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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

信政晩年の藩政 元禄十五年(一七〇二)、津軽領を再び飢饉が襲い、多大な損害を与えた。,この飢饉の影響はきわめて大きく、藩政もそれに規定される面が多かった。  ,政実が藩政の執行者であったことを藩政の乱れの原因とすることは、政実に代表される素行派と、彼らとともに藩政,これは、桜庭自身が現在の藩政状況に見切りを付けて、新しい藩主のもとでの藩政の展開に期待し始めていたことを,信政を失ったことを契機として、その後の藩政は大きな転換を迎えることになる。 / 信政晩年の藩政
資料編3(近世編2) (第三節 藩政改革と藩制の終焉)

第三節 藩政改革と藩制の終焉 一 財政難の打開と藩政改革 二 帰田法の実施と賞典禄  (一)帰田法 / 第三節 藩政改革と藩制の終焉
資料編3(近世編2) (第四節 後期藩政下の民衆)

第四節 後期藩政下の民衆 一 金木屋日記に見る民衆の世界 二 町方の構造 / 第四節 後期藩政下の民衆
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

藩政の転換と家臣団統制の動き 宝永期の藩政において、天和・貞享期以来郡・勘定方を掌握し、藩主信政の意向,したがってこの時期の藩政は、彼らを支配層内の支持者としていたといえる。,すなわちそれは信政晩年の藩政の否定であり、信政の出頭人政治の否定ともみられる。,こういった点から、信寿は、門閥・譜代層を基礎として藩政を展開しようとしたと考えられる(浪川健治「藩政の,これらの動きは動揺した家臣団の収拾を図り、藩政の動揺をも止めようとしたものだったのであろう。 / 藩政の転換と家臣団統制の動き
通史編3(近世2) (藩政後期)

藩政後期 藩政後期の宝暦改革は、元司職の乳井貢が藩財政の再建を強力に推し進めたものであった。 / 藩政後期
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立 一 寛政改革の実施  (一)改革意見書  (二)改革の諸政策, (三)藩士土着政策の実施   二 化政期藩政の動向と黒石藩  (一)廃田・新田開発の展開,(三)文化の高直り  (四)相馬大作事件  (五)黒石藩の成立   三 天保の飢饉とその後の藩政 / 第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

藩政前期為信 津軽地方の統一は、津軽氏の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され / 藩政前期為信
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

第一節 後期藩政の展開と社会状況 一 宝暦・天明期の社会状況  (一)宝暦飢饉  (二)天明飢饉 / 第一節 後期藩政の展開と社会状況
通史編3(近世2) (第二次藩政改革)

第二次藩政改革 このような旧体制を温存させていた弘前藩を、新政府が傍観しているわけはなく、続く第二の,さんりくいわきりょううあんさつしふ)を設置して新政府の出先機関とし、中央集権化のために民政取り締まりや藩政改革促進,こうして第二次藩政改革は進んでいったが、同年は冷夏が災いして損耗率平均約七四パーセントという凶作に陥っており / 第二次藩政改革
通史編3(近世2) (藩政改革がもたらしたもの)

藩政改革がもたらしたもの 明治三年(一八七〇)六月に断行された菱田重禧主導による藩治職制の顛末(てんまつ / 藩政改革がもたらしたもの
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

藩政中期四代信政 信政の時は、藩庁の行政組織も整い、諸政策が打ち出され、寛文元年(一六六一)には「御家中諸法度 / 藩政中期四代信政
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

第一次藩政改革と特色 同日、藩主承昭は藩士を惣(そう)登城させたうえで、自筆書と家老口達を回覧させた,というのも、家禄の渡し方には藩政時代からの細かな規定があり、石取りでは一〇〇石以上は四ツ成(四割を得ること / 第一次藩政改革と特色
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向 十八世紀半ば以降は、上層農民・在方商人が発展した時期であった。 / 上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向
資料編2(近世編1) (はじめに)

本編では、昭和三十八年(一九六三)に刊行した『弘前市史』藩政編に多くを学びつつ、『新編弘前市史』資料編,収載した内容は、第一章、藩政成立への道、第二章、藩政の確立、第三章、藩政の展開と思想、第四章、産業と海運,の発達、第五章、藩政時代の町と村、である。,取り扱うこととし、時系列による領内支配の政治的な推移と動向を押さえ、一方では時間軸では捉えきれない、藩政時代,文書史料を、ついで宝暦改革の主導者である乳井貢(にゅういみつぎ)の著作を掲げて、政治と思想の両面から藩政
通史編2(近世1) (一四 津軽家御定書(おさだめがき))

一四 津軽家御定書(おさだめがき) 寛文四年(一六六四)から延宝三年(一六七五)に至る、藩政確立整備時代,具体的な事務の処理方法や職務内容、経済の統制などの法規制を網羅しており、藩政を知るうえで好史料である。
資料編3(近世編2) (はじめに)

収載内容は、第六章、幕藩体制の動揺と民衆、第七章、藩政期の人々の生活と文化、第八章、藩政期の宗教と信仰,政治面では、津軽領内における支配の推移と、十八世紀後半、帝政ロシアの南下によって、北方からの危機に揺れる藩政,その上で、時間軸では捉えきれない、藩政時代における町・村の人々の生活や生業、年中行事、信仰など、民衆の,さらに藩政時代の宗教・信仰、学芸、工芸、建築関係資料を本巻に掲載したが、近世編1ではこれらの分野について,具体的には、藩政後期の民衆を生き生きと描いた「津軽風俗画巻」や「忍ぶ草」(蝦夷地警備の武士を描いた絵巻
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

終わって山吹ノ間へ出座し、家老津軽多膳(たぜん)と会い藩政について用談・決裁――来年の年男の件、鰺ヶ沢,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――大坂の小山屋吉兵衛へ証文一通差し出,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――木野(きの)清兵衛の預米願いにつき,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――来年高岡霊社(たかおかれいしゃ)(,十五日、正午すぎ藩政に関する決裁が終わった後に、麻裃に着替えて神拝。
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

弘前藩庁日記 寛文元年(一六六一)から慶応四年(=明治元年〈一八六八〉)に至る、約二〇〇年間の津軽弘前藩政,その意味では第二次的史料の性質を持つが、津軽弘前藩政史研究のきわめて貴重な基本史料で、弘前市立図書館に
通史編2(近世1) ((四)改革の諸政策と藩士土着政策)

ただし、これまでみてきたように、改革の中心は藩士土着策であり、その展開と、藩政の展開を大きく左右した蝦夷地警備,知行に召し直された分の切米・金給への引き戻し、城下の屋敷割や町割などがその主なものであるが、これ以後の藩政,の動向は積極的な新田開発と殖産興業の推進であった(今野敏「津軽藩政に関する一考察」『日本歴史』一〇六)
通史編2(近世1) (五 御用留)

維新~明治初期における藩政研究のための好史料。弘前市立図書館蔵。
資料編2(近世編1) (【解説】)

【解説】 本章は、「藩政の確立」と題して、第一章の「藩政への道」に引き続いて、明暦二年(一六五六)から,具体的には、藩政確立期として第四代藩主津軽信政の藩主就任の明暦二年から、おおむね第七代藩主津軽信寧(のぶやす,地域は本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、藩政確立期の動向を中心に、江戸、大坂、京都、日本海沿岸地域,検地は、天正十八年(一五九〇)の奥羽日の本仕置(ひのもとしおき)において太閤検地が実施され(第一章「藩政
通史編2(近世1) (六 要記秘鑑(ようきひかん))

家中における諸種の様式、その他藩政全般にわたって分野別に記事が集録されている。
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

中心部である本丸の旧天守台下と、東側の三の丸の北部に位置する公園緑地課前の2か所に遺跡があり、前者は藩政時代,一方の公園緑地課前遺跡は前述のテニスコート設置と、藩政時代の番所移転及び水洗便所設置に伴う排水管工事のための,円筒上層a・b・c式土器のほか、同時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器破片に加えて、平安時代の土師器をはじめ、藩政時代
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

「出頭人」の台頭 近世の幕政や藩政において、「出頭人(しゅっとうにん)」と呼ばれる存在があった。,の幕領検地や領内検地などで実務的な能力を発揮し、やがて藩の勘定方・郡方を掌握し、藩主信政の在職後期の藩政,この「出頭人」たちは、藩政の確立と藩主権力のより一層の強化を目指す信政にとってまさに自らの意にかなった,人材であり、藩政の重職に登用したとみることができよう。  ,ただ同年六月に死去したため、藩政には十分な力を発揮しえずに終わった。  
通史編2(近世1) (一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制)

禄制・租税制も藩政末期の時点を中心に、一般的に説明している。
通史編2(近世1) (二二 文化律(ぶんかりつ))

藩政期を通して施行された。「要記秘鑑」所収。弘前市立図書館蔵。
資料編2(近世編1) (【解説】)

地域は、本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、領主津軽氏と全国政権との関係動向などを視野に入,すなわち三代藩主津軽信義までの藩政を扱うことにしたのであって、その理由は、次の二点である。  ,第一は、藩政全体の動向から見た場合、四代信政の時期は藩政確立期として位置づけられ、三代藩主津軽信義に至,る藩政成立期とは、明らかに領内の政治・経済など各分野での支配のあり方が決定的に異なる。,本巻において本章と第二章の「藩政の確立」以後とを分けたのも、成立期と確立期とを分けて把握するという同様
通史編2(近世1) (一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい))

各記事には典拠が明示されており、藩政史・人物史の好史料となっている。
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

後見としたのは、藩主が幼少で自ら政務を執ることが不可能なことに加えて、三代藩主信義時代が家中騒動などで藩政,さらに幕府は、家康の養女の子息であり、徳川家の直臣である信英を通じてある程度藩政を指導しようとしたとも,信英と家老たちが合議ないしは相談の上で藩政を進めていったと考えられるが、しかし、この時期藩の支配機構がどのようなものであったか
通史編2(近世1) ((二)刑罰法)

(二)刑罰法 津軽弘前藩では、藩政の初期から中期にかけて刑事事件に関する一般的な法典はなく、個々の取締令
通史編2(近世1) (二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))

二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の検地帳。
通史編3(近世2) (礼服)

礼服 藩政時代、武田家などの有力な町人に対しては、裃の着用が許された。
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

岩木川の治水、屏風山植林、山林制度の整備、鉱山の開発、養蚕・織物の振興、漆木の植え付け奨励などその後の藩政,また幕府から課せられた寛文蝦夷蜂起への出兵などの軍役(ぐんやく)・大名課役(かやく)の遂行も、藩政の基盤固,信政も含めて、こういった人々に共通する点は、藩政機構の整備・確立、新田開発などによる農業生産の伸張、大名課役,の遂行などにかかわる幕府との関係など、この当時大名領主が負わされた課題に取り組み、以後の藩政の流れを主導,家中内の不満・反発があったにもかかわらず、信政の名君像が形成されたのは、信政の政策が以後の藩政遂行の基盤
資料編3(近世編2) (【解説】)

藩政の展開もまたこの大きな流れの中に位置づけることができる。  ,の展開と社会状況」「藩政改革の実施と黒石藩の成立」「蝦夷地警備と開港下の政治動向」「後期藩政下の民衆」,第一項では、宝暦・天明期の社会状況として、藩政改革を必然化し、その後の藩政の課題として上げられていく諸要素,いわゆる藩政改革である。,第三項は、天保飢饉とその後の藩政を扱った。
通史編2(近世1) (一一 津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき))

附録として、藩政以前のことを述べた「本藩濫觴実記(ほんぱんらんしょうじっき)」がある。
通史編3(近世2) (婚礼・仏事の接待)

以上のように年代的にみてくると、婚礼・仏事に際しては、藩政中期までは二汁五菜~二汁三菜であったが、藩政後期以降
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

ここに、藩財政再建策のなかで、家臣団編成を藩財政窮乏の克服にいかに活用していくかということが、藩政の課題,藩政の現状認識と課題を明示し、それへの対応を具申した意見書は、改革を総合的に把握する絶好の史料だからである
通史編5(近・現代2) (第三節 音楽界の様相)

以上のように概観できるが、藩政期の音楽が、明治期に突如として消滅したのではなく、特に古典邦楽といわれる,歴史的背景を明らかにするために、藩政期における状況や創始にかかわる事実も簡単に説明する。
通史編4(近・現代1) (養蚕業の奨励)

そもそも津軽地域においては藩政時代から養蚕が奨励されていた。,第二に、藩政時代、弘前の周辺は野桑が繁茂し、桑園地がいたるところに見られたが、りんごの導入とともに次第
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

は用人山田登であり、彼は同志を募りながら家老西館宇膳・山中兵部・杉山八兵衛らと対決姿勢をあらわにし、藩政,続けられ、明治二年(一八六九)・翌三年には藩内騒擾に発展したことから新政府の指導を受けることとなり、藩政改革,の促進にも重要な影響を与えたのである(明治期の藩政改革については本章第三節参照)。
資料編1(考古編) (あとがき)

あとがき 自然・原始・古代・中世 専門部会長 村越潔    さきの『弘前市史』(藩政編,思い起こすとその当時は、藩政以前の時代を何故に取り扱わぬか不思議に思っていたが、このたび『新編 弘前市史
通史編3(近世2) (概観)

概観 藩政時代の美術工芸については大きく三つの問題にまとめられよう。,これまで第一の点については、藩政史料などに基づき絵師列伝としてまとめられた、弘前市立博物館刊行の『津軽
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

、領内における商業統制・通貨統制を図ることによって借財の整理をし、また綱紀粛正・倹約奨励などによって藩政全体,しかし「国日記」をはじめとする藩政史料にその記録が見いだせないことから、乳井の独断で「犾(えぞ)」の身分,藩政の基盤がこの段階で帳簿にまとめられたことは重要であり、以後の藩政遂行に大きく寄与したことは否定できない
通史編3(近世2) (藩兵の整理)

表25は明治元年から明治四年四月までの藩兵数と整理・統合の様子を示したものだが、これによると藩政改革が,しかし、藩政改革が遅れたように、藩兵解体も容易には進まなかった。,そこで、明治三年六月に菱田重禧(ひしだしげよし)は藩政改革の一環として兵員削減についても強力な指導をしたと
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった,したがって、藩政や藩主側近がかつての佐幕派・奥羽同盟派や開化容認の人々によって占められ、王政復古の理念,青森県が難治県と言われるのは「旧君側ニ基ヒセリ」、「戊辰後、勤王佐幕ノ相分ルルニ原因シテ」と明治二年の藩政改革人事
通史編2(近世1) ((二)対外危機意識の表出)

以下、代表的な二つの事例によって、蝦夷地警備がいかに藩政の重要な軍役(ぐんやく)であり、そして藩士の危機意識
通史編2(近世1) (天明三年に頻発した騒動)

津軽領でこのように凶作による騒動が短期間に集中したことは初めてで、「飢餓移出(きがいしゅつ)」を招いた藩政
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

再び大幅な藩政改革が求められる状況となっていた。,既に中央からは明治元年中に藩政改革の指示が出されていたが、それは新政府のもとで藩体制を均質化させる目的
資料編2(近世編1) (【解説】)

【解説】 本章は、四代藩主信政による藩政確立期の政策が、十八世紀初頭以降の社会的・経済状況の変化によって,したがって、第四章以降の藩政の発展を視野に入れながらその変質過程を追い、領主的対応である藩政改革につなげていく,内容とすべきものであり、また、藩政後期の起点となることから、本来ならば主として藩政後期を扱う『新編弘前市史,ところで、藩政の展開の中で、是非とも押さえておかなくてはならないものに、司法制度の整備がある。,それ以前にも牢屋は存在したであろうが、以後藩政期を通じて移転することはなかった。  
通史編2(近世1) (四 御用格(ごようかく))

四 御用格(ごようかく) 津軽弘前藩における法令・儀式・作法・その他藩政の事例を藩庁日記方が類別し、
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