎
町の唐糸塚・昭伝寺墓地、中里町中里五林神社の御神体、市浦村十三及び磯松を結,これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井福王寺の勢力や
藤崎
・十三の安藤氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城
通史編3(近世2)
(平清水三右衛門による作陶)
その後短期間ではあるが、
藤崎
(ふじさき)村(現南津軽郡
藤崎
町)古館(ふるだて)(
藤崎
城跡)のうち畑地を
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
のすがたもやゝ見やらるゝは、(中略)しらぬ弘安、正和、延慶、永仁、元応は、よみもときたり」 (都介路迺遠地)
藤崎
町唐糸,なお、『撞鐘古碑石調之覚』は、宮舘〈中別所〉・三世寺・外崎(以上弘前市)、
藤崎
(
藤崎
町)、関・金井ヶ沢
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
疎開児童の第一次受け入れ市町村は、弘前市、板柳、金木、大鰐、清水、黒石、尾上、浪岡、
藤崎
、深浦などである
通史編1(古代・中世)
(秋田の唐糸伝説)
やがて時頼が諸国巡検の折に「津軽
藤崎
湊」へ立ち寄り、そこで唐糸と再会するが、唐糸は書き置きを残して「烏
通史編1(自然・原始)
(第四節 引用・参考文献)
平賀町、青森県環境保健部、一-八頁 (11)温泉ゆう出地基礎調査報告書(一九九〇) 浪岡町・板柳町・
藤崎
町
通史編5(近・現代2)
(都市計画と道路建設)
街路番号 名称 幅員(m) 延長(約m) 都市計画当初決定 都市計画最終変更 整備済(m) 3.3.1
藤崎
山下線,1,730 3.4.11 土手町向外瀬線 16 2,820 〃 昭和53年1月14日 805 3.4.13
藤崎
弘前線
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
満蔵寺 同右 耕春院 弘長年間 (一二六一~六四) 平時頼 常陸阿闍梨 藤先村 (
藤崎
町) 同右,
藤崎
町護国寺の遺跡。,) 同右 同右 藤先寺 同右 天正年間 (一五七三~九二) 津軽為信の子と室 忠岳 藤先村 (
藤崎
町,この天台宗から真言宗への改宗を伴う久渡寺に次いで伝えるのは、
藤崎
町の護国寺の旧跡の満蔵寺である。
通史編5(近・現代2)
(都市計画の開始)
新しい区域は、弘前市、岩木町の行政区域の一部のほか、
藤崎
町、尾上町の行政区域の全部及び大鰐町、平賀町、
通史編4(近・現代1)
(運送業の活躍)
その他市外行きとしては、中津軽郡岩木村百沢・岩木山神社及び嶽温泉方面行き、南津軽郡
藤崎
町行き、南津軽郡柏木町村
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の特殊な氏族結合)
津軽においては安藤氏は、
藤崎
や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。
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