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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(藩主の行列)
藩主
の行列
藩主
の行列と出会った際の農民のとるべき態度については、本章第一節五(一)で触れた。,参勤交代のみならず、そのほか領内の寺社参詣や視察などによる
藩主
の行列へ農民が出会った場合には、次のような,これも本章第一節五(一)で触れたが、城下の町屋では、町人が門戸を閉鎖し隠れ、
藩主
の行列の最後尾が完全に,これに対し、農民が田圃の道路や集落内の道路で
藩主
の行列と出会った時には、町屋のような隠れる場所がなく、 /
藩主
の行列
資料編3(近世編2)
(一 藩主の生活)
一
藩主
の生活 [
藩主
の生活] / 一
藩主
の生活
通史編2(近世1)
(弘前藩の副藩主)
弘前藩の副
藩主
明暦二年(一六五六)、津軽弘前
藩主
四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,発足した黒石津軽家は、本家名代(ほんけみょうだい)という機能を有したことにより、弘前藩「副
藩主
(ふくはんしゅ,、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前
藩主
が江戸在府中に名代を勤めており、黒石
藩主
は在国,これは
藩主
名代としての役割を、明確に位置づけるものであった。,逆のケースとしては、黒石六代寧親が本藩九代
藩主
となり、黒石九代順徳(ゆきのり)が改名して本藩十一代
藩主
順承 / 弘前藩の副
藩主
通史編4(近・現代1)
(旧藩主逝去と小学校)
旧
藩主
逝去と小学校 旧弘前
藩主
伯爵津軽承昭が死去したのは大正五年(一九一六)七月十九日、行年七十六歳,旧
藩主
と市内小学校の結びつきは極めて強固であった。,小学校教員に旧藩士族が多かったためか、各校とも旧
藩主
を敬愛する念が強かった。,各校校長も旧
藩主
に対して、皇室に対する以上の忠誠と尊敬をこめて言及している。,しかし、この結びつきも、最後の
藩主
だった承昭の逝去によって急速に薄らいでいくのである。 / 旧
藩主
逝去と小学校
通史編3(近世2)
(藩主の位牌を盗む)
藩主
の位牌を盗む 曹洞宗盛雲(せいうん)院(現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である,一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)から初代
藩主
津軽為信,位牌の中でも初代
藩主
のそれを盗むことは、僧侶にあるまじき行為として厳罰に処せられるべく、牢屋前で御徒目付 /
藩主
の位牌を盗む
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)
藩主
家の菩提寺 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,二代
藩主
信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、革秀寺を創建して墓所とし、長勝寺,この後も信枚の碧巌台、信枚室の明鏡台、三代
藩主
信義の白雲台が造営された。,三代
藩主
信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代
藩主
信政が新しく天台宗報恩寺を創建して,ところが、六代
藩主
信著は、延享元年(一七四四)報恩寺だけが重く扱われ、長勝寺は光信以来の先祖が崇敬してきているのに / (一)
藩主
家の菩提寺
通史編2(近世1)
(近世中期の三人の藩主)
近世中期の三人の
藩主
宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、,信寿の
藩主
時代の政治については、享保十一年に百姓の次・三男の分家を禁じたり、その翌年には百姓の年間休日,信著の跡を継いで
藩主
となった信寧(のぶやす)(一七三九~一七八四)の代の初頭、いわゆる「宝暦改革」が始 / 近世中期の三人の
藩主
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
二
藩主
の日常生活
藩主
の日常生活を知るための史料としては、歴代
藩主
の家記・日記などが最も重要なものである,初代
藩主
の「為信(ためのぶ)公御代日記」、二代の「信枚(のぶひら)公御代日記」・「信枚君一代之自記」、,ここでは信明の日記を通して、
藩主
の日常生活がどのようなものであったかをみてみたい。 ,初御目見(はつおめみえ)(
藩主
へ初めて謁見すること)も済む。,
藩主
の居住する奥書院の守備に当たる)格を申し付ける。八ツ時すぎ(午後二時すぎ)夕飯(昼食)。 / 二
藩主
の日常生活
通史編3(近世2)
(礼服)
○正月一日(
藩主
、諸神仏拝礼。,藩士登城年賀) 元禄十年(一六九七)(
藩主
在国)――熨斗目長袴(のしめながばかま)(長柄(ながえ),)――熨斗目半袴(御目見(おめみえ)以上) 宝暦三年(一七五三)(
藩主
在府)――熨斗目半袴(御目見以上,
藩主
の留守中、城代(じょうだい)の命を受けて城中を守衛する)、常服半袴(御中小姓(おんちゅうこしょう),正月四日の服装は、
藩主
の在府・在国とも同じと推定される。
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
勤務の状況 四代
藩主
津軽信政(のぶまさ)の時代、貞享五年(一六八八)の「諸式要集」の中にある「御在国中御定法,」(『津軽家御定書』一九八一年 東京大学出版会刊)は、
藩主
の在国中における家臣の勤務についての詳しい規定,大納戸役(おおなんどやく)(
藩主
からの下され物についての管理を扱った職)一人は午前九時より勤務し、家老,目付(めつけ)は二人ずつ昼夜連続で勤務し、小納戸役(こなんどやく)(
藩主
の衣類やその他の諸調度類などの,近習(きんじゅう)(
藩主
の左右に近侍する)一人は昼夜連続で勤務し、近習小姓(きんじゅうこしょう)は
藩主
通史編3(近世2)
(能楽)
当藩でも歴代
藩主
が能を催している。,四代
藩主
信政は、延宝二年(一六七四)八月二十一日に弘前城本丸書院前の白砂に能舞台を作らせた(「国日記」,菊之間に
藩主
信政、黒石津軽家二代信敏、流罪で預人となっていた対馬藩元家老柳川調興(しげおき)、
藩主
の弟信章,(のぶあき)が入り、東側に小屏風を立て
藩主
家の人々が座った。,この日も
藩主
が出座し、津軽信敏・柳川調興・津軽信章が同席した。
通史編5(近・現代2)
(津軽藩踏水会)
特に一二代
藩主
津軽承昭(つぐあきら)はしばしば水練を見学、脱衣場や西洋型のボートまで作らせた。,津軽承昭は、熊本
藩主
細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代
藩主
順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。,承昭は安政六年(一八五九)に
藩主
となり、文久二年(一八六二)に流派協同武芸の修行をするよう特に命じている,したがってこの時期に藩の泳法も確立し、それは
藩主
の流派に則った小堀流と考えられる。
通史編3(近世2)
(一二代承昭の襲封)
一二代承昭の襲封 弘前藩最後の
藩主
となった津軽承昭(つぐあきら)は、安政二年(一八五五)一一代順承の,承昭を養子とするに当たって、藩内ではあくまで津軽家の血統を継承する人物を
藩主
に求める声がわき上がった。,具体的には承祜の弟、本次郎朝澄(ともずみ)(後、黒石
藩主
津軽承叙(つぐみち))を一二代に迎えようというのである,彼は安政三年に十七歳で、妾腹(しょうふく)とはいいながら
藩主
細川斉護(なりもり)の実子であり、江戸龍の,、それに異を唱える前
藩主
信順を近衛家の説得で半ば強引に沈黙させている。
通史編3(近世2)
(信義)
『和歌山県高野山遍照尊院旧弘前
藩主
津軽家墓所石塔修復調査報告』(一九八八年 遍照尊院刊)によると、墓石一八基,が現存し、歴代
藩主
としては初代から三代、七代から一一代までは現存するが、四代から六代までのものはみられない,他に
藩主
の家族と大道寺家の墓石があり、追善供養塔のほか逆修供養塔が二基ある。
通史編2(近世1)
(七 津軽一統志)
四代
藩主
信政時代に計画され、資料収集を企てたが実現せず、五代
藩主
信寿(のぶひさ)の享保十二年(一七二七,津軽家始祖の光信(みつのぶ)の事績に始まり、為信の独立、四代信政までの歴代
藩主
の事績、寛文蝦夷蜂起事件
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
忍(おし)
藩主
阿部(あべ)忠秋に仕え、一三〇〇石、側用人(そばようにん)。,仙台に潜伏した後に、四代
藩主
津軽信政に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。,寛政十一年(一七九九)九代
藩主
津軽寧親(つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき,父は青沼藤兵衛盛長(とうべえもりなが)で、三代
藩主
津軽信義(つがるのぶよし)の時、慶安二年(一六四九),初代
藩主
津軽為信に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。
通史編3(近世2)
((三)住居)
(三)住居
藩主
の住居は在国の際は弘前城本丸御殿(藩庁および生活の場)であり、参勤交代により在府の場合,図87.弘前城本丸御殿平面図 ①玄関および御用所 ②公式の儀式などに用いられる表座敷 ③
藩主
,の官邸としての奥座敷 ④
藩主
の私生活の場としての奥 ⑤台所 ⑥その他―能舞台、御武芸所など ①,御霊殿は歴代
藩主
・一族の霊を祀る仏間であるのに対し、上ノ御廊下の北に隣接する西湖(せいこ)ノ間は神事を,などがある豪華なもので、
藩主
は菊ノ間から観賞できるようになっていた。
通史編2(近世1)
(一二 津軽歴代記類)
下沢保躬(しもさわやすみ)等が領内から収集した資料を明治十年(一八七七)にまとめた「津軽旧記類」のうち、
藩主
,内容は政信から承昭(つぐあきら)までの
藩主
の事績を中心に、政治・経済・産業・民生等の各分野にわたっている
通史編3(近世2)
(南溜池の武芸鍛錬)
五年後の文化八年には、九代
藩主
津軽寧親が直々に南溜池の「大矢場」へ出かけて、家臣の弓術訓練を検閲した。,目録を見る 精細画像で見る 文化三年に至って、なぜこのような南溜池矢場における弓術訓練と
藩主
,南溜池矢場の文化八年からの
藩主
直々の検閲による、藩士に対する武備強化は、このような蝦夷地警備の事情が深,弓がいかなる戦術的な効果を持ちえたのかは、いささか疑問であるが、直接的な武備強化には連動しなくとも、
藩主
直々,られ、しかも領内沿岸警備に重点が移行したにもかかわらず、文政期・天保期にも南溜池矢場での「家中射芸」の
藩主
通史編3(近世2)
((二)食事)
津軽弘前藩では、日常の
藩主
の食事は弘前城本丸御殿の台所や料理の間で作られ、膳番が
藩主
の食べる朝・昼・暮,の食膳、そのほかすべて
藩主
に差し出す飲食物を検査した(小館衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年,歴代
藩主
の食事の実態については知ることが出来ないが、信明の「在国日記」天明四年十二月、同五年正月、寛政二年,図85.大名の膳
藩主
の公式の場合におけるものと思われる献立と、お膳を出す順序が記された宝暦期
通史編3(近世2)
(廃藩置県後の処理)
そして負うべき残金は、明治七年(一八七四)十二月には旧
藩主
禄税徴収令の実施に伴って、家禄の九割が官納となったため,そして、明治十年(一八七七)三月には旧
藩主
家禄が公債渡しとなったのを契機に全額免除されることとなった。,つまり、旧弘前藩の藩札処理は
藩主
津軽家の家禄を抵当としながらも、実際には新政府からの交付金に依拠して行
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
藩主
信義を巻き込んだこの家中騒動を「舟橋騒動」と呼んでいる。,こうして、津軽弘前藩の家中対立は、江戸を舞台にして、
藩主
信義を当事者として巻き込んだ場合には、主従間の,このうち国書改竄事件は、
藩主
宗義成(そうよしなり)と重臣柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違,えば宗家改易の危険性をはらんだ事件であり、将軍家光の親裁によって、
藩主
側が勝利し決着をみたものである。,なお、この裁定に際しては、老中土井利勝の
藩主
信義に対する好意的な言動がみられた(同前No.五六六)。
通史編3(近世2)
(出発)
出発 文化四年(一八〇七)五月の「御発駕御規式」(弘図津)によって、九代
藩主
津軽寧親(やすちか)が弘前城,五月十日午前八時、
藩主
が山吹ノ間に着座し、熨斗(のし)と大豆が三方(さんぼう)に載せられて差し上げられる,しかし、実際には一万石級の大名で一五〇~三〇〇人であったから、弘前の右の七四一人(九代
藩主
津軽寧親の参勤,これは第一一代
藩主
津軽順承(ゆきつぐ)が四月十三日に弘前を出発したときのものである。,
藩主
はここで休息をとるが、先乗りの組頭・その他、さらに掃除奉行(そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・
通史編2(近世1)
(弘前八幡宮の祈祷)
弘前八幡宮(弘前市八幡町一丁目)は慶長十七年(一六一二)、二代
藩主
信枚(のぶひら)による創建で、社領三,祈祷内容と回数 元禄6年~天明8年(95年間,313回) 内 容 回数 古縣不動尊出汗神楽奉納 40
藩主
并津軽氏一族病気平癒祈祷,の祈祷内容と回数 寛政元年~明治4年(82年間,217回) 内 容 回数 古縣不動尊出汗 16
藩主
家平癒祈祷,六年以前子ノ重キ御祈祷」と同様の祈祷を命じられているのであるが、それは、寛政三年(子は亥の誤記)八代
藩主
信明卒去,の際に執行された祈祷を指しており、ここに蝦夷地渡海安全祈祷は
藩主
平癒(へいゆ)祈祷と同格の重い祈祷となったのである
通史編3(近世2)
(時期・日数・通路)
江戸~弘前間の往復に必要とした日数について二、三例を挙げると、 ○四代
藩主
津軽信政(つがるのぶまさ,○七代
藩主
信寧(のぶやす)は宝暦九年(一七五九)三月十五日に弘前出発、江戸到着には一九日間。 ,○七代
藩主
信寧の交代(帰国)は、明和五年(一七六八)四月二十一日に江戸出発、弘前到着は五月八日で一八日間
通史編3(近世2)
(神事能)
護穀神は、六代
藩主
夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺社奉行によって移され、領内五穀成就を祈る,その中には仕手連(してつれ)・脇師・脇連・地謡・小鼓打ち・太鼓打ち・狂言師・装束着せ・髪結いがいて、
藩主
,『奥富士物語』によれば、
藩主
家には、銘「青山」の琵琶、小野小町の箏、近衛公の名づけた「新嘉丁」の笛、聖徳太子作,
藩主
が正月や慶事の際に能を催し、藩士から町人まで見物させ、料理・菓子を出すことは、君主の仁政の一つとしてみるべきであろう,また、来客の接待の中心にもなっているほか、
藩主
家の人々や自らの慰みとして楽しむものでもあった。
通史編2(近世1)
((四)改革の諸政策と藩士土着政策)
(四)改革の諸政策と藩士土着政策 津軽弘前藩の寛政改革は、基本的には八代
藩主
信明(のぶはる)の政治方針,を引き継ぎ、九代
藩主
寧親(やすちか)によって具体化された政治改革であり、したがって広くは両
藩主
の在任期間
通史編3(近世2)
(信枚)
信枚 二代信枚は寛永元年(一六二四)、熊野山へ代参を送り、将軍家の息災延命、
藩主
家の子孫繁昌、藩国家,国元では慶好院(金勝院)に求聞持の秘法を修することを命じたところ、この秘法は
藩主
の寿命を縮めることもありうると
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
「分領」と津軽弘前藩 安政六年九月二十七日、津軽弘前
藩主
津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら),、一八三四~一九一六)の名代として江戸城に登城した津軽黒石
藩主
津軽承叙(つぐみち)に対して、幕府は蝦夷地,同じ日に、盛岡
藩主
南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田
藩主
南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,、仙台
藩主
伊達慶邦(だてよしくに)、会津
藩主
松平容保(まつだいらかたもり)、秋田
藩主
佐竹義堯(さたけよしたか,)、庄内
藩主
酒井忠発(さかいただあき)に対しては、「領分」の守備や開墾などを行き届かせるようにと達せられた
通史編3(近世2)
(景勝の地としての南溜池)
藩主
もこのようなすばらしい景観を愛(め)でたらしく、たとえば文化十三年(一八一六)には、九代
藩主
津軽寧親,また天保期において、子鯉二万四〇〇〇匹余りを放流した背景には、
藩主
が南溜池において網を入れ「御漁」をした,際にまったく不漁であったことがあり、このように
藩主
が南溜池において「川狩」等と同様の、遊びとしての漁をすることがあった
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
津軽信英による後見政治と法令の整備 幕府が津軽信英を信政の後見としたのは、
藩主
が幼少で自ら政務を執ることが,不可能なことに加えて、三代
藩主
信義時代が家中騒動などで藩政が不安定だった状態を踏まえて、家老とは違った,後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前
藩主
信義の弟である津軽信隆と、神保清成(,信政が
藩主
だった時代には、この「諸法度」・「家訓条々」をはじめとして法制の整備が進んだ。
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
図97.津軽信政の墓 五代
藩主
津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政,藩内にも信政が独裁的
藩主
権力を振るおうとする動きに反発する事件も起こった。,手厳しい評価がある一方、信政が「名君」として語られるのは、
藩主
時代の治績によるものであろう。,たとえば、水戸
藩主
の徳川光圀(みつくに)、岡山
藩主
の池田光政(みつまさ)、金沢
藩主
の前田綱紀(つなのり,)、会津
藩主
の保科正之(ほしなまさゆき)などである。
通史編3(近世2)
(帰国の旅)
帰国の旅
藩主
が江戸の参勤を終えて弘前へ帰国する際の旅はどのようなものであったろうか。,十時
藩主
が上屋敷を出発、十二時前草下(加)(そうか)で昼休み。,なへかけ(ママ)(鍋掛)の川まで来ると水は平常より少し多いが、
藩主
は馬に乗って渡る。,夜食にひやむぎが出されて
藩主
が召し上がり、家老・用人が相伴し、私たちも頂戴する。 ,杉峠(すぎとうげ)(矢立(やたて)峠)でしばらく休み、
藩主
はお菓子を召し上がる。
通史編3(近世2)
(居開帳)
居開帳
藩主
と
藩主
家の人々に対する開帳では、元禄七年(一六九四)、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや,)の遷宮があり、四代
藩主
津軽信政が参拝した。,安永八年(一七七九)、創建一〇〇〇年になることから、七代
藩主
津軽信寧の社参をどのように行うかが、家老代,図25.岩木山百澤寺お札 貞享元年(一六八四)、
藩主
家の人々が古懸(こがけ)の不動尊(国上寺),に参詣する場合でも、開帳は藩庁の指示によって行うようにさせ、元禄八年(一六九五)からは、
藩主
名代の参詣
資料編1(古代・中世編)
([附録])
[附録] 歴代
藩主
干支順位表 方位・時刻表 年号対照表 「新編 弘前市史
資料編3(近世編2)
(第五節 人々の信仰)
第五節 人々の信仰 一 武家の信仰 (一)
藩主
の信仰 (二)藩士の信仰 二 庶民の信仰
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
この点は二代
藩主
信枚、三代
藩主
信義と踏襲された。,松前
藩主
も同時期には西浜街道を参勤交代路として利用しているのである。,しかし、四代
藩主
信政は寛文五年(一六六五)、碇ヶ関から矢立峠を越えて秋田領へ入る羽州街道を参勤交代路に,四代
藩主
信政の時代には街道の整備も行われたようで、宝永元年(一七〇四)十月の農村への達し(「要記秘鑑」
通史編3(近世2)
((三)日常生活)
彼は天和二年五月二十一日に四代
藩主
津軽信政に従って江戸から帰国した。,これによって
藩主
の日常生活(本節二)とも比較ができよう。
通史編3(近世2)
((一)武家の信仰)
(一)武家の信仰
藩主
の信仰については、以下歴代の中でも特徴のある人を挙げることにする。
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
他領から技術を導入 近世、津軽における漆工芸は、
藩主
導の中で諸条件が整備されるとともに、領外から新技法,御鞘師として貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代
藩主
津軽為信,、秋田の鞘師、京都の塗師、江戸の具足師の移入によって興ったもので、彼等は、主として武具、馬具の装飾、
藩主
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
信義の襲封 二代
藩主
信枚(のぶひら)は、寛永八年(一六三一)一月十四日江戸屋敷において四十六歳で死去,嫡子信義(ちゃくしのぶよし)は三代将軍家光に初めて拝謁(はいえつ)し、十三歳で遺領を継ぐことが許され三代
藩主
,信義が
藩主
として初めて国元にやって来るのは、二年後の寛永十年(一六三三)十月三日であり(同前No.五四七,国元津軽とはつながりの薄い状態で
藩主
となったわけである。,以下、信義の
藩主
在職中の事績について概観してみよう。
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
高照神社は、四代
藩主
信政を祀り、津軽弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社である。,神社は信政が没した宝永七年(一七一〇)の翌正徳元年から二年にかけて、五代
藩主
信寿(のぶひさ)が創建した,(1)
藩主
の動向を報告することが基本原則である。,
藩主
家の吉凶禍福等 参勤交代 87 62 149(54%) 藩重要事 蝦夷地警備 江戸・京都屋敷,この時期の
藩主
は寛政改革を実施した九代寧親(やすちか)である。
通史編4(近・現代1)
(弘前士族の反発)
川越石太郎は、維新後に戸長も務めたが、維新政府の文明開化政策に反対し、旧
藩主
流派に怨念を抱く山田登や
藩主
,津軽平八郎は廃刀令に反対して帯刀を止めず、山崎清良は封建復帰の建白書を旧
藩主
の反対を押し切って政府に提出
通史編2(近世1)
(蝦夷地警衛が藩財政に残したもの)
からの進物も辞退し返却すること、また諸々の際に使者を派遣してきた家に対しては今後書状のみを送ること、
藩主
,が江戸を発駕する際の餞別のやりとりも行わず、年始・五節句・暑寒の見舞いは年始の書状のみ、
藩主
を招待する
通史編2(近世1)
(一八 貞享規範録(じょうきょうきはんろく))
一八 貞享規範録(じょうきょうきはんろく) 文化三年(一八〇六)、森内繁富が著した四代
藩主
信政の言行録
通史編4(近・現代1)
(不平の源流)
不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧
藩主
家の家政に参加できないことにあった,したがって、藩政や
藩主
側近がかつての佐幕派・奥羽同盟派や開化容認の人々によって占められ、王政復古の理念,その不満ゆえ、なお秋九月に仲間三十余人をもって
藩主
に強訴したが受け入れられず、同年十一月兼平理左衛門ら,津軽平八郎も森岡鶴翁も津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽
藩主
家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族
通史編3(近世2)
(住吉宮)
延享元年(一七四四)に稲荷宮、同二年に住吉宮が
藩主
の意向により建立され、二代山村伊勢が両社の社司を命じられた,寛延三年(一七五〇)に六代
藩主
夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
江戸勤番と生活 江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は
藩主
やその,家族が住む公邸、中屋敷は隠居した
藩主
や嗣子などの住居であるとともに、上屋敷が罹災した場合の予備の邸宅、,
藩主
(四代津軽信政)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。 ,午前七時
藩主
が登城、午後二時すぎに帰られる。午後四時に非番になり帰る。,この時、
藩主
は本荘(ママ)の屋敷へ出かけて不在。
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
三 八幡宮の祭礼と山車の運行 慶長十七年(一六一二)、二代
藩主
津軽信枚は、八幡村(現中津軽郡岩木町),このため、
藩主
より町民に至るまで氏子であった。,天和二年(一六八二)、四代
藩主
津軽信政の時より、八幡宮の神輿および各町内の山車(だし)、続いて武具を備,(一八一七)、一〇代信順が病気で国元へ到着したのが九月四日で、祭礼を同十五日に行っているところから、
藩主
,これは
藩主
の入封の際に市中のにぎわいのために行いたいとするものであった。
通史編2(近世1)
(一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき))
一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき) 四代
藩主
信政の弟である可足権僧正(慶安二年〈一六四九
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