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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (藩兵の整理)

藩兵の整理 藩治職制問題と密接な関係があったのが、藩兵の解体である。,では、弘前藩の藩兵解体状況はどのようなものであったのだろうか。,行われるたびに藩兵も削減されていったことがわかる。,図表25.藩兵の変遷一覧(表中のMは明治の意)  そのため、藩兵の解体は彼ら以外の諸隊でまず進行,しかし、藩政改革が遅れたように、藩兵解体も容易には進まなかった。 / 藩兵の整理
通史編2(近世1) (南溜池の掘削と藩兵の訓練)

南溜池の掘削と藩兵の訓練 南溜池は弘前市の南側、相良町(さがらちょう)と新寺町(しんてらまち)の間(,における南溜池の掘削と修理はロシアの南下に対する蝦夷地警備のためであり、安政期の軍事訓練は箱館開港に伴う藩兵鍛錬,池の掘り下げも蝦夷地への藩兵用粮米の安定供給が第一義であって、軍事鍛錬が盛んになったのは付随的現象にすぎない,藩兵の演習地としては南溜池の他に宇和野(うわの)(現弘前市小沢辺り)が有名であり、ここでも藩主による高覧,戊辰戦争勃発に伴って大規模な軍制改革を始めるが、それは突然実施されたのではなく、これまで述べた幕末期からの藩兵訓練 / 南溜池の掘削と藩兵の訓練
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

箱館戦争の開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして,戦いの口火を切ったのは、弘前藩兵だった。木村隊はこの日、箱館府より七重村への出張を命じられた。,また、弘前藩の二小隊と松前藩兵が大野村へ到着していた。,二十二日夜、旧幕府軍の使者の軍が峠下村に宿営したのをみて、同夜半に弘前藩兵らが夜襲をかけたのである。,二十四日、本道を箱館府の大野藩兵が、中道を箱館府の福山藩兵が、そして山道を弘前藩兵が進発し、七重村で銃撃戦
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

長州藩兵 七七六人 岡山藩兵 五〇〇人   津藩兵 一八〇人 久留米藩兵 二五〇人   福山藩兵 六二一人,徳山藩兵 二五五人   大野藩兵 一六六人 松前藩兵 五五二人   弘前藩兵 二八八六人 黒石藩兵
通史編3(近世2) (野辺地戦争の経過)

弘前藩側は、盛岡藩兵が退きはじめるとさらに追撃したが、野辺地を目前にしたところで、盛岡藩兵の待ち伏せを,盛岡藩陣営は、小高い場所に砲台を設置し、家屋や木々に身を隠し、弘前藩兵を攻撃した。,弘前藩兵は身を隠すところもなく砲撃され、負傷者が続出した。,夜討だったにもかかわらず、段どりが悪く、翌朝を過ぎても、戦いは続いたため、身動きのとれなくなった弘前藩兵,は次々と盛岡藩兵の的となり、逃げまどう姿は無惨であった。
通史編3(近世2) (清水谷公考の退去)

そして、二十五日から二十六日にかけて、清水谷公考とともに箱館府兵五二人・松前藩兵一一五人・雇兵隊四〇人,・大野藩兵八〇人・福山藩兵四〇〇人の計六八七人と、さらに弘前藩兵や残余兵が蒸気船で青森に退避した(同前,さて、このころには政府援軍が到着しはじめるようになっており、十一月四日、まず秋田藩領船越村から長州藩兵四六
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

七月十八日、一等銃隊頭館山善左衛門および二等銃隊頭田中小四郎が藩兵を率いて秋田へ向かい、二十二日に同地,八月二日、成田求馬らは平沢へ到達したところで、退却してきた秋田藩兵と出会い、戦況を知った。,この時、屋敷村から本荘へ他藩兵とともに引き揚げた弘前藩和嶋隊は二人の負傷者を出した。  ,銃撃戦の末、秋田・弘前藩兵は接近戦を試みたのである。,しかし、奮戦かなわず、大きな被害を出して、両藩兵は本荘への引き揚げ命令を受けた。
通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

これを受けて、弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は翌五日、松前へ渡海する藩兵へ激励書を送った(資料近世2No,四月六日、軍艦春日・甲鉄・丁卯・陽春と輸送船飛龍・大坂・ヤンシー(米国より雇入の商船)・豊安に各藩兵が,弘前藩兵は、四月六日、都谷森甚彌(とやもりじんや)指揮下の銃隊四小隊と木村杢之助(もくのすけ)指揮下の,ヤンシー号に乗り合わせていた弘前藩兵は、福山藩の次に蝦夷地へ降り立った。  ,政府軍の対応は素早く、上陸を終えた松前・大野藩兵などが直ちに布陣して反撃した。
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

のための出兵が繰り返されていたが、こうした国元の状況を踏まえて、閏四月十三日、京都詰赤石礼次郎が京都詰藩兵,庄内藩征討のため、沢為量副総督を将とした総督軍は、参謀大山綱良(つなよし)以下薩摩藩兵一小隊および桂太郎,を隊長とする長州藩兵一中隊が四月十四日、仙台領岩沼から天童城下へ向かった。
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

そこに盛岡藩兵一四〇〇人が鹿角(かづの)街道口と葛原口・新沢口から進攻してきた。,八月十二日には、十二所口から退いた秋田藩兵が回復を目指すべく扇田まで攻め入り、盛岡藩勢を十二所口まで押,また、山館(現秋田県大館市)近辺においても応援に駆けつけた弘前藩兵が加わって、盛岡藩兵との戦闘が繰り広,この時参加した弘前藩対馬官左衛門率いる銃隊は、対庄内戦へ出兵する途中で盛岡藩兵の襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二,また、箱館へ詰めていた弘前藩兵も引き揚げさせて、領内警備を強化した。  
通史編3(近世2) (木古内口の攻防)

木古内口戦力として五勝手(ごかって)村(現北海道檜山郡江差町)に駐留していた連隊には、弘前藩兵も含まれている,四月十日、この時、待機を命じられていた弘前藩兵は諸藩の進発を見送りながらもそのときを待ちかねていた。,結局のところ、十一日に旧幕府軍へ攻撃をしかけた政府軍だったが、実は攻めきれずに弘前藩兵が到達するころには
通史編3(近世2) (農兵の動員実態と要求)

動員実態と要求 このように、藩権力により強制的に組織された農兵ではあったが、戦線の拡大と長期滞陣によって藩兵,そのため藩兵は西海岸一帯と、箱館と対峙する青森周辺に集中しがちで、他の重要拠点が一時的にせよ無防備になることがしばしばあった,農兵は直接軍事力として前線に送られたのではなく、あくまで藩兵の補助にとどまったのである。  
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

そして、五月一日、総大将山崎所左衛門は、用人工藤嘉左衛門から解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「,そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  ,弘前藩兵は残らず帰藩し、藩内の関所や海岸の警備を仰せ付けられており、藩内が殊の外騒々しくなっている」と
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

盛岡藩兵が秋田に侵入し、大館に火をつけて陥落させた明治元年(一八六八)八月、その戦闘の様子は市街の高所,碇ヶ関や大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その,図61.御布告高札  町の往来には武装した藩兵が物々しく毎日のように出発し、その後に町民や農民らが
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

戦局の推移と戦費負担の増加 明治元年(一八六八)の春以来、弘前藩兵は領内外にわたって広範な出兵を余儀,は東北戦争の終結を宣言し、数度にわたって弘前藩に対して軍事行動の停止を命令したが、それに応じて続々と藩兵,こうして、北奥にはようやく平和が実現するかのようにみえたが、藩兵の帰城とともに新たな緊張が走った。,元年十一月には松前藩主松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落ち延び、弘前藩兵,藩 名 藩兵人数 夫卒人数 計  1 鹿児島藩 263 263  2 山口(長州
通史編3(近世2) (箱館戦争期の兵員補充)

箱館戦争期の兵員補充 春以来領内外の各地に転戦してきた弘前藩兵は、ようやく東北平定とともに弘前に帰陣,そしてついには能役者や学問所の者にまで銃隊訓練を命じているが(同前明治元年十一月二十四日条)、ここまでくると藩兵
通史編3(近世2) (社家・修験隊の組織)

社家・修験隊の組織 藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに,によると、組織された社家・修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、社家隊は小隊長の他に伝令士が四人、隊員は三八人で、藩兵,ただ、社家・修験隊は農兵同様、あくまで藩兵の補助兵員として駆使されただけであり、最前線への投入などを目的
通史編3(近世2) (藩治職制への対応)

そこで個々にばらつきのある諸藩の職制を統一し、各役職の職務内容を明確に規定し、役職や藩兵の人員も石高に,藩兵解体にしろ、藩治職制にしろ、それらはすでに明治元年中に臨戦態勢から解放された西日本の地域では着手されていた
通史編3(近世2) (農兵の組織)

農兵の組織 弘前藩の軍制改革は、前項で述べてきたように藩兵を中心に行われてきたが、組織的にはあくまで,このような藩兵の不足を補うために組織されたのが農兵隊であり、戊辰戦争期の本格的な組織命令は明治元年(一八六八,の精度はしだいに高まっていき、八月十二日には郡奉行小山内清之丞(せいのじょう)が四小隊を率いて、盛岡藩兵,彼らの持つ小銃は八匁(もんめ)ゲベール銃で、藩兵のミニエー銃とまではいかないまでも、ある程度の洋式化は
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

結局松前城は持ちこたえられずに落城し、松前藩兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。,既に斥候隊が派遣され、兵糧米などを送っており、青森に滞在していた各藩兵の出兵準備が整えられつつあった。,十一月二十一日、その任は奥羽監察使藤川能登(おううかんさつしふじかわのと)の兵で行うこととなり、弘前藩兵
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

これは幕府による長州戦争失敗後、長州藩主に官位復旧と同藩兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、,に出張していた実弟土岐万之助に出会い、京都市内の様子を聞き、また、自身も見聞しているが、市中には薩摩藩兵
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

この一連の経緯は、江差への官軍諸藩兵の出陣が実行される前の出来事であったため、先日青森で話し合われた作戦,なお、松前藩に残った藩兵は旧幕府軍から降伏を促され、藩主の出帆を知った後の二十日、武装を解除した。,明治二年二月の段階で、対旧幕府軍のために集結した政府軍の兵数は総員六四〇〇人弱であり、その内半数近くが弘前藩兵,こうしたことから、弘前藩兵は「弘前ニも五六小隊・相残不申余も皆四方海岸江出張ニ相成申候」(「公私留記」
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

一方、弘前では二十二日、異国船来航のために常時準備している藩兵が出立(しゅったつ)した。,釜野沢村、現東津軽郡三厩村)にかけての沖に停泊し、大筒を四、五度にわたって撃ちだしたため、三厩表にいた藩兵,.異国船の図 目録を見る 精細画像で見る 図197.沖合に停泊する異国船  警固の藩兵
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

同日庄内藩兵は鶴岡に向けて総退却を開始し、九月二十七日、正式に降伏を表明する。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

碇ヶ関よりの杉山上総書状(同前No.五四八)にみえるように、野辺地口ばかりを先行して攻撃しても、盛岡藩兵,今度は、弘前藩兵が九月二十二日、野辺地馬門口へと攻め入ったのであった。
通史編3(近世2) (戊辰戦争直後の課題)

弘前藩兵も続々と凱旋を果たしたが、一部の部隊は戦後も箱館駐留を命じられたり、室蘭方面などに残存した敵兵
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内藩兵,実際、八月五日から九月七日までの藩兵の出動状況をみると、動員された部隊は四一小隊で、うち三五小隊は三等銃隊
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

また、二十二日には榎本らが熊本藩兵に護送されヤンシー艦で青森へ入港し、二十六日東京に向けて陸行で護送された
通史編3(近世2) (松前城の恢復)

十五日に渡海を命じられた人数は、弘前藩兵四〇〇人を含めて三七一八人にのぼっていた。  
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

当然、これらの陣屋建設や藩兵配置には膨大な費用がかかったので、幕府は警備負担の見返りとして警備地に隣接,蝦夷地警備のための藩兵の訓練については、後で南溜池(みなみためいけ)の掘削との関連で詳しく触れるが、ここでは,あぶらかわ)から蟹田(かにた)方面の上磯(かみいそ)と呼ばれる沿海地帯の状況は深刻で、蝦夷地警備のため多くの藩兵
通史編2(近世1) (ロシアによるエトロフ襲撃事件)

続いてエトロフの中心であるシヤナに二度にわたって上陸し、勤番の津軽弘前・盛岡藩兵を撃退し、ナイボ同様、
通史編3(近世2) (箱館の攻防)

七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船箱館攻撃部隊を乗せた豊安・弁天台場(べんてんだいば)攻撃部隊(弘前藩兵
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

三月に入って九条総督は、薩摩・長州・福岡の藩兵およそ五〇〇人を率いて京都を発し、大坂から海路奥州に向かい
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

同五日にこの部隊は鶴岡(庄内)藩兵と期せずして遭遇戦を展開し、隊長成田以下一〇人が戦死、一一人が負傷して
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

両名は藩兵を碇ヶ関(いかりがせき)まで撤退させ、五月十六日に秋田と津軽を結ぶ険峻矢立峠(けんしゅんやたてとうげ
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

また、六月には九条総督の秋田転陣に際し、箱館へ向かうことになった佐賀藩兵を領内へ受け入れた。
通史編3(近世2) (二等銃隊の補充と特質)

わされた後、七月上旬にようやく勤皇に政治的立場が確認され、奥羽鎮撫総督府の庄内討伐援兵命令に従って続々と藩兵
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

たとえば、藩兵力の中核である御手廻(おてまわり)・御馬廻(おうままわり)組の場合、武士たる者が第一に鍛,彼らはいずれも修武堂において藩兵訓練に携わってきた番方上士であり、軍制改革といっても西南雄藩のように、
通史編3(近世2) (洋式武器の種類)

弘前藩兵にも明治元年の後半になると、ほぼこの銃が行き渡るようになり、ゲベール銃は農兵隊などの補助戦力でしか
通史編3(近世2) (町方の軍事負担)

また、翌二年二月六日には藩兵の出張宿代として領内から金一万両が徴収されたが、この時も銀一五一貫二九九匁
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

両陣屋には合計三〇〇人の藩兵が派遣され、その人員を確保するために、家中の御持鑓(おもちやり)・長柄(ながえ
資料編3(近世編2) (【解説】)

この中で三月十八日に藩は近代戦に対応するために藩兵を総員銃隊とする軍制改革に着手し、急速に訓練を施していった,軍事情勢は一挙に緊迫化し、その中で八月五日には成田求馬隊が羽州由利郡吉沢村で庄内藩兵と交戦し、成田以下死傷二一名
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

ところが、禁門の変の急報に接し、上洛を無視しえなくなった承昭は、一一五〇人に上る藩兵を随行して、元治元年十二月二十三日
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

この対応策では鎮撫使の通行については、津軽弘前藩の手で警備したうえで通行させるが、「近臣」や薩長両藩兵
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

結集したのは箱館総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開していた弘前藩兵
資料編3(近世編2) (【解説】)

こうした動向は戊辰戦争時の軍制改革の下地となり、明治元年(一八六八)に短期間で藩兵の西洋式改変を可能にしたのである
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