• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 11件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

一二代承昭の襲封 弘前藩最後の藩主となった津軽承昭(つぐあきら)は、安政二年(一八五五)一一代順承の,図41.津軽承昭  ただ、こうした経緯で行われた承昭の襲封に反対する勢力も当然存在した。 / 一二代承昭の襲封
通史編2(近世1) (信義の襲封)

信義の襲封 二代藩主信枚(のぶひら)は、寛永八年(一六三一)一月十四日江戸屋敷において四十六歳で死去,この時一緒に襲封(しゅうほう)のお礼をした津軽万吉は、のちに津軽黒石家の祖となる津軽十郎左衛門信英(のぶふさ / 信義の襲封
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

信政の襲封と黒石分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No. / 信政の襲封と黒石分知
通史編2(近世1) (意見書提出の奨励)

の最中の天明四年(一七八四)閏一月、七代藩主信寧(のぶやす)が没し、嫡男信明(のぶはる)が八代藩主を襲封,天変地異に悩まされ続けた時代であったが、先述した宝暦改革を除けば積極的・効果的な対応がなされず、信明襲封時,このような中で襲封した信明は、そのリーダーシップの確立を図ろうと「自筆書付」を多発した。,襲封直後の天明四年(一七八四)三月の「自筆書付」は、次のようにその趣旨を説明し、意見書の提出を奨励している
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

弘前藩の副藩主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,から「副藩主」的立場への移行は、蝦夷地警備という大前提の中で、幕府からの公役遂行のために、寧親の本藩襲封
通史編3(近世2) ((一)衣服)

信明が襲封後初めて入国したのは天明四年(一七八四)八月二十日であるが、同年九月一日、二日には、熨斗目長袴,で各座敷へ出座し、継目(つぎめ)(襲封)の礼を受けている。
通史編3(近世2) ((二)食事)

ただし、襲封直後の記録によって朝飯は一汁一菜、夕飯は平椀(ひらわん)(平椀に盛った料理)もしくは焼物一種
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

表10は、藩主承昭(つぐあきら)が襲封した安政六年(一八五九)当時から明治元年までの中央政局の流れであるが
通史編3(近世2) (居開帳)

寛政三年(一七九一)、九代藩主津軽寧親は襲封後の野駆(のがけ)の途中、久渡寺に立ち寄った時に開帳が行われた
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

「惣領之筋目」を主張し、信枚の襲封を「庶子之国」となったとして非難している。
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

信明は天明四年(一七八四)二月に二十三歳で襲封(しゅうほう)し、同年八月二十日に初入国して以来、参勤交代
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました