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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

藩論の紛糾 さて、この奥羽列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中,し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(いかりがせき)へ家老杉山上総を派遣して、秋田藩との藩境,しかし、十七日、山崎らは同盟遵守派の過激な行動を抑えるために、あえて藩境封鎖命令に従った。,一方で藤川能登や秋田藩の戸田十太夫へも、藩内で激徒が蜂起したため危険であるという藩境封鎖についての説明,二十三日には碇ヶ関に詰めていた山崎所左衛門が参謀大山格之助(おおやまかくのすけ)へ書状を送り、藩境の兵
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

一方、戦線が藩境に迫ったこともあり、藩内では藩境の警備がさらに強化されるとともに、領内要地には砲台が築,こうした状況に、弘前城下からは家老西館宇膳(にしだてうぜん)や杉山上総(かずさ)などをたて、藩境碇ヶ関,九月六日には盛岡藩勢は藩境まで後退して、秋田藩は大館・十二所を回復する。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

そして、いよいよ九月二十二日から二十三日にかけて、弘前藩と盛岡藩は藩境に位置する馬門口で衝突する。,図62.藩境塚  この時、米沢藩と仙台藩はそれぞれ降伏しており、さらに、まさにこの日は会津藩鶴ヶ
通史編2(近世1) (耕作地の放棄と荒廃田)

このとき、津軽から藩境を越え秋田領へ向かった人々はそのような飢人たちであったということができよう。
通史編2(近世1) (一里塚)

道程絵図」と「東御門町境より新城村通油川村御札所(おんふだしょ)迄道路絵図」の二本に分けられており、従来の藩境
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

弘前藩の出兵 さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。  ,そして、この兵が碇ヶ関付近の藩境に集められ、そのまま警備を命じられたのである。  
通史編3(近世2) (藩論の統一)

藩論の統一 藩境封鎖問題を落着させた弘前藩は、六月初旬の時期を一応戦争が回避されたものと判断していた
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

図111.藩境紛争に関する書状  正徳三年六月、ついに狩場沢村の百姓たちは、馬門村側の百姓が領境
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信章一家は藩境を越えて秋田領に脱出したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

軍政調方副役として活躍、八月十二日に今別町奉行に任命されながら、翌日は秋田藩と盛岡藩の戦端が開かれたので藩境碇
通史編2(近世1) (糧米確保)

凶作になると、どの藩でも他国への穀物の移出を禁止し、藩境・港での取り締まりを強化した。
資料編2(近世編1) (【解説】)

をはじめとする領内各都市の建設、農村支配の形成、知行充行に基づく家臣団の形成、寺社支配の形成、秋田佐竹家との藩境確定交渉
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

へ書状と祝儀を遣わし、入部後の佐竹氏と友好関係を結ぶことを希望しているが(同前No.一六八)、その後藩境
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

藩境を接する秋田実季は常陸国宍戸(ししど)(現茨城県西茨城郡友部町)へ転封され、代わりに常陸国水戸(現茨城県水戸市
資料編3(近世編2) (【解説】)

庄内藩征討応援命令への対応、奥羽鎮撫総督府の領内転陣の諾否をめぐる問題などについて、藩内で激論が闘わされ、時には藩境
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●承応元年(一六五二)七月七日、盛岡藩、藩境の二本股銀山のいずれの藩領なるかを、検分させる。
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