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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

弘前藩の副藩主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,発足した黒石津軽家は、本家名代(ほんけみょうだい)という機能を有したことにより、弘前藩「副藩主(ふくはんしゅ,ただし、安政二年の例のように、弘前藩主名代としての第一優先順位は津軽本家の世子(せいし)であり、それが,弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世,黒石立藩の立て役者となったのが本藩藩主となった寧親であり、彼以後両藩の家系維持のための交流が多く行われ / 弘前藩の副藩主
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

(一)藩主家の菩提寺 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,二代藩主信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、革秀寺を創建して墓所とし、長勝寺,この後も信枚の碧巌台、信枚室の明鏡台、三代藩主信義の白雲台が造営された。,三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して,ところが、六代藩主信著は、延享元年(一七四四)報恩寺だけが重く扱われ、長勝寺は光信以来の先祖が崇敬してきているのに / (一)藩主家の菩提寺
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

藩主の位牌を盗む 曹洞宗盛雲(せいうん)院(現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である,義道(ぎどう)は、天保十四年(一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ),(現市内西茂森一丁目)から初代藩主津軽為信(ためのぶ)の位牌を隠し取った。,位牌の中でも初代藩主のそれを盗むことは、僧侶にあるまじき行為として厳罰に処せられるべく、牢屋前で御徒目付 / 藩主の位牌を盗む
通史編2(近世1) (近世中期の三人の藩主)

近世中期の三人の藩主 宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、,嫡子信重(のぶしげ)が家督相続を許された。,信寿の藩主時代の政治については、享保十一年に百姓の次・三男の分家を禁じたり、その翌年には百姓の年間休日,信著の跡を継いで藩主となった信寧(のぶやす)(一七三九~一七八四)の代の初頭、いわゆる「宝暦改革」が始 / 近世中期の三人の藩主
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

二 藩主の日常生活 藩主の日常生活を知るための史料としては、歴代藩主の家記・日記などが最も重要なものである,初代藩主の「為信(ためのぶ)公御代日記」、二代の「信枚(のぶひら)公御代日記」・「信枚君一代之自記」、,ここでは信明の日記を通して、藩主の日常生活がどのようなものであったかをみてみたい。  ,初御目見(はつおめみえ)(藩主へ初めて謁見すること)も済む。,藩主の居住する奥書院の守備に当たる)格を申し付ける。八ツ時すぎ(午後二時すぎ)夕飯(昼食)。 / 二 藩主の日常生活
通史編3(近世2) ((一)武家の信仰)

(一)武家の信仰 藩主の信仰については、以下歴代の中でも特徴のある人を挙げることにする。 / (一)武家の信仰
通史編3(近世2) (礼服)

○正月一日(藩主、諸神仏拝礼。,藩士登城年賀)  元禄十年(一六九七)(藩主在国)――熨斗目長袴(のしめながばかま)(長柄(ながえ),正月四日の服装は、藩主の在府・在国とも同じと推定される。   ,享保二年(一七一七)――常服半袴(藩主の一族・家老・用人・大目付)、常服麻裃(城中の諸番人) 宝暦三年,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

承昭を養子とするに当たって、藩内ではあくまで津軽家の血統を継承する人物を藩主に求める声がわき上がった。,また、一〇代信順の代に姻戚関係となった田安家もこれに同調したため、藩首脳は本次郎を黒石藩主に据え、血統存続,し、藩主に就任したのである。,一時は途絶えた津軽家の血脈を、一門の津軽順朝(ゆきとも)の長男承祜を藩主とすることで藩内は一致していたし,、それに異を唱える前藩主信順を近衛家の説得で半ば強引に沈黙させている。
通史編3(近世2) (能楽)

当藩でも歴代藩主が能を催している。,菊之間に藩主信政、黒石津軽家二代信敏、流罪で預人となっていた対馬藩元家老柳川調興(しげおき)、藩主の弟信章,(のぶあき)が入り、東側に小屏風を立て藩主家の人々が座った。,このように、信政は新装なった能舞台の披露に、柳川調興を含め、藩主家の人々から町人までの見物を許した。,十二月十一日には柳原中屋敷で、三代藩主信義の正室桂林院、土井利房へ嫁した姉万とその息女、黒石津軽家信敏
通史編3(近世2) (信義)

『和歌山県高野山遍照尊院旧弘前藩主津軽家墓所石塔修復調査報告』(一九八八年 遍照尊院刊)によると、墓石一八基,が現存し、歴代藩主としては初代から三代、七代から一一代までは現存するが、四代から六代までのものはみられない,他に藩主の家族と大道寺家の墓石があり、追善供養塔のほか逆修供養塔が二基ある。,先祖崇拝の信仰に支えられて高野山に供養塔を立てることは、全国の大名家でも慣習化していた。,図243.高野山遍照尊院の津軽家墓所
通史編3(近世2) (勤務の状況)

勤務の状況 四代藩主津軽信政(のぶまさ)の時代、貞享五年(一六八八)の「諸式要集」の中にある「御在国中御定法,」(『津軽家御定書』一九八一年 東京大学出版会刊)は、藩主の在国中における家臣の勤務についての詳しい規定,大納戸役(おおなんどやく)(藩主からの下され物についての管理を扱った職)一人は午前九時より勤務し、家老,目付(めつけ)は二人ずつ昼夜連続で勤務し、小納戸役(こなんどやく)(藩主の衣類やその他の諸調度類などの,近習(きんじゅう)(藩主の左右に近侍する)一人は昼夜連続で勤務し、近習小姓(きんじゅうこしょう)は藩主
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

四代藩主信政時代に計画され、資料収集を企てたが実現せず、五代藩主信寿(のぶひさ)の享保十二年(一七二七,同年十月に家老津軽校尉(こうい)の名で領内に資料収集の協力を求める触れが出され、同十六年五月に完成した,津軽家始祖の光信(みつのぶ)の事績に始まり、為信の独立、四代信政までの歴代藩主の事績、寛文蝦夷蜂起事件
通史編5(近・現代2) (津軽藩踏水会)

平成十年の創立で歴史は浅いが、現会長肥後茂らが古式泳法の研究家加藤健一を指導者として創立した。,特に一二代藩主津軽承昭(つぐあきら)はしばしば水練を見学、脱衣場や西洋型のボートまで作らせた。,津軽承昭は、熊本藩主細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代藩主順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。,承昭は安政六年(一八五九)に藩主となり、文久二年(一八六二)に流派協同武芸の修行をするよう特に命じている,したがってこの時期に藩の泳法も確立し、それは藩主の流派に則った小堀流と考えられる。
通史編3(近世2) (南溜池の武芸鍛錬)

五年後の文化八年には、九代藩主津軽寧親が直々に南溜池の「大矢場」へ出かけて、家臣の弓術訓練を検閲した。,目録を見る 精細画像で見る  文化三年に至って、なぜこのような南溜池矢場における弓術訓練と藩主,南溜池矢場の文化八年からの藩主直々の検閲による、藩士に対する武備強化は、このような蝦夷地警備の事情が深,弓がいかなる戦術的な効果を持ちえたのかは、いささか疑問であるが、直接的な武備強化には連動しなくとも、藩主直々,」の藩主「高覧」、もしくは家老による検分は盛んに行われた。  
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

忍(おし)藩主阿部(あべ)忠秋に仕え、一三〇〇石、側用人(そばようにん)。,仙台に潜伏した後に、四代藩主津軽信政に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。,寛政十一年(一七九九)九代藩主津軽寧親(つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき,その後、家老棟方作右衛門貞良(むなかたさくえもんさだよし)に従って塚原卜伝流の奥義を伝授され、五代藩主津軽信寿,初代藩主津軽為信に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。
通史編3(近世2) ((三)住居)

(三)住居 藩主の住居は在国の際は弘前城本丸御殿(藩庁および生活の場)であり、参勤交代により在府の場合,図87.弘前城本丸御殿平面図 ①玄関および御用所 ②公式の儀式などに用いられる表座敷 ③藩主,の官邸としての奥座敷 ④藩主の私生活の場としての奥 ⑤台所 ⑥その他―能舞台、御武芸所など ①,御霊殿は歴代藩主・一族の霊を祀る仏間であるのに対し、上ノ御廊下の北に隣接する西湖(せいこ)ノ間は神事を,などがある豪華なもので、藩主は菊ノ間から観賞できるようになっていた。
通史編3(近世2) (廃藩置県後の処理)

青森県権令菱田重禧(ごんれいひしだしげよし)と相談し、明治四年十二月に旧藩知事津軽承昭(つぐあきら)に与えられた家禄,(とおる)・山中逸郎(いつろう)ら重臣一一人が座視しがたしとして、進退伺いを提出したうえで自分たちの家禄,そして負うべき残金は、明治七年(一八七四)十二月には旧藩主禄税徴収令の実施に伴って、家禄の九割が官納となったため,そして、明治十年(一八七七)三月には旧藩主家禄が公債渡しとなったのを契機に全額免除されることとなった。,つまり、旧弘前藩の藩札処理は藩主津軽家の家禄を抵当としながらも、実際には新政府からの交付金に依拠して行
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

藩主信義を巻き込んだこの家中騒動を「舟橋騒動」と呼んでいる。,二代藩主信枚が死去した時、罪により前橋(現群馬県前橋市)の酒井家に預けられていた最上(もがみ)家の旧臣本城満茂,こうして、津軽弘前藩の家中対立は、江戸を舞台にして、藩主信義を当事者として巻き込んだ場合には、主従間の,このうち国書改竄事件は、藩主宗義成(そうよしなり)と重臣柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違,えば宗家改易の危険性をはらんだ事件であり、将軍家光の親裁によって、藩主側が勝利し決着をみたものである。
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

藩政の転換と家臣団統制の動き 宝永期の藩政において、天和・貞享期以来郡・勘定方を掌握し、藩主信政の意向,グループと、それを批判する譜代・下士層の間に政治的対立が生まれたことはすでに述べたが、信政の死去・信寿の家督相続,定法遵守、文武奨励、礼の重視、異風の身なりの禁止、職務精励等、藩士としての心構えを定めたものであり、藩主信寿,が隠居を前に家中の動揺を防ぐため、家臣としての心構えを再確認する意味で発布がなされたと考えられる。,これらの動きは動揺した家臣団の収拾を図り、藩政の動揺をも止めようとしたものだったのであろう。 / 藩政の転換と家臣団統制の動き
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

弘前八幡宮(弘前市八幡町一丁目)は慶長十七年(一六一二)、二代藩主信枚(のぶひら)による創建で、社領三,祈祷内容と回数 元禄6年~天明8年(95年間,313回) 内   容 回数 古縣不動尊出汗神楽奉納 40 藩主并津軽氏一族病気平癒祈祷,の祈祷内容と回数 寛政元年~明治4年(82年間,217回) 内   容 回数 古縣不動尊出汗 16 藩主家平癒祈祷,六年以前子ノ重キ御祈祷」と同様の祈祷を命じられているのであるが、それは、寛政三年(子は亥の誤記)八代藩主信明卒去,の際に執行された祈祷を指しており、ここに蝦夷地渡海安全祈祷は藩主平癒(へいゆ)祈祷と同格の重い祈祷となったのである
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

津軽信英による後見政治と法令の整備 幕府が津軽信英を信政の後見としたのは、藩主が幼少で自ら政務を執ることが,不可能なことに加えて、三代藩主信義時代が家中騒動などで藩政が不安定だった状態を踏まえて、家老とは違った,後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である津軽信隆と、神保清成(,両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文,信政が藩主だった時代には、この「諸法度」・「家訓条々」をはじめとして法制の整備が進んだ。
通史編3(近世2) (信枚)

信枚 二代信枚は寛永元年(一六二四)、熊野山へ代参を送り、将軍家の息災延命、藩主家の子孫繁昌、藩国家,国元では慶好院(金勝院)に求聞持の秘法を修することを命じたところ、この秘法は藩主の寿命を縮めることもありうると,信枚は、それまでの津軽家が菩提寺としてきた曹洞宗から天台宗に改宗した。
通史編3(近世2) (出発)

出発 文化四年(一八〇七)五月の「御発駕御規式」(弘図津)によって、九代藩主津軽寧親(やすちか)が弘前城,五月十日午前八時、藩主が山吹ノ間に着座し、熨斗(のし)と大豆が三方(さんぼう)に載せられて差し上げられる,しかし、実際には一万石級の大名で一五〇~三〇〇人であったから、弘前の右の七四一人(九代藩主津軽寧親の参勤,これは第一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)が四月十三日に弘前を出発したときのものである。,藩主はここで休息をとるが、先乗りの組頭・その他、さらに掃除奉行(そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

図97.津軽信政の墓  五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政,藩内にも信政が独裁的藩主権力を振るおうとする動きに反発する事件も起こった。,手厳しい評価がある一方、信政が「名君」として語られるのは、藩主時代の治績によるものであろう。,たとえば、水戸藩主の徳川光圀(みつくに)、岡山藩主の池田光政(みつまさ)、金沢藩主の前田綱紀(つなのり,)、会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)などである。
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

「分領」と津軽弘前藩 安政六年九月二十七日、津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら),、一八三四~一九一六)の名代として江戸城に登城した津軽黒石藩主津軽承叙(つぐみち)に対して、幕府は蝦夷地,同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,、仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)、秋田藩主佐竹義堯(さたけよしたか,)、庄内藩主酒井忠発(さかいただあき)に対しては、「領分」の守備や開墾などを行き届かせるようにと達せられた
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって,分家してから、代々、幕臣として江戸にいた。,を勤めている分家の黒石津軽家も、由緒深い家柄である。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編3(近世2) ((二)食事)

諸藩においても大名の食膳は徳川家に倣っている(渡辺実『日本食生活史』一九六四年 吉川弘文館刊)。  ,津軽弘前藩では、日常の藩主の食事は弘前城本丸御殿の台所や料理の間で作られ、膳番が藩主の食べる朝・昼・暮,の食膳、そのほかすべて藩主に差し出す飲食物を検査した(小館衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年,歴代藩主の食事の実態については知ることが出来ないが、信明の「在国日記」天明四年十二月、同五年正月、寛政二年,図85.大名の膳  藩主の公式の場合におけるものと思われる献立と、お膳を出す順序が記された宝暦期
資料編3(近世編2) (第五節 人々の信仰)

第五節 人々の信仰 一 武家の信仰  (一)藩主の信仰  (二)藩士の信仰 二 庶民の信仰
通史編2(近世1) (蝦夷地警衛が藩財政に残したもの)

そして、その一環として津軽家と交際のあった諸家に対し、今後のつきあいについて通告した。,まず、重要な吉凶の場合でも使者が口上を申し述べるだけで進物は一切なし、したがって諸家からの進物も辞退し,返却すること、また諸々の際に使者を派遣してきた家に対しては今後書状のみを送ること、藩主が江戸を発駕する,際の餞別のやりとりも行わず、年始・五節句・暑寒の見舞いは年始の書状のみ、藩主を招待する際もひととおりの
通史編2(近世1) (信義の襲封)

信義の襲封 二代藩主信枚(のぶひら)は、寛永八年(一六三一)一月十四日江戸屋敷において四十六歳で死去,ぐことが許され三代藩主となった(同前No.五一〇・五一一)。,国元津軽とはつながりの薄い状態で藩主となったわけである。,の正室満天姫(まてひめ)の姪にあたり、津軽弘前藩の二代・三代藩主の正室は連続して、間接的ではあるが将軍家,以下、信義の藩主在職中の事績について概観してみよう。  
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

御任官、右ノ外重キ御触レノ事、 一、御順見使御領内御順見、 一、当神社ニ関スル凡テノ出来事、 一、藩主一家,(1)藩主の動向を報告することが基本原則である。,8 37(13%) 巡見使 巡見使関係 0 0(0%) 高照神社 高照神社関係 4 4(1%) 藩主家,藩主家の吉凶禍福等 参勤交代 87 62 149(54%) 藩重要事 蝦夷地警備 江戸・京都屋敷,この時期の藩主は寛政改革を実施した九代寧親(やすちか)である。
通史編3(近世2) (神事能)

護穀神は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺社奉行によって移され、領内五穀成就を祈る,その中には仕手連(してつれ)・脇師・脇連・地謡・小鼓打ち・太鼓打ち・狂言師・装束着せ・髪結いがいて、藩主,『奥富士物語』によれば、藩主家には、銘「青山」の琵琶、小野小町の箏、近衛公の名づけた「新嘉丁」の笛、聖徳太子作,藩主が正月や慶事の際に能を催し、藩士から町人まで見物させ、料理・菓子を出すことは、君主の仁政の一つとしてみるべきであろう,また、来客の接待の中心にもなっているほか、藩主家の人々や自らの慰みとして楽しむものでもあった。
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった,したがって、藩政や藩主側近がかつての佐幕派・奥羽同盟派や開化容認の人々によって占められ、王政復古の理念,その不満ゆえ、なお秋九月に仲間三十余人をもって藩主に強訴したが受け入れられず、同年十一月兼平理左衛門ら,津軽平八郎も森岡鶴翁も津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族,この運用が家令・家扶の西館孤清や神盛苗によってなされたため、自派の勢力拡張に使われていると勘繰り、その
通史編2(近世1) ((四)改革の諸政策と藩士土着政策)

(四)改革の諸政策と藩士土着政策 津軽弘前藩の寛政改革は、基本的には八代藩主信明(のぶはる)の政治方針,を引き継ぎ、九代藩主寧親(やすちか)によって具体化された政治改革であり、したがって広くは両藩主の在任期間,代官機構の再編や縁組み規定の解消、知行の蔵入化および切米取・金給家臣の知行に召し直された分の切米・金給
通史編3(近世2) (帰国の旅)

帰国の旅 藩主が江戸の参勤を終えて弘前へ帰国する際の旅はどのようなものであったろうか。,十時藩主が上屋敷を出発、十二時前草下(加)(そうか)で昼休み。,なへかけ(ママ)(鍋掛)の川まで来ると水は平常より少し多いが、藩主は馬に乗って渡る。,夜食にひやむぎが出されて藩主が召し上がり、家老・用人が相伴し、私たちも頂戴する。  ,杉峠(すぎとうげ)(矢立(やたて)峠)でしばらく休み、藩主はお菓子を召し上がる。
通史編3(近世2) (信政の教養)

弟の政朝と二人の子信寿(五代藩主 一六六九~一七四六)・資徳も素行に入門させている。,(一六八一)、家老となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽侯に仕え、津軽山鹿家の本家となった,兵学の面は山鹿家、喜多村家以外にも磯谷家・貴田家・牧野家・横島家に伝えられていった。,惟足は吉川神道を唱道し、紀伊和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)などからの,祭事は惟足の内弟子北川信次郎(正種)が取り仕切り、彼は正徳二年(一七一二)八月新知二〇〇石を賜り、五代藩主信寿
通史編3(近世2) (居開帳)

居開帳 藩主と藩主家の人々に対する開帳では、元禄七年(一六九四)、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや,)の遷宮があり、四代藩主津軽信政が参拝した。,安永八年(一七七九)、創建一〇〇〇年になることから、七代藩主津軽信寧の社参をどのように行うかが、家老代,図25.岩木山百澤寺お札  貞享元年(一六八四)、藩主家の人々が古懸(こがけ)の不動尊(国上寺),入仏法要で結縁する予定で、藩主の代参の出席を求めた。
通史編3(近世2) ((三)日常生活)

に大組足軽頭(おおくみあしがるがしら)、天和二年には馬廻三番組頭となり、元禄十年(一六九七)ころから家老,彼は天和二年五月二十一日に四代藩主津軽信政に従って江戸から帰国した。,これによって藩主の日常生活(本節二)とも比較ができよう。
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

相馬大作事件 このような津軽家の官位昇叙(しょうじょ)に伴う家格の上昇に不満を募らせたのが、盛岡藩の,世間では、文政四年(一八二一)四月の、下斗米秀之進による藩主津軽寧親狙撃(そげき)未遂事件のことを、相馬大作,図162.相馬大作画像  文政三年、盛岡藩主利敬(としたか)が三十九歳の若さで世を去った。,それに対して、弘前藩の藩主津軽寧親は従四位下侍従に叙任されていた。,津軽家では、一時的に南部家より官位が高くなり、寧親のあとに藩主となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

一〇代信順の治世 本項では最初に一〇代藩主津軽信順(のぶゆき)から一一代順承(ゆきつぐ)の政治基調を,一〇代藩主信順は、寛政十二年(一八〇〇)九代寧親(やすちか)の長子として生まれ、文政八年(一八二五)四月,が高まったとして隠居中の前藩主寧親(やすちか)が幕府に轅の使用許可を求めていたが、まだ了承されていなかった,)の削減など、藩主の私生活にまで及ぶ緊縮策であったため、信順は不快をあらわにした。,時に彼は四十歳であったが、無嗣のため黒石藩主九代津軽順徳(ゆきのり)(後に順承(ゆきつぐ))が養子に迎
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(,幕府の命に対し、津軽弘前藩は、藩主信政名で貞享元年二月七日、津軽家には先祖が徳川家から発給された文書がまったく,津軽家は系図を幕府に提出する際に、近衛家に自家の筋目を保証して欲しいと依頼した(資料近世1No.六二九,これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖大浦政信,この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家は系図上 / 津軽家の自己認識確立への試み
通史編3(近世2) (住吉宮)

延享元年(一七四四)に稲荷宮、同二年に住吉宮が藩主の意向により建立され、二代山村伊勢が両社の社司を命じられた,寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ,この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭,山村伊勢・和泉父子は吉田家へ越訴(おっそ)に及んだが、これまでの神職組織を変えるまでには至らなかった(
通史編3(近世2) (景勝の地としての南溜池)

藩主もこのようなすばらしい景観を愛(め)でたらしく、たとえば文化十三年(一八一六)には、九代藩主津軽寧親,(つがるやすちか)が家臣たちを連れて、南溜池へ赴いたという(「国日記」文化十三年六月二十日・七月八日・,また天保期において、子鯉二万四〇〇〇匹余りを放流した背景には、藩主が南溜池において網を入れ「御漁」をした,際にまったく不漁であったことがあり、このように藩主が南溜池において「川狩」等と同様の、遊びとしての漁をすることがあった
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

後見政治の終焉後、延宝年間にかけては、信政が自己の藩主権力を強化していく時代であり、その藩主権力を行政,頭の四人はいずれも藩主信政の親族に当たる人々であり(政朝は津軽信隆の養子で信政の同母弟、為久と為節は信政,手廻組頭には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭,用人に任じられた四人の共通点として、江戸詰が長く、藩主信政に近侍する役だったことなどから、信政が自己の,へ直接上申する権利を認めており、用人の支配する事柄について、直接藩主の決裁が下りる道を開いたともいえる
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

エキスパートで、領外の幕領検地や領内検地などで実務的な能力を発揮し、やがて藩の勘定方・郡方を掌握し、藩主信政,この「出頭人」たちは、藩政の確立と藩主権力のより一層の強化を目指す信政にとってまさに自らの意にかなった,しかし、信政時代の家老はこれまで藩主家の血統につながる一門衆からは登用されず、藩の成立以降召し抱えられてきた,翌年安芸三次(みよし)藩主浅野長治(ながはる)に召し出され近習となった。,この時期に形成され藩政を握った「素行派」は、藩主の側近である素行の親族・弟子を藩主権力を強めるために登用
資料編2(近世編1) (【解説】)

具体的には、藩政確立期として第四代藩主津軽信政の藩主就任の明暦二年から、おおむね第七代藩主津軽信寧(のぶやす,の形成、家臣の払い米、地方知行、津軽黒石領の地方支配のあり方など、支配機構の整備の過程、及び家臣団の構成,第六節では、「領知朱印と家譜家系」と題して、幕府から津軽家へ下付した領知朱印状と領知判物(はんもつ)(,文化五年に十万石へ高直りしてからは、朱印状ではなく判物が下付された)を、また陽明文庫所蔵の津軽家の家譜家系,、四代藩主信政と関白近衛基煕との交際を知る上で貴重な基煕公記を、さらに信政の藩主としての思想内容を窺う
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

他領から技術を導入 近世、津軽における漆工芸は、藩主導の中で諸条件が整備されるとともに、領外から新技法,御鞘師として貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代藩主津軽為信,、秋田の鞘師、京都の塗師、江戸の具足師の移入によって興ったもので、彼等は、主として武具、馬具の装飾、藩主,鞘師一二、紺屋一四〇、たばこつくり三二など、約三〇種、四六〇軒ほどの居住者がいるが、塗師らの住んでいる家は
資料編3(近世編2) (【解説】)

第一節「武家の生活」では、藩主と藩士の生活を取り上げた。,第一項では、藩主の生活の実態は、第七代藩主津軽信明(のぶはる)が弘前在国中に書き記した「在国日記」によって,第二項では、藩主の住居として弘前城の絵図のほかに江戸屋敷図を示した。,これより先、四代藩主信政のころから「城中講釈」が行われ、好学の八代藩主信明は萩生徂徠の弟子宇佐見灊水に,なかでも特に目につくのは、藩政後期に入ると、藩主の津軽家が塗物を領内特産品として注目し、朝廷や将軍家をはじめとして
通史編2(近世1) (一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき))

一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき) 四代藩主信政の弟である可足権僧正(慶安二年〈一六四九,〉~宝永六年〈一七〇九〉)が、津軽家に伝わる史実を略記したもの。
通史編3(近世2) ((一)衣服)

しかし幕府や大名家における重い礼装は、直垂(ひたたれ)・大紋(だいもん)・素襖(すおう)であった。,津軽弘前藩八代藩主津軽信明(のぶはる)は、天明五年(一七八五)元旦、弘前城本丸御殿において恒例の諸行事,寛政二年十二月は資料近世2No.一九九参照)から、信明が着用していた衣服は、おおよそ左のようになり、藩主,藩主家の菩提寺である長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・報恩寺(ほうおんじ)(現市内新寺町,この二例からだけでは藩主の平服が(継裃を指すのか、)どの衣服を指すのかは明らかでない。
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