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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (城門番所の警備)

廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭
通史編4(近・現代1) (公園開設)

第六、前各条修築ノ後ハ漸ヲ以テ四ノ北郭ノ旧庭地、西ノ郭池水ヲ修繕シ、衆人ノ遊園ニ適スルノ設ケヲナサントス,第九、三ノ郭、四ノ北、西ノ郭中遊園ニ適セズ単ニ荒蕪ニ属スル場所又ハ小柴立等ニテ公益ヲナサザル場所ニハ、
通史編2(近世1) (信枚の築城)

がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅が城下に移され、城の内部の二の丸・三の丸・西の,郭(くるわ)・袰(ほろ)町に重臣や上級武士の屋敷割りが行われた(資料近世1No.二八三・二八四)。
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

桜は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

近代になり、中村良之進は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(,曲輪Ⅴ(西ノ郭)は現在は水田である。
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの
通史編3(近世2) (館神)

その後、弘前城西の郭に移り、昭和五十一年(一九七六)、弘前八幡宮境内へ移転した(篠村正雄「弘前城の館神
通史編4(近・現代1) (公園の払い下げ)

同月、内山覚弥の尽力によって実現した桜の植栽が本丸・二の丸・西の郭一帯に行われた。
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

と街道 写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西ノ,郭・南曲輪というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

寛永末年ころ作成されたとみられる「津軽弘前城之絵図」によれば、城内は本丸・内北の郭・西の郭を除いては「
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

本丸西下にある西の郭には、南西端に未申櫓が描かれているが、これは現存しない。
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

貞享元年(一六八四)五月十八日、信政は城内西の郭で申の下刻(午後五時ころ)より相撲を観戦した。
通史編3(近世2) (城下での生活)

それによれば、西ノ郭にある木を伐採するために、枝つき(ママ)に三組から一人ずつ合計三人を選び、二本柳孫左衛門
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

午後四時、西の郭へ行くのに際し、番人を引き取らせ、居間の庭から側近の者ばかりを伴って出かけ、夕暮れころ
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