• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 24件
辞書ファセット
/ 1ページ
資料編3(近世編2) (一 藩校と学問)

一 藩校と学問 (一)学校の創設と経過 (二)釈奠・養老の祭事 / 一 藩校と学問
通史編2(近世1) (その他の諸政策)

幕府の寛政改革との対応で取り上げられるものに、人材の登用と藩校「稽古館(けいこかん)」の設立がある。,藩校の内容については第八章第一節を参照いただきたいが、藩校が家臣団の統制に内側から力があったという点を,考えるとき、藩士土着策と藩校の設立とは強く結びついているといえよう。  ,この場合、毛内は藩校の設立を主張している。,この意味では、土着策の失敗が、藩校の内容を規定していったともいえるのである。  
通史編3(近世2) (学校開設準備)

藩校創設の機運は熟し、寛政六年八月十一日には津軽永孚(ながざね)が学校創設の総責任者として用人に登用され
通史編3(近世2) (山崎蘭洲)

山崎蘭洲 文教面における第一人者であり、藩校稽古館の創設に大きくかかわった人物に山崎蘭洲(一七三三~,文人木村蒹葭堂(けんかどう)、京都古義堂の儒者伊藤東所(とうしょ)(伊藤東涯(とうがい)の長男)、熊本藩校時習館
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

である『東奥義塾一覧』に結社人筆頭で名前が挙げられた兼松成言は、弘前藩において和洋両学に通じた学者として藩校稽古館,東奥義塾は旧藩校以来の教師陣、学校設備、教科書などもほぼ引き継いで開校し、さらに前述のように旧藩主の庇護
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

明治三年二月梅軒は藩校の学校監察となり、八〇俵高となった。忰廉三郎は三等銃隊半隊士令士となる。,小竹の文を羯南が知り得たのは、梅軒が藩校にかかわった明治三、四年のころ、羯南・重が十四、五歳、場所は藩校
通史編5(近・現代2) (一 古典邦楽)

雅楽は藩校の稽古館では教科ではなかったが、放課後に練習が許され、箏・笙・笛・太鼓の楽器も用いられた。
通史編3(近世2) (本行寺)

文化七年(一八一〇)、貞昌寺の出火によって類焼した際は、藩校の稽古館の講堂を移して書院とした。
資料編3(近世編2) (【解説】)

まず第一項は「藩校と学問」とし、藩校「稽古館」の関連史料を掲載した。  ,寛政六年(一七九四)十月、藩校創設に関する触れが出された。,「城中講釈」が行われ、好学の八代藩主信明は萩生徂徠の弟子宇佐見灊水に師事し、講釈日を定例化するなど、藩校創設,藩校創設はこれを継承した九代藩主寧親の代の一大事業であったと言えよう。  
通史編2(近世1) (預手形の性格)

御用達商人から藩庁が責任を持って発行して欲しい旨の願書があり、さらに同所が巡見使の宿となるので、年末には旧藩校稽古館
通史編3(近世2) (学官の職掌)

「国師」は総司の学官名であり、藩校全体を総括するのがその職掌である。
通史編3(近世2) (津軽永孚)

津軽永孚、山崎図書以下の学校御用懸は昌平坂学問所や熊本藩校時習館(じしゅうかん)を範とし、図面や資料を
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

信明の学校構想 藩校創設の機運は好学の八代藩主信明(のぶはる)の治世から高まってきた。,それに応えるべく諸藩で藩校が設置されていったが、信明はこうした時代の趨勢(すうせい)に鋭敏に対応していこうとした,定信は熊本藩主細川重賢に私淑し、学校を人材養成のための組織的な施設として位置づける考え方を熊本藩校時習館
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から,また一方では城下茶畑町に私塾「麗沢(れいたく)堂」を開き、藩校から閉め出された子弟を広く教育した。
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

また、藩校の教師である学頭などが派遣軍に組み込まれており、藩校の開設を蝦夷地警備との関連でとらえる必要
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

このような事実を考え合わせると、寛政八年(一七九六)の藩校稽古館(けいこかん)の創設に伴い、しばらくして
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

藩校稽古館学士取扱。父は仲好(なかよし)で実は兄。国学者・歌人。
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

文武局であるが、これは旧軍政局が発展的に拡大した部局で、軍事だけでなく、文芸の涵養、人材育成といった藩校,局内は知局事の下に議事という補佐を置き、それとは別に藩校や局中の風紀取り締まりに当たる監察が置かれた。
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

享和期以降の積極的な新田開発、殖産興業、そして寛政末年以降の藩校の展開は、これら課題への対応として位置
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

藩校稽古館の流れをくみ、明治期の北方教育界において輝かしい光芒(こうぼう)を放った東奥義塾は、一時その
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

津軽家は菊池の功に報いて、菊池が創立し、藩校を継承する東奥義塾の経営資金として毎年三〇〇〇円を援助した
通史編3(近世2) (新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)

……  568     一 文運の推移 ………………………………………………  568     二 藩校
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

しかし、前職をみると、彼らは江戸で兵学を学んだり、藩校の官吏として勤め、軍事実務に明るい者であって、この
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

 第五節 学芸の隆盛 ……………………………………………………………………………  八三九   一 藩校
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました