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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) ((三)県内初の詩結社「パストラル詩社」)

(三)県内初の詩結社「パストラル詩社」 県内で最初の詩の結社である「パストラル詩社」(資料近・現代1No,幸次郎はそのメンバーの詩に懇切丁寧な添削を加え、指導している。,八年の第一詩集「田園の秋」から、十一年の「五月の花」まで七冊の作品集が刊行されている。,写真250 福士幸次郎詩碑除幕式(弘前公園・昭和32年) / (三)県内初の詩結社「パストラル詩社」
通史編5(近・現代2) (県詩壇の重鎮・一戸謙三)

上京中に福士幸次郎の詩集『太陽の子』に感動し、翌年の「パストラル詩社」に参加することになる。,常に県詩壇のトップとしてその指導力を十全に発揮した。,方言詩集『ねぷた』所収の「弘前(シロサギ)」(資料近・現代2No.六四七)は、郷土絶賛の詩で、五木寛之,をして嫉妬させたほどの郷土愛にあふれた詩である。,なお、平成九年には方言詩「麗日(オデンキ)」が中学国語二年の教科書に採用されている。 / 県詩壇の重鎮・一戸謙三
通史編5(近・現代2) (方言詩誌「芝生」創刊)

方言詩誌「芝生」創刊 高木恭造の方言詩集『まるめろ』の影響を強く受けた植木曜介(うえきようすけ)(資料近,・現代2No.六六三)や一戸謙三らによって、方言詩誌「芝生(カガワラ)」(同前No.六五八)が創刊されたのは / 方言詩誌「芝生」創刊
通史編5(近・現代2) (方言詩集『まるめろ』)

方言詩集『まるめろ』 高木恭造(たかぎきょうぞう)(明治三六-昭和六二 一九〇三-一九八七 青森市),すでに青森日報社を退社し、満州医科大学で学んでいた高木恭造は、十四年には第三詩集『鴉(からす)の裔(すえ,)』で第一回満州文話会作品賞(資料近・現代2No.六四八)を受賞するなど、医学を学びながら詩作にも励んでいた,終戦後に満州を引き揚げ、弘前市で眼科医院を開業、以後精力的に朗読会を開き、方言詩の魅力を全国に広げることになる / 方言詩集『まるめろ』
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

それが契機となり、「パストラル詩社」が結成されることになる。  ,四月、詩誌「北方詩風」を創刊する。,七月には北方詩風社詩話会を開き、一戸玲太郎、桜庭芳露をはじめ、今官一ら「わらはど」のグループや、郷土音楽研究家,昭和五年には「座標」の詩の部の編集委員を務めている。昭和五十年(一九七五)、死去。
通史編5(近・現代2) ((二)福士幸次郎の影響)

紅緑を知ることによって千家元麿、人見東明らの自由詩社に加わり、詩作を始める。,以後、詩人として名を成すことになる。  ,尾上町出身の詩人・清藤碌郎(せいどうろくろう)(大正一五- 一九二六-)は福士幸次郎の研究を続けていて,詩「鍛冶屋のポカンさん」(明治四十五年七月)のことである。,写真249 福士幸次郎  福士幸次郎が第一詩集の口語自由詩『太陽の子』(大正三年四月)(資料近・
通史編5(近・現代2) (二つの源流)

この二つが、明治維新期の内外の危機状況に伊東梅軒の海防思想、古川他山の頼山陽と南宋陸遊詩愛好を生み、それが,、少年時代、弘前下町の古川他山塾において、「風濤自靺羯南来(ふうとうまっかつのみなみよりきたる)」の詩を,この詩は残念ながら一行しか伝わらないが、恐らく頼山陽の「蒙古来」に範をとった詩であろう。
通史編5(近・現代2) (桜庭芳露の活躍)

翌年八月、かねてより師事していた福士幸次郎の激励を受けて、後藤健次、一戸玲太郎(謙三)らと「パストラル詩社,昭和三年、『桜庭芳露第一詩集』(資料近・現代1No.七四〇)を刊行する。
通史編5(近・現代2) (不当な評価を是正したい)

官一の文学へのこの姿勢と、その知的で詩情にあふれる文体は、例えば、昭和四十年の半年間、雑誌「自由」に連載,周知のように、大塚甲山は三十二年という短い生涯のなかで、しかも、詩作を始めてから一三年間で、実に九七〇,篇の詩を残している。,官一は、この一冊の詩集も残さなかった不幸な詩人を「正当に是正したい」ゆえに小説化を試みたようである。
通史編1(古代・中世) (境界の地外浜)

これについては古くから、『詩経』小雅(北山)の「溥(普)天之下、莫レ非二王土一、率土之浜、莫レ非二王臣一,写真124 『詩経古註標註』 目録を見る 精細画像で見る  『詩経』についての諸注釈書によれば
通史編1(古代・中世) (エミシとは)

に載せられた久米歌(くめうた)(神武天皇の戦勝に際して舞われた久米氏による久米舞に伴う歌)に、「愛瀰詩(,写真5『日本紀標註』巻之五 「愛瀰詩」の表記
通史編3(近世2) (山崎蘭洲)

幼いころより詩文に才を発揮し、十九歳で江戸に出て修学すること三年、学成って帰藩し、宝暦六年父の跡を継いで,門弟達の編集による詩文集「蘭洲先生遺稿」五巻五冊が文化二年(一八〇五)津軽稽古館蔵活版として刊行された,「蘭洲先生遺稿」には、「文」(詩文、文学)と「道」(道徳、道学)とが分かれ、「二道」となってしまった当世
通史編5(近・現代2) ((四)その他の作家・編集者)

明治四二-昭和四五 一九〇九-一九七〇 弘前市)は少年時代から社会運動に熱心だったが、昭和十一年に発表した詩集,『貧時交』で詩壇に登場し、アナーキズム詩人として話題を呼んだ。
通史編5(近・現代2) (人生の師・福士幸次郎と出会う)

中央詩壇の重鎮だった福士幸次郎が、国語教師として着任した。,この純粋孤高の天才詩人は、たちまち塾生たちを魅了した。,編輯人(へんしゅうにん)の一人に名を連ねた官一は、恩師・幸次郎の「マアテルリンク詩篇」で雑誌の冒頭を飾
通史編5(近・現代2) (用の美と津軽民芸)

相馬貞三の本質は詩人だと彼を知る人はいう。彼は陶淵明を好んだ。詩風は河井寛次郎に似る。,死の一週間前に詩集『朝雲』のあとがきに「俯仰四恩の重きに思いを馳せる」と書いてペンを擱(お)いた。
通史編3(近世2) (喜多村校尉政方)

他に詩文集に「開雲堂文稿(かいうんどうぶんこう)」一巻、「開雲堂詩集(かいうんどうししゅう)」三巻、「,こうとうかいどうきこう)」一冊、和歌に「四十八詠」、随筆に「寒燈随筆(かんとうずいひつ)」一冊があり、詩文
通史編5(近・現代2) (故郷へ帰る)

さらに、詩人の葛西美枝子(かさいみえこ)主宰の詩誌「波」に夫婦で参加するまでに恢復したのである。,今官一の文学は知的で詩情にあふれていて、そして私生活においても一貫した美学を追い求めた。
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

は、郷土作家研究会員の舘田勝弘の言を借りれば「滅び行くアイヌ民族の象徴として北見旅雁の生涯が一大叙事詩として,知的で詩情あふれる今官一の文体が優れているからである。  ,また、詩人の山田尚(やまだしょう)は太宰がキリスト教へ向かった遠因を官一にみているが、興味深い考察である
通史編5(近・現代2) (二 近代文学の成立(大正の文学))

短詩型文学はもとより、小説、評論などの分野での隆盛ぶりも目立つ。,「黎明」はいくつかの同人雑誌を統合し、従来の短詩型文学から散文に重点を移動したところに特徴がある。
通史編5(近・現代2) (北門を継ぐ)

(金子鷗亭)青森支部として弘玄書道会を結成、福士夕湖(ふくしゆうこ)ら多くの女性書家を育て、その近代詩文,福士夕湖は、中隠亡き後弘玄書道会の代表として一門の指導、そして近代詩文、かな、漢字と多面的に活躍、青森県文化振興功労賞
通史編5(近・現代2) (故郷(くに)を思う心)

大正八年(一九一九)、弘前の文学青年一戸謙三(いちのへけんぞう)らがパストラル詩社を結成(~大正十二年, この理論の上に高木恭造(たかぎきょうぞう)の『まるめろ』や一戸謙三の『弘前(シロサギ)』などの方言詩の,その岩木山は、陸羯南が詠んで津軽人士に膾炙(かいしゃ)している詩編「名山名士を出だす 此語久しく相伝う
通史編5(近・現代2) (新派歌集を出版)

青森市で発行された短歌誌「東北」に、さらに大正二年、弘前で創刊された短歌誌「創作」に加わり、次いで「自由詩」
通史編4(近・現代1) (出家と禅画)

この記録は、昭和十年、釈宗演の詩と禅忠画による詩画帖『水雲行』として出版された。
通史編5(近・現代2) (弘高祭とねぷた)

ねぷたは、弘前市の夏の風物詩であり、弘高生も情熱を傾けて存続させてきた。
通史編3(近世2) (学校造営)

建物全体は均整美のとれた左右(東西)対称を意識して造られており、西に十四歳以下の生徒が孝経・論語・詩書,文選(もんぜん)の素読・手習いに使用する「志学堂」を配し、両翼をつなぐ形で史書を学習する「博習堂」、詩書
通史編3(近世2) (稽古館の文化事業)

刊行年を欠くが「帝範」大本一冊、「唐詩選」半紙本二冊、「皇朝史略」半紙本六冊、「続皇朝史略」半紙本二冊
通史編5(近・現代2) (川村杜山の自殺)

しかし、詩人の大塚甲山(おおつかこうざん)(明治一三-明治四四 一八八〇-一九一一 上北町)が、杜山の
通史編5(近・現代2) ((三)北の文学連峰の現在)

高木恭造や一戸謙三の方言詩集「津軽の詩」をはじめ、長部日出雄の直木賞受賞作品『津軽世去れ節』(昭和四十八年
通史編3(近世2) (慈雲院)

九年、温湯(ぬるゆ)(現黒石市)へ湯治に出かけ、薬師堂(現薬師寺、黒石市)に参詣して監守秀国に会って漢詩をつくり
通史編5(近・現代2) (職業は寺山修司)

作家というよりは、俳句(資料近・現代2No.六五一)、短歌、詩(同前No.六五〇)、映画、演劇、小説、
通史編5(近・現代2) (紅緑の少年時代)

在学中、校友会誌「校友」(同前No.七二〇)に文章、和歌、長詩を掲載していることは注目に値する。
通史編5(近・現代2) (今官一の文学の魅力)

今官一の文学の魅力 弘前市出身の直木賞作家今官一(明治四二-昭和六一 一九〇九-一九八六)の、知的で詩情
通史編5(近・現代2) (「草を刈る娘」について)

この作品にみられる牧歌的詩情は、まごう方なく「わが日わが夢」の郷土詩人のものだ。,ユーモラスで明るく健康な庶民的倫理の世界が、作者の詩情と描かれた現実とのみごとな融合によって、読者の胸,なぜなら、平松は「郷土詩人」、すなわち〈作家〉石坂洋次郎が津軽の風景を鮮やかに描写していることを明示しているからである
通史編5(近・現代2) (音楽団休)

「弘前詩と歌の会」は平成四年に解散したが、弘前市在住の声楽家たちが二〇年にわたって特色ある演奏会を開催,イタリア、フランス、ロシアなど諸外国の詩を原語で朗読し、文学者の解説に続いて歌うという活動であった。
通史編3(近世2) (教科目)

経学に関していえば、教科書には当初は「孝経」(孔安国(こうあんこく)伝)、「論語」(太宰純古訓)、「詩経
通史編5(近・現代2) (新進気鋭の評論家)

四十四年、詩誌「ユリイカ」の創刊に加わり、五十年には「現代思想」の編集長に転ずる。
通史編5(近・現代2) (戦争を挟んで)

行書は集字聖教序外三種、草書は智永千字文、ほかに和漢朗詠集、宣示表、雲飛経、また、鑑賞資料として李嶠詩、
通史編4(近・現代1) (弘中生気質)

このとき五年生であった斎藤吉彦(民俗学者、詩人)が、その遺稿集『那妣久祁牟里』の「鶏肋雑記」のなかに「,空気のなかで質実剛健の弘中の校風にも微妙な変化が起こりつつあったが、開校以来初の音楽会が開かれたり、詩歌
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

そして当時また、天皇家が一〇〇代で滅亡するという、「野馬台詩」の「百王説」が流布していた。
通史編5(近・現代2) (わらべ歌)

じであり、戦後の弘前子ども会(後述)の活動から生まれた《春の鐘》(蘭繁之(らんしげゆき)〔本名・藤田重幸〕詩、
通史編4(近・現代1) (初めての常設館・慈善館)

それが夕空を震わせて、高くなり低くなりして、市内の相当遠くまで響きわたり、一種独特の風物詩が醸し出されていった
資料編2(近世編1) (第二節 乳井貢の思想【解説】)

天明四年(一七八四)許されて弘前塩分町に閑居し、詩文俳諧を楽しみ、傍ら数学を講じて余生を終えた。  
通史編5(近・現代2) (独立不羈の陸羯南)

写真244 陸羯南漢詩
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

「地方主義」を標榜していた福士は、口語自由詩の詩人としてすでに著名であったが、講師としての給料が高すぎるから
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

実際これらの外箱やその蓋裏には、信寿作の漢詩を後藤仲龍が書き破笠が造作したことが記されている。
通史編5(近・現代2) (金賞に輝く合唱)

二十二年に部誌『すばる』が創刊され、その創作活動を通じて詩人、歌人、劇作家として名をなした者が多い。
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

高揚した彼らは山野を跋渉して雲井達雄や間山滄浪の漢詩を高吟した。
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

には荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号は灊水(しんすい))とその門人本田章三(号は鉄洲、大村藩儒)から学問、詩文,と綱紀の粛正を促し、学問の真の意味は「人倫五倫之道」を知って躬行(きゅうこう)実践することにあり、「詩文章
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

文政七年諸国を行脚し、江戸に入って俳人大窪詩仏(おおくぼしぶつ)の名に対して、自ら句仏と号を改めた。
通史編4(近・現代1) (ランプと写真)

彼自身明治初年に写真を撮り、その写真の自像に題した詩の一節に、「泰西伝二奇器一、写レ真如二合符一、山川及人物
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