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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(信枚の築城)
大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀
田
(よした)門、現存しない)になった,大量に必要だったため、森山内蔵助(もりやまくらのすけ)に命じて、外浜(そとがはま)の小国(おぐに)・
蟹
田
,(現東津軽郡
蟹
田
町小国と
蟹
田
)において、南部領から鉄吹きの者三〇人を呼び寄せ鋳鉄をさせている。
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
尖頭器 10 〃 沢里 八戸市沢里 尖頭器 11 〃 中宇
田
東津軽郡今別町浜名字中宇
田
スクレパー,・スポール(削片) 13 〃 尻高(4) 東津軽郡平館村今津字尻高川 石刃 14 〃 大平山元Ⅱ 東津軽郡
蟹
田
町大平字山元,舟底形石器・尖頭器・ナイフ形石器ほか 15 〃 大平山元Ⅲ 東津軽郡
蟹
田
町大平字山元 尖頭器・彫器・,削器・細石刃核ほか 16 〃 相野山 北津軽郡金木町喜良市字相野山 尖頭器ほか 17 〃 前
田
野目 五所川原市前
田
野目字鞠,立川型有舌尖頭器 23 〃 長者久保 上北郡東北町長者久保 円鑿形石斧・尖頭器ほか 24 〃 大平山元Ⅰ 東津軽郡
蟹
田
町大平字山元
資料編1(考古編)
(45.十和田火山噴出物Ⅰ)(とわだかざんふんしゅつぶつ))
45.十和
田
火山噴出物Ⅰ)(とわだかざんふんしゅつぶつ) 十和
田
火山の噴出物は、溶岩・角礫凝灰岩・火山灰流凝灰岩,十和
田
火山の発達史は久野(1953)が最初であるが、ここでは生出・中川・
蟹
沢(1989)に基づいて記述,第2期活動は最盛期に当たり、膨大な量の軽石・火山灰を放出、十和
田
カルデラが形成された。,第3期活動では、約10,000年前に十和
田
カルデラ南部に新期火山が形成された。,第4期活動では、約2,000年前に十和
田
b降下火山灰が、約1,000年前には十和
田
a降下火山灰が堆積し / 45.十和
田
火山噴出物Ⅰ)(とわだかざんふんしゅつぶつ)
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
袰月浦鷹野崎大筒台場 4 2 平舘浦番所 2 3
蟹
,
田
1 1 5
蟹
田
大筒台場 3 2 蓬
田
村,大間越・深浦・鰺ヶ沢・十三・今別(現東津軽郡今別町)・
蟹
田
・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地,
田
10
蟹
田
台場 1 3 油川浦番所 5 青森出張陣屋 5 20 25 青森大筒台場,大筒台場は、大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・
蟹
田
・青森の各所
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
金井ヶ沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・鯵ヶ沢浦(現同郡鰺ヶ沢町)・十三浦(現北津軽郡市浦村十三)・
蟹
田
,(かにた)(現東津軽郡
蟹
田
町
蟹
田
)・青森浦(現青森市)・七ツ石崎(現北津軽郡小泊村)・鷹野崎(現東津軽郡今別町袰月,筒 一 〇 〇 目 筒 五 〇 目 筒 沖 打 船 青 森 3
蟹
,このため津軽弘前藩では、秋
田
藩佐竹家に対して加勢を依頼した。,一九九二年 秋
田
県教育委員会刊)。
通史編2(近世1)
(材木移出)
なかでも、材木の積み出し湊としては、十三川湊(とさかわみなと)・中師(ちゅうじ)(現東津軽郡
蟹
田
町)・,もちろん、この材木が十三湊から移出されたとはいえないが、十三川湊・中師(
蟹
田
)・今別・小湊のいずれかの,さらに、寛文九年(一六六九)十二月二十二日には、
蟹
田
と十三の材木奉行に対して、役銀を徴収して町人請負による,これによって、十三・
蟹
田
での材木切り出しと、各湊への材木集積はより効率的になった(ただし、この後藩は、
資料編1(考古編)
(〈参考文献〉)
〈参考文献〉 Ⅰ)生出慶司・中川久夫・
蟹
沢聰史編(1989) 日本の地質2「東北地方」.共立出版(株,)大沢穠(1962) 5万分の1地質図幅「弘前」及び同解説書.地質調査所 Ⅲ)北村信・岩井武彦・多
田
元彦,鈴木隆介(1972) 岩木山の変位・地理学評論 Vol.45,No.11 Ⅵ)小高民夫・中川久夫・野
田
浩司,早坂祥三(1970) 黒石地域の地質について(青森-29号).青森県商工部 Ⅶ)小貫義男・三位秀夫・島
田
昱郎,・竹内貞子・石
田
琢二・斎藤常正(1963) 青森県津軽十三湖地域の沖積層.東北大学地質学古生物学教室邦文報告
資料編1(考古編)
((1)縄文時代草創期)
縄文時代草創期 本県では、昭和46年(1971)秋、先端を磨いて鋭利な刃部を構成している1個の局部磨製石斧が、
蟹
田
中学校,の一町
田
教諭を経て県立郷土館に寄贈された。,その石斧の出土した
蟹
田
町の大平山元Ⅰ遺跡は、郷土館の事業として昭和50年(1975)11月上旬に調査が
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新
田
)・広須両組,(広須・木造新
田
)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・
蟹
田
・今別・十三・鰺,広須両組では二二二人が地域ごとに広須組の隊と木造新
田
組の隊に分けられていた。,野内では一〇〇人前後、
蟹
田
では八〇人ぐらいずつ二手に分けて動員することが想定された。
通史編1(自然・原始)
(大平山元遺跡)
大平山元遺跡
蟹
田
町に所在する大平山元(おおだいらやまもと)遺跡はⅠ・Ⅱ・Ⅲの三遺跡に分かれている。
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
日 風害 領内(特に西海岸) 家屋倒壊,難船など 享保2(1717) 4月20日 火災
蟹
田
,に大きな被害 3月30日 火災
蟹
田
116軒焼失 享保18(1733) 流行病 領内, 2月27日 火災
蟹
田
町中残らず焼失 7月18~19日 津波 領内西海岸沿岸, 2月 8日 火災 今別 58軒焼失 2月20日 火災
蟹
田
150,桜
田
村(さくらだむら)(現五所川原市桜
田
)・広
田
村(ひろたむら)(現五所川原市広
田
)・半
田
村(はんだむら
資料編1(考古編)
(1.旧石器時代の住居跡)
青森県における旧石器時代の住居跡として明白なものは未発見であるが、
蟹
田
町の大平山元Ⅱ遺跡において3地点
資料編1(考古編)
(1.旧石器時代の概観)
であったが、昭和24年(1949)夏、相澤忠洋(ただひろ)(1927~1989)により、群馬県桐生市郊外の新
田
郡笠懸,形石器・スクレパー等各種石器… 東通村・物見台遺跡 (青森県立郷土館提供) 局部磨製石斧…
蟹
田
町,・大平山元Ⅰ遺跡 (青森県立郷土館提供) 石器出土状態…
蟹
田
町・大平山元Ⅰ遺跡 (青森県立郷土館提供
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
「国日記」嘉永二年(一八四九)十二月二十三日条によれば、和徳(わとく)村(現市内和徳町・東和徳町・野
田
・,表町(おもてまち)・大町(おおまち)・駅前町・駅前・城東中央・稲
田
(いなだ))の長之の妻せんは、新里(,にさと)村(現市内新里)惣左衛門の子の常と密通した後に、夫を捨てて隣りの秋
田
領へ常と一緒に逃げることにした,せんは子供の万之を連れては秋
田
領で奉公もできかねるので、捨てようかと考えていると常に相談したところ、常,三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場(おおば)(鰺ヶ沢・深浦・十三(とさ)・青森・
蟹
田
通史編1(自然・原始)
(位置と地勢)
北は津軽海峡を隔てて北海道の渡島(おしま)半島に相対し、東は太平洋、西は日本海に面し、南の西半分は秋
田
県,東 経 141度41分 西端点 西津軽郡深浦町大字深浦字久六 東 経 139度30分 南端点 三戸郡
田
子町大字夏坂字花木,陸奥湾に入る川に、青森市内を北流する堤川、津軽半島東部の新城(しんじょう)川、
蟹
田
(かにた)川などがある,下北地域では、下北山地の東部を緩やかに南流して陸奥湾に入る
田
名部(たなぶ)川や川内(かわうち)川がある,さらに、主要な湖沼には、県境の十和
田
(とわだ)湖、太平洋側に小川原(おがわら)湖沼群、岩木川の河口に十三
通史編4(近・現代1)
((一)北洋の出稼ぎ農民たち)
出稼ぎ農民たち 本県における大正・昭和の労働運動指導者で、最も広く大衆に愛された人物に黒石出身の柴
田
久次郎,明治三十四年生まれの柴
田
は、黒石尋常高等小学校を卒業後、北洋漁業における悲惨な労働状況を体験して社会主義,まさに小林多喜二の「
蟹
工船」の体験であった。 ,このうち、
蟹
工船を含むロシア領へは三分の一が出かけ、期間中の収入は、北海道、樺太が一人約七〇円に対し、,カムチャツカ、
蟹
工船は高収入の代わり、労働が過酷だった。
通史編1(自然・原始)
(積雪)
青森一一二センチメートル、五所川原一〇九センチメートル、
蟹
田
八〇センチメートル、弘前八六センチメートル,97 200 1968/2/14 34 1979/ 1/31 48 1981/12/20
蟹
,
田
80 410 12/16 3/22 98 245 1936/2/28 34 1932/ ,八甲
田
山系周辺では雪深く、かなりの面積で五メートル以上を占めるといわれる。 ,また、この日に中村川・岩木川流域でも水
田
埋没二五〇町歩などの融雪・洪水害が発生している。
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
津軽弘前藩には寿都(スッツ)から瀬
田
内(セタナイ)(現瀬棚郡瀬棚町)を与えられたが、警備兵配置と越冬の,特に青森の油川(あぶらかわ)から
蟹
田
(かにた)方面の上磯(かみいそ)と呼ばれる沿海地帯の状況は深刻で、,天保の大飢饉で荒廃した農村の中には、いまだ再耕作されずに荒廃している
田
畑が数多くあったが、藩の大きな悩,特に青森・深浦・
蟹
田
では生産労働力人口(十六歳~五十九歳の者)の一〇パーセント以上が出稼ぎに出ており、,0 0 0 7 野 内 823 407 231 5 2.2 416 221 6 2.7 2.5 8
蟹
通史編2(近世1)
(糧米確保)
また、「国日記」によると、七月十三日に、青森・鰺ヶ沢・十三・今別・
蟹
田
・深浦・野内に対して、米価が高騰,さらに、八月十三日には、武
田
源左衛門・神源太夫から対策案が提出され、認められることになった(「国日記」,今別 59.5(25.0) 52.6(22.5) 64.5(27.0) 58.8(24.5)
蟹
田
,次に、移出入であるが、九月二十四日に、秋
田
・酒
田
方面と、南部とへ米の買い付けの使者が派遣されることが決定,特に、秋
田
・酒
田
での米買い付けに重点が置かれ、秋
田
で合計一万石を買い付けた。
資料編1(考古編)
(〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)
土師籾痕 9 八幡崎遺跡(1) 尾上町八幡崎字宮本 遺構外 〃 把手付土器 11C 10 前川遺跡
田
舎館村
田
舎館字前川,集落(低地) 〃 10C~11C 20 蝦夷館(蓬
田
)遺跡 蓬
田
村蓬
田
防御性集落?,〃 21 蓬
田
大館遺跡 〃 蓬
田
字宮本 防御性集落 〃 10C後~11C 籾圧痕の土製支脚,22 小館遺跡 〃 阿弥蛇川字汐干 集落 〃 10C~ 23 上小国遺跡
蟹
田
町小国字館下 採集,〃 30 油川遺跡 〃 西
田
沢字浜
田
〃 〃 10C後~11C 31 大平D地点遺跡 東通村尻屋字大平
通史編3(近世2)
(施行小屋の設置と犯罪防止)
施行小屋の設置と犯罪防止 天保年間(一八三〇~四四)は五年を除き天候不順で凶作となった(盛
田
稔『近世青森県農民,から同十年までの被害については、死亡三万五六一六人、他散四万七〇四三人、斃馬・失馬共一万九〇八九匹、廃
田
九四八四町,布子(ぬのこ)(木綿の綿入れ)などを藩の御蔵および城下・農村・九浦(深浦・鰺ヶ沢・十三(とさ)・青森・
蟹
田
,翌年になると、秋
田
領から津軽領に飢えをしのぐため逃れてくる者がしだいに多くなってきた。,彼らには一人一日当たり混ぜものを加えた一合五勺の粥を炊き出し、秋
田
領の出身地・一族の名前・本人名などを
通史編1(自然・原始)
(日降雪量と年合計降雪量の分布)
青森六五センチメートル、五所川原六〇センチメートル、
蟹
田
三四センチメートル、弘前四〇センチメートル、黒石四五,平均標高の高い八甲
田
山地の最多は一五メートルを超え、多雪地帯は西部白神山地で一〇メートルを超えると思われる,青森平野は、東部、西部の山地に挟まれ、南方には八甲
田
山があり、風上側の南西側に袋状の津軽平野南部地域がある,西寄りの季節風は袋状の津軽平野南部で拡散し、それが八甲
田
山系の風上斜面側を迂回する収束帯を形成するという
通史編2(近世1)
(上方廻米)
上方廻米の量が増加し、五万石という目標が設定されたのは、一つには領内における新
田
開発の進展によるものであろう,「手船(てぶね)」は、十三・今別・
蟹
田
の湊が中心となって造られており(これらは、木材・鉄の産地でもある
通史編1(自然・原始)
(県内の月別降水量)
津軽地域全体の年間降水量分布をみると、八甲
田
山地から十和
田
カルデラ帯にかけてが一八〇〇ミリ以上で県内最多域,年降水量は、札幌が一一〇〇ミリ(北海道地域平均九〇〇~一二〇〇ミリ)、八戸の一〇〇〇ミリよりやや多く、秋
田
の,143 166 80 63 45 1016 季節的にみると、夏六月~八月の降水量分布では、八甲
田
山地,冬十二月~二月の降水量はほとんど降雪によるもので、八甲
田
山地を中心とした山岳地帯で五〇〇~六〇〇ミリと,また、月降水量の七〇ミリ以下の極小月をみると、黒石一月~五月、鰺ヶ沢・市浦二月・三月、深浦二月、
蟹
田
三月
通史編1(自然・原始)
(月別平年気温の都市別比較)
近隣地の年平均気温は、八戸一〇℃、秋
田
一一℃、仙台・酒
田
一二℃となっている。,津軽半島陸奥湾側の
蟹
田
から北部で九℃くらいである。
資料編1(考古編)
((3)縄文時代前期)
昭和31年(1956)と翌年に発掘が行われた三沢市早稲
田
貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1,わってd式という名を用いることが多い)の4分類に加えて、昭和33年(1958)には大和久震平により秋
田
県森吉町狐岱,遺跡出土の下層d類土器が2分類(d類と狐岱式)され*37、さらに、同年の八戸市(調査当時は三戸郡大館村)
蟹
沢,昭和45年(1970)になると西津軽郡森
田
村床舞の石神遺跡調査を契機として、円筒下層式土器は各形式土器,例えば関東地方などでは、現在の海岸線(東京湾の隅
田
川河口)から直線で約70kmの奥地にまで海水が浸入していたらしく
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の甕棺墓)
年(1933)11月、青森市久栗坂の山野峠(さんのとうげ)遺跡でも同様のものが発見され、東北大学の喜
田
貞吉,甕棺の中から人骨も発見され、喜
田
は、これに対し笠井と同様な洗骨を伴った改葬を考えている*233。,①…昭和30年(1955)8月に早・慶両大学連合調査団により、八戸市妙の
蟹
沢遺跡で前期の円筒下層d式土器内,④…昭和46年(1971)8月に近接する堀合Ⅱ号遺跡から、青森山
田
高校の葛西励らは人骨の入った中期の最花式
通史編2(近世1)
(異国船打払令の発令と津軽弘前藩)
まず、海岸の防備は、この時期までに大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊・龍浜崎・鷹野崎・
蟹
田
通史編1(自然・原始)
(太平洋戦争終結後)
成
田
彦栄 (江坂輝彌氏提供) 音喜多富寿 慶応大学によるこれらの調査に対し、早稲
田
大学,)町の谷口平安時代竪穴住居跡を、十月には七戸町の成
田
券治が同町左組(さぐみ)ソガモリを、十一月には成
田
彦栄,の
蟹
沢(かにさわ)遺跡(八月)をはじめ、前年に続いて三戸郡名川町平虚空蔵(たいらこくうぞう)貝塚(八月,特に、
蟹
沢遺跡は早慶両大学の合同調査の形で行われ、これを契機として、前期末の円筒下層式土器がd1・d2,工藤正 (
田
舎館村教育委員会提供) 伊東信雄
通史編3(近世2)
(瀬戸師林兵衛による製陶)
窯跡は現在のところ①扇
田
(おうぎた)窯(現市内下湯口字扇
田
)②野際(のぎわ)(野木屋または野木和)窯(,現市内下湯口字扇
田
か)③青柳(あおやぎ)窯(同湯口字青柳)が挙げられる。,、ひょうそく(灯明器)、香炉、仏花器、油つぼ、らんびき、梅干甕(うめぼしがめ)、お歯黒(はぐろ)甕、
蟹
(,製品の印銘には扇
田
製・扇
田
・扇山・青柳・津軽青柳産・石岡・津軽などがあるが、多くは角印で丸印や変形印、
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
ここでは幕末の思想家・教育家として知られる吉
田
松陰(よしだしょういん)と、蝦夷地経営に深く携わった幕府役人,吉
田
松陰は、嘉永四年(一八五一)十二月、仕えていた長州藩の許しを得ないまま、遊学していた江戸をたって、,松陰が養子となった吉
田
家は、長州藩における山鹿流の兵学師範の家柄であり、この旅の主目的も兵学的立場における,同領に入る直前、秋
田
領小綱木(小繋(こつなぎ)村、現秋
田
県山本郡二ツ井(ふたつい)町)に宿泊した時、青森,村垣はこの日油川・奥内(おくない)・
蟹
田
を通り平舘に宿泊、翌二十二日、平舘を出立して同所の陣屋と台場の
通史編1(古代・中世)
([付図])
〃 〃 畑 〃 〃 17 町
田
遺跡 藤代字町
田
畑・宅地 〃 平安 18 独狐七面山遺跡 独狐字山辺,福村字早稲
田
畑・宅地 〃 平安・鎌倉 38 石川城跡 石川字大仏1の1、平山、寺山、小山
田
ほか 公園,畑 〃 〃 260 悪戸扇
田
窯跡 〃 字村元 〃 〃 江戸 261 扇
田
(1)遺跡 〃 字扇
田
〃,畑・水利施設 〃 弥生 266 前萢遺跡 〃 字前萢 畑 〃 縄文 267
蟹
沢遺跡,小沢字
蟹
沢 〃 〃 縄文・平安 268 広野遺跡 〃 字広野・御笠見 畑・宅地
資料編1(考古編)
(第1節 地質の概要)
図1 弘前地域の新第三系の地質図(生出・中川・
蟹
沢,1989,より転載) 津軽平野は、第四紀に,図2 津軽平野模式断面図 A:山
田
野層、B:高根礫層、C:出来島層、D:砂丘、YT:山
田
野段丘、TT:,の噴出と八甲
田
カルデラの形成(第2期)、そして後カルデラ火口丘*13群である北八甲
田
火山群の噴出(第3,また、同属の十和
田
火山は、周囲に標高約1,000~1,160mの外輪山を有する十和
田
カルデラとその南半部,なお、十和
田
火山及び八甲
田
火山起源の火砕流堆積物の一部が津軽平野へ流下し堆積しているのが確認されている
通史編1(自然・原始)
(第三節 注および引用・参考文献)
第三節 注および引用・参考文献 (1)安
田
喜憲 『環境考古学事始』 NHKブックス三六五 一九八〇年,-下
田
代納屋B遺跡発掘調査報告書』(青森県立郷土館調査報告〈考古〉一) 一九七六年 (15)江坂輝彌, 「岩手県西
田
遺跡」『探訪縄文の遺跡 東日本編』 有斐閣選書三三 一九八五年 (43)小畑厳 「秋
田
県鹿角市高屋館跡,(青森県埋蔵文化財調査報告書一七八) 一九九五年 (73)江坂・笹津・西村 「青森県三戸郡大館村
蟹
沢遺跡調査報告,」『石器時代』五 一九五八年 (74)岡
田
康博・小笠原雅行君の教示による。
資料編1(考古編)
((2)石器)
無茎鏃は、
蟹
田
町の大平山元Ⅰ遺跡から草創期の無文土器に伴って出土し*69、縄文時代の各時期を通じて増減
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
①縄文時代以前の遺跡・遺物の発見…昭和五十一年(一九七六)から三ヵ年にわたる県立郷土館の東津軽郡
蟹
田
(,では石神遺跡が開
田
工事に伴って発掘され、円筒土器直前に当たる深郷
田
式から前期の円筒下層式、中期の円筒上層式,の
田
舎館式土器期に造成された一〇枚の水
田
跡が発見された。,の蓬
田
(よもぎだ)大館遺跡(一九八一・八四・八六年金沢大学・早稲
田
大学発掘、十二~十三世紀=平安~鎌倉時代,昭和三十年(一九五五)八月、前述のように早慶両大学の調査団が八戸市
蟹
沢遺跡を発掘して、縄文時代前期末の
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
三代藩主信義は、寛永二十年(一六四三)に力士を連れて入封し、正保二年(一六四五)には抱え相撲の立
田
・沖,沖ノ石は江戸で病死したが、龍
田
は手柄を立て鬼龍
田
と呼ばれた。,後に五代藩主となる信寿の見物も予想されることから、葛西・成
田
の両名は四、五日前より広須新
田
へ出かけ、近在,しかし、富
田
町月行事長右衛門と石渡(いしわたり)の橋守長兵衛の秋
田
湯沢の力士一〇人、富
田
町月行事伝右衛門,・
蟹
田
村・石渡村・鰺ヶ沢港・舞戸村・白銀村・境松村の一三ヵ所で、興行主も御旗の者、町人・橋守・名主・庄屋
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
また
蟹
田
・野内・今別・十三・大間越の町奉行配下の同心が新たに命じられていることから(同前元禄九年二月十日条
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
また、塗師屋の中に津軽塗の祖といわれる池
田
源兵衛の名前がみえるのは注目される。 ,(一七九一)四月に人別調役が初めて任命され、人別・戸数は綿密に調査をするようになり、在方は持ち抱えの
田
畑,藩内にある鉄山は小国鉄山(現東津軽郡
蟹
田
町)、今泉鉄山(現北津軽郡中里町)、石川鉄山(現弘前市)が知られている
資料編1(考古編)
(-文献リスト-)
(1960) 秋
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県大館・花輪両盆地間山地の地質層序について.秋
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大学鉱山学部地下資源開発研究所報告,,・井上武(1961) 秋
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県北秋
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・鹿角両域の遠部層について.秋
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大学鉱山学部地下資源開発研究所報告,,グリーン・タフ時代〟の火成活動・地球科学,Vol.50-51,P.36-55 ◇65 生出慶司・中川久夫・
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沢聰史編,.地質調査所 ◇69 大沢穠・角清愛・平山次郎・盛谷智之(1961) 青森県津軽地方から秋
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県北秋
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地方,(1959) 青森県
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地区の地質.青森県の地質(石油)について,青森県水産商工部,2,P.1-4
通史編2(近世1)
(刑罰体系)
下手人(解死人とも書かれる)は首を刎ねてその死体を取り捨てるもので、死罪と異なるのは
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畑家財の欠所(けっしょ,)の大場(おおば)と称された領内の主要他は、九浦(くうら)すなわち鰺ヶ沢・深浦・十三(とさ)・青森・
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,規定の小項目第二〇では、鞭三〇以上の刑に処せられたもので、専ら利欲から行われた犯罪は、利欲の軽重により
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畑
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
C 村越潔 「永禄日記」『考古学ジャーナル』四三 一九七〇年四月 (2)菅江真澄 「栖家の山」『秋
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叢書別集, 菅江真澄集六』 一九三三年八月 (3)菅江真澄 「外浜奇勝」『秋
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叢書別集 菅江真澄集六』 一九三三年八月,滝沢馬琴等 『耽奇漫録』 吉川弘文館 上巻一九九三年十二月・下巻一九九四年二月 (7)松浦武四郎・吉
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武三編,津軽持子沢窯跡の調査」『考古学ジャーナル』七五 一九七二年十一月 (127)村越潔・新谷武 「青森県前
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野目砂
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遺跡発掘調査概報,青森県埋蔵文化財調査報告書二〇五) 一九九五年三月ほか (157)江坂・西村・笹津 「青森県三戸郡大館村
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沢遺跡調査報告
資料編1(考古編)
(〈注一覧…第2章〉)
3月 *8B 鎌木義昌 「福井洞穴」『日本古代遺跡便覧』 1973年9月 *9A 江坂・岡本・西
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,『愛媛県上黒岩岩陰』(日本の洞穴遺跡) 1967年3月 *9B 西
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栄 『愛媛県上黒岩岩陰遺跡』(探訪縄文,』(秋
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県文化財保護協会) 1959年6月 *38 江坂・笹津・西村 『青森県
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沢遺跡調査報告』(石器時代,・岡
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康博君の教示による。,*157 小山内寿一・岡
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康博 「木造町神
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遺跡出土の後北式土器について」(弘前大学考古学研究2) 1983
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