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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((一)衣服)

(一)衣服 武士の礼服については、すでに本章第一節一で述べてあるが、通常の礼服としては、長裃(ながかみしも,)・半裃(はんかみしも)・継裃(つぎかみしも)の三種類であった。  ,公式勤務の時には半裃と略服として継裃を着用し、日常家庭にあったり、くつろいだ時は、「裃を脱ぐ」という諺
通史編3(近世2) (日常勤務の服装)

国日記」宝暦六年(一七五六)十一月十七日条に、御目付(おめつけ)(大目付の指揮を受ける監察の官)以上は麻裃(,半袴と同じと思われる)を、それ以下は裏付裃を着用すべきことを申し付けられているのがみえる。  ,一七六八)十一月二十九日条によれば、月次(つきなみ)(藩主に月礼拝謁ができる御中小姓以上の藩士)以上は麻裃を,、それ以下は継肩衣(継裃と同じと思われる)と麻裃のどちらを着用してもよいことが知られる。  ,二、三の例を挙げたにすぎないが、「国日記」によれば文政八年までは登城に際して麻裃の着用例が圧倒的に多い
通史編3(近世2) ((一)衣服)

①長裃(ながかみしも)(長上下)――肩衣(かたぎぬ)(裃の上下(じょうげ)、色を異にしたもの)・長袴(,寛政二年では麻裃(あさかみしも)がほとんどである。,麻裃は長袴か半袴か不明であるが、『日本服飾史』によれば、裃の地質が麻のことである。  ,毎日家老と会って藩政について話を聞き決裁をしているが、この時の服装は継裃・麻裃(長袴か半袴か不明)が多,天明四年十二月十一日は麻裃から平服へ着替えており、翌五年正月二十二日には熨斗目麻裃から平服へ着替えているのがみえる
通史編3(近世2) (礼服)

礼服 儀礼用の衣服には裃(かみしも)と袴(はかま)がある。,寛政二年二月十一日条に記されている倹約令第二・三条には、郷士・手代・目見(めみえ)の許された者に対して、麻の裃は,なお裃の着用の時期については制約があり、寛保三年(一七四三)に、村役人層の農民に対して、藩主に直接ご挨拶,する(御目見(おめみえ))場合、年始や節句および祝言のおめでたいときの年四回のほかは、麻裃の着用は許されていない,以上のことから、裃・袴・羽織の着用は村役人層にのみ許可され、一般農民は禁じられていたのである。
通史編3(近世2) (礼服)

御中小姓頭と御中小姓は武官で、あとは奥向の役職、当番の御目付……大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻裃(,享保二年(一七一七)――常服半袴(藩主の一族・家老・用人・大目付)、常服麻裃(城中の諸番人) 宝暦三年,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者,○正月十五日(月次(つきなみ)の御礼日) 享保二年――小袖木綿・麻裃 宝暦三年――常服半袴(出仕の,者) 文政十一年――木綿服麻裃(御目見以上)ただし、熨斗目麻裃(用人以上)、常服麻裃(大目付)  
通史編3(近世2) (礼服)

礼服 藩政時代、武田家などの有力な町人に対しては、裃の着用が許された。,に対しては、藩主に御目見(おめみえ)する時や、年始や節句および祝言などのおめでたい時のほか、平常は麻裃の
通史編3(近世2) (学校落成式)

総司は染帷子(そめかたびら)に長袴の礼装で従者九人を、小司は染帷子に長袴で従者七人を、学頭は染帷子に麻裃(,あさかみしも)で従者三人を、添学頭は染帷子に麻裃で従者二人を従え、古の儒礼を再現する形で各々の定められた
通史編3(近世2) ((一)衣服)

袴地)・麻・絹製の裃(かみしも)か黒羽二重(くろはぶたえ)五ツ紋の羽織袴(はおりはかま)を用いており、,裃より略装となるのが羽織袴である。
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

三日、午前十一時すぎ麻裃を着用し毘沙門天(びしゃもんてん)を拝む。,七日、午前十時ころ麻裃を着用し霊殿を参拝。  ,十五日、正午すぎ藩政に関する決裁が終わった後に、麻裃に着替えて神拝。,十八日、午前九時すぎ麻裃を着用して霊殿を拝し、その後に神前へ拝礼。,二十一日、午前十一時すぎ麻裃を着用し神拝。
通史編3(近世2) (金木屋日記にみえる衣服)

その間に汗だらけになり、裃と帷子を脱ぎ、単物を着る。  七月七日、朝より浴衣を着る。  ,礼服では六月二十九日に耕春院へ家老大道寺と一緒に参詣した際は裃を着用していた。
通史編3(近世2) (入学式)

学官は六ツ時(午前六時ころ)に、入学生は六ツ半時に、裃の礼装で打ち揃い、厳粛な雰囲気の中で式次第が進行
通史編3(近世2) (日常着)

⑤重立った町人の場合――年頭・五節句などの時には裃の着用を許可する。,ただし、藩当局へ出入りしている諸町人は、これまでどおりに裃を着用してよろしい。  
通史編3(近世2) ((一)衣服)

ただし一部の農民は、儀礼用として婚礼・葬礼・祭礼などに裃を着用している(河鰭実英『きもの文化史』一九六六年
通史編3(近世2) ((一)年中行事と生活)

節分、年男、裃を着て大豆を煎り、午後六時ころより撒(ま)き始める。 二十九日、門松を立てる。
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

殿(しんがり)は裃をつけた桐壺権左衛門が勤め、その壮観なことは前代未聞であったという。  ,藩主より行事善三郎に麻裃、力士には赤飯が与えられ、相撲場所は、夏は東、秋は西を上位と定め、御旗の者・寄
通史編3(近世2) (城下での生活)

三日、昨日で江戸からお供をした者たちの休みが終わったので、麻裃でお礼に登城。
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