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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (前田光世の記録)

前田光世の記録 特筆に値する前田光世の偉大さを記録したのが、旧制弘前中学時代の友人薄田斬雲(うすたざんうん,千余回に亘って全部勝った記録なのである。,従来幾多の日本柔道家が海外に進展したのであるが、誰人も未だ前田氏の如く華華しい記録を作つたものはなく、,恐らく今後とても之を凌駕する記録は出ないのではないかと思はれる。 / 前田光世の記録
通史編1(自然・原始) (地層に記録された過去の出来事)

地層に記録された過去の出来事 弘前市内にある高い建物から、遠くの景色を眺めてみよう。,そこに分布する地層には,1億年以上も前からの大地の生い立ちが記録されている。  ,構成している地層には、約二億年も前にアジア大陸の東縁のプレート境界域にどのようなことが起きていたのかが記録,数千万年から百万年前後までの、海に覆われていた時代から陸地に移り変わる時代にかけて起きた、古い出来事が記録,この節では、山地や丘陵をつくっている地層や岩石中に残された記録を読み解くことによって、第三節よりもさらに / 地層に記録された過去の出来事
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

見直したい弘前市の記録 みちのくの小京都と呼ばれる城下町であることから、弘前市には古い和風建築が立ち / 見直したい弘前市の記録
通史編2(近世1) (四 御用格(ごようかく))

寛政二年(一七九〇)ころまでの記録を集めた御用格を通称「寛政本」といい、ほかに「第一次追録本」(寛政三年,より文政七年〈一八二四〉の記録を集めたもの)、「第二次追録本」(文政八年より弘化四年〈一八四七〉の記録,を集めたもの)、「第三次追録本」(嘉永元年〈一八四八〉より安政六年〈一八五九〉までの記録を集めたもの)
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

寛文元年(一六六一)から慶応四年(=明治元年〈一八六八〉)に至る、約二〇〇年間の津軽弘前藩政に関する公式記録,弘前城中で記録されたものを「御国(おくに)日記」といい、江戸の上屋敷(かみやしき)で記録されたものを「,寛文八年から慶応四年の記録。両者とも御用留などを整理し、清書したものである。
通史編2(近世1) (二 近衛家雑事日記(このえけざつじにっき))

二 近衛家雑事日記(このえけざつじにっき) 近衛家の家司が日々記録した、同家の公的な用務日記。,十七世紀後半から幕末維新期に至る約二〇〇年間の膨大な古記録。,同家の公的な用向き、幕府、各大名、各公家との贈答・往信、近衛家内部の動静など、多岐にわたる記事が記録されている
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

弘前藩庁日記の開始 寛文元年(一六六一)六月三日、津軽信政の弘前初入部の記事をもって「弘前藩庁日記」の記録,「弘前藩庁日記」には、弘前城中の記録である「国日記」と江戸屋敷の記録である「江戸日記」とがある。,、寛文八年(一六六八)五月十一日、信政が参勤で江戸に到着した日から開始され、慶応四年(一八六八)まで記録,この日記は、延宝三年(一六七五)に定められた「日記役勤方之定」(資料近世1No.七八七)において、記録,「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録していかなければいけないと
通史編5(近・現代2) (国際試合で活躍)

昭和四十二年の日本学生陸上競技大会一五〇〇メートルで優勝したタイム三分四九秒二が県内最高記録なのである,には、国民体育大会三〇〇〇メートル障害で優勝しているが、この年に出した八〇〇メートルの一分五一秒四の記録,もまた、県内最高記録である(いずれも平成十七年四月現在)。,すなわち、四〇年近くにわたってその記録が破られていないのである。
通史編2(近世1) (九 永禄日記(えいろくにっき))

永禄元年(一五五八)から安永七年(一七七八)までの民間の記録。,『みちのく双書』第一集として一九五六年に復刻された永禄日記は、「記録」(横山本 青森市横山武正氏蔵)を
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品 弘前藩津軽家が所蔵した美術工芸品については比較的記録が残っていて、その,その後は大正以後二度の津軽家蔵品売立目録や津軽家の記録などで行方が追える。,まず、江戸藩邸に所蔵されていた書画骨董については必ずしもすべてが判明していないが、個別の作例で重要な記録,蔦細道図屏風」(萬野美術館蔵)は明治になって弘前に運ばれたようだが、当時相当痛んでいてその修理の状況が詳しく記録,ほかには英(はなぶさ)一蝶や狩野常信など信寿ゆかりの絵師たちの絵、雪村や狩野元信、永徳らの古画屏風などが記録
通史編5(近・現代2) (市制施行百周年)

弘前市の記録と記憶を伝える諸施設を、追手門広場に集約したことが特徴である。,弘前市の心臓部であるこの地に、市の記録と記憶を生み出す拠点が作られた意義は非常に大きい。,市制百周年で追手門広場に象徴される地域の記録と記憶を育む拠点が完成した。,いつの日か、市の記録と市民の記憶である歴代の公文書や、市民が保管している貴重な書簡や記録類などの私文書
通史編5(近・現代2) (三浦雄一郎の活躍)

エベレスト初のスキー滑降に成功(資料近・現代2No.七〇二)したこと、そして昭和五十年三月、三浦雄一郎の記録映画,なお、平成十五年三月、三浦は七十歳で世界最高峰であるエベレスト山に登り、エベレスト登頂最高年齢記録を樹立
通史編1(自然・原始) (完新世の噴火)

岩木火山の歴史時代における火山活動の記録については、『津軽の岩木山』(宮城、一九七一)に記述されていて,○ 1863 ○ ○ ○  これによると、最初の噴火記録,一七〇九年から約七〇年間の休止期をはさんで、一七八二年以降に再び水蒸気爆発に関する噴火記録が多くなり、
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

この折に、天守に収蔵されていた、家臣団から提出させて保管していた文書・記録類が灰燼(かいじん)に帰したとされる,これらの動きから、信枚が何らかの形で歴史の記録を試みていた可能性が考えられる。  ,信政は信枚の時期に収集した古記録類を、譜代の家臣取り立ての資料とするために江戸に運搬した。,「御代々御日記」がどのような性格の史料なのか明らかにできないが、藩主の年代記のような編年体の記録の存在,・浪岡八幡宮・百沢宮(ひゃくたくのみや)をはじめとする寺社の縁起や棟札、また「御郡謂書」・「万蔵寺古記録
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

の編纂の意図・方針として、為信以前の津軽の歴史についても対象とし、それを受けて為信の津軽平定の過程の記録,を編纂し、さらにもう一つの編纂の力点として、シャクシャインの戦いの記録を収集・記録しようとしたことがわかる,また、各家に伝わる記録類は信じられないことも多いが、いたずらにそれを削除することは避けたと述べている。,さきにみた史料収集を命じる触書からも、この寛文蝦夷蜂起について津軽弘前藩の記録を残すことが、編纂の方針,時期に藩の支配体制が確立し、それが幕府からの要請に応じて十分機能し、幕藩制国家の防衛に果たした役割を記録
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

乳井茶臼館が記録に登場するのは、天正七年(一五七九)のことである。,『津軽一統志』『封内事実秘苑』『永禄日記』など近世の記録は、いずれも、このとき「秋田の比山勢」が侵入して,ちなみに、これら近世の津軽側記録では、「比山勢」を「大光寺左衛門の二子六郎・七郎兄弟」とするが、「比山,その後の乳井茶臼館については記録がなく明らかでないが、戦国動乱の終了とともに廃城になったものと思われる
資料編1(考古編) (あとがき)

今回刊行に漕ぎ着けることのできた『資料編1』は、自然に関する分野と、文字による記録のない原始時代、ならびに,古代・中世の僅少な記録を遺構・遺物により補った「考古編」と、古文書・古記録を史料とする「古代・中世編」
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

石川大仏ケ鼻城)」 「前代歴譜」『津軽一統志』『館越日記(『永禄日記』一本)』など、近世に書かれた記録,右の記録は津軽側のものだが、南部高信の津軽平定と石川居城は、南部側の記録でも元亀三年(一五七二)の事件,この「大仏ケ鼻城」構築までの間、かつての「石川楯」の地がどのように使われたかは、記録がなく分からない。,これは近世の津軽側の記録が伝える内容で、南部側の記録では、高信は天正九年(一五八一)に死去したことになっているが
通史編1(古代・中世) (防御性集落登場の背景)

防御性集落登場の背景 中央の記録に東北地方での蝦夷の反乱がみえなくなった、一見平和なこの時代は、しかしそれとはうらはらに,反して、この時代のこの地域の社会情勢が、必ずしも安定的なものではなかったこと、また北の世界が、中央の記録
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

浪岡北畠氏は、中世末から近世初期に書かれた諸記録からは、戦国期には「御所」と呼ばれており、その所領は現在,の浪岡周辺を中心に、岩木川下流域から外浜の北半分に及んでいたといい、しかも松前家の家譜である「新羅之記録,写真198 『新羅之記録』  したがって、為信の浪岡攻略は、安藤氏との関係を悪くするものであり、
資料編2(近世編1) ([口絵])

津軽為信霊屋(弘前市・革秀寺) 為信の霊屋は初め死亡した翌年の慶長13年に立てられたとの記録,高照神社蔵) 弘前藩庁日記(弘前市立図書館蔵) 寛文元年から慶応四年に至る約二〇〇年間の藩の公式記録,日記には国元の記録である「国日記」、江戸屋敷の記録である「江戸日記」があり、国日記三二九七冊、江戸日記一二一八冊
通史編1(自然・原始) (一 はじめに)

特に、この傾向は文字による記録の出現以前を研究の舞台とする考古学に強かった。,それは、地下に埋没している遺構・遺物などの埋蔵物に光を当て、記録とは異なった資料を基に、歴史を組み立てようとする
通史編3(近世2) (本迹院)

本迹院 本迹院(ほんじゃくいん)は、「旧記録」によれば、明暦二年(一六五六)、日運によって創建された
通史編3(近世2) (南栄院)

南栄院 南栄院(なんえいいん)は、「旧記録」によれば、承応二年(一六五三)に池田左太夫が寄進し、日浄
資料編1(古代・中世編) (第2章 北方関係非編年史料)

本将軍   (三) 熊野那智大社先達旦那史料   (四) 地誌   (五) 織豊期の宣教師の記録
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

-次代への証言 特別号』青森空襲を記録する会 1995年 写真100 同 上 写真101 「和徳村役場, 昭和二十年以降寺社宗教綴」弘前市蔵 写真104 『写真集 青森大空襲の記録-次代への証言 特別号』,青森空襲を記録する会 1995年 写真108 『よみもの沿革史』弘前市立桔梗野小学校 1973年,写真210 『写真で見る弘前大学の50年』弘前大学 1999年 写真240 『写真集 青森大空襲の記録,-次代への証言 特別号』青森空襲を記録する会 1995年 写真242 弘前市立郷土文学館協力 写真
通史編3(近世2) (受源院)

受源院 受源院(じゅげんいん)は、「旧記録」によれば、延宝七年(一六七九)、美濃国出身の日淳が創建したという
通史編4(近・現代1) (自他楽(じだらく)会の結成)

自他楽会の活動の記録は現在弘前市立図書館に保存されているが、積み重ねると三〇センチ以上の高さになり、彼,らがいかに会の活動を丹念に記録していたかがわかる。
通史編5(近・現代2) (第九回夏季オリンピック・アムステルダム大会出場・井沼清七)

相手は世界記録を持つアメリカとスヰス、ハンガリー、トルコ等で日本軍は井沼、大澤、南部、相澤のメンバーで,弘中のゴルゴンからとったもので、各校のOBと在校生からなる陸上競技クラブの対抗戦のこと)の百メートルで記録,した一〇秒九は青森県内での最高記録として、昭和五十年まで破られることはなかった。
通史編2(近世1) (二六 高岡霊験記(たかおかれいげんき))

高岡霊験記(たかおかれいげんき) 高照(たかてる)神社祭司の後藤兵司が、宝暦改革の顛末(てんまつ)を記録
通史編1(自然・原始) (大雨・豪雨と災害)

第一位は四二二ミリで、昭和三十三年(一九五八)八月十一日に中津軽郡西目屋(にしめや)村尾太(おっぷ)で記録,六月十七日午前六時から七時にかけて、八甲田ロープウェー(標高一三一〇メートル)で一三〇ミリという集中豪雨を記録,各注意報・警報の基準値は、青森県における過去の災害記録との対応で求めたもので、この時代の災害気候値の一面
通史編3(近世2) ((一)寺社の開帳)

江戸では幕府の寺社奉行へ願い出て、六〇日の長期間にわたるものには許可が記録され、短期間のものは記録されなかった
通史編3(近世2) (瓦の製造)

前述の絵図と同時期の記録ではないが、享保十三年(一七二八)四月の記録では、瓦屋小屋懸(こやかけ)四間(
通史編3(近世2) ((三)日常生活の諸相)

このような毎日の生活を赤裸々に記録した、農村生活の実態が知られる日記は現存しない。
通史編3(近世2) (満行院)

満行院 満行院(まんぎょういん)は、「旧記録」(同前No.四一〇)によると、延宝五年(一六七七)に越後出身
通史編3(近世2) (礼服)

これらの記録では、町人や農民の礼服については不明といわざるをえない。
資料編2(近世編1) (【解説】)

旧八木橋氏所蔵史料、岩見文庫などの所収文書、津軽一統志や封内事実秘苑などの編纂史料類、寛文元年(一六六一)に記録,江戸日記)などの日記類、国立国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書、さらには東京大学史料編纂所所蔵の文書・記録類,これらの文書、記録、日記類をもって項目を立て、第一節は、「領内支配と支配機構の整備」と題して、津軽領における,具体的には、同藩の出兵状況や幕府との関係が窺える史料、並びに領内のアイヌ民族である狄人の動向を記す記録,新田開発の成果を掌握する目的で実施されたのであって、本節では津軽領で行われためざましい新田開発の展開を記録
通史編5(近・現代2) (イタコ)

早い記録では『永禄日記』明和九年(一七七二)の条に「巫女」の呼称で書かれている。,国の「記録作製などの処置を講ずべき無形の民俗文化財(選択)」を昭和五十四年十二月に受け、報告書『巫女の
通史編3(近世2) (感応寺)

感応寺 感応寺(かんのうじ)は、「旧記録」によれば、三森村(みつもりむら)(現市内)の鎮守観音堂が衰退
通史編5(近・現代2) (総合国土開発審議会の発足)

第八条 審議会事務局は議事の経過及び議決の結果を記録し、これを保管する。,(総合開発審議会事務局『第四回国土総合開発審議会議事速記録』一九四九年)  総合国土審議会は、重要問題
通史編3(近世2) (ねぷたの起源と変遷)

弘前城下で運行された「ねぷた」についての最古の記録は、「国日記」享保七年(一七二二)七月六日条にみえている,津軽の眠り流しがしだいに一般化して、灯籠祭として形式が整ってきたのは、「国日記」その他の記録に「ねぷた,天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)までに記録したという『奥民図彙(おうみんずい)』(資料近世,文政期(一八一八~三〇)以降の記録であるが、『弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄』(資料近世2七九一頁)によれば
通史編3(近世2) (門の構造と屋根の材料)

門の構造と屋根の材料 門の構造については記録がなく不明といってよいが、前掲「御家中屋鋪建家図」(資料近世,100.薬医門 図101.冠木門  次に屋根を葺いた材料については、門の構造と同様に記録
通史編3(近世2) (江戸中期の漆工芸)

江戸中期の漆工芸 元禄に入ると、漆工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。  ,顔料(がんりょう)のほかに、砥の粉(とのこ)、地の粉(じのこ)および吉野紙と施設の改善を求めたことが記録
通史編3(近世2) (富田御屋敷跡における製陶)

仕込金一〇〇〇両や職人扶持申し出等の記述はあるが、築窯・焼成に関する記録は認められない。
通史編3(近世2) ((三)陶磁器)

ここでは「国日記」の陶磁器関係の記録によって、その他関係史・資料の記述も取り入れ、領内における陶磁器の,および大沢(おおさわ)(現市内大沢)・富田(とみた)御屋敷跡(現市内御幸(みゆき)町)などにおける製陶の記録,―明治四年〈一八七一〉山林方書付留・同諸稟底簿(しょりんていぼ)〈弘図津〉)については、関係記録および
通史編1(自然・原始) (《引用・参考文献》)

年間の異常気象』 気象庁(一九七〇)   『下北の気象五〇年』 むつ測候所(一九八六)   『災害記録
通史編2(近世1) (一 時慶卿記(ときよしきょうき))

天正十九年(一五九一)から寛永十六年(一六三九)にかけての記録で、全七二冊。
通史編3(近世2) (塵芥捨ての実態)

塵芥捨場の位置が知られる記録は少ないが、塵芥捨場は城下を流れる岩木(いわき)川・土淵(つちぶち)川のほとりか,これらの塵芥はどのように処理されたのか記録がなく不明である。  
通史編5(近・現代2) (学校建築・公共的建築)

明治十八年(一八八五)に大成小学校が新築されたが、それらの小学校が洋風を採り入れたものであることを示す記録, 明治二十一年(一八八八)に至り、時敏小学校が新築された際の写真に、ようやく洋式を模したらしい姿が記録
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

そのため仲買人の存在も記録されている。,一八四六)の時点で集荷に当たっていたのは、領内の漆守(漆守がいない地区では庄屋)三〇名で、樹液についての記録
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