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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽の唐糸伝説)

時頼は唐糸の菩提を弔うため護国寺を再建させ、毘沙門天は鎌倉へ持ち帰り、代わりに木造の毘沙門天像を護国寺,なお右の伝説にみえる藤崎護国寺については、本章第三節第二項に詳しい。
資料編1(古代・中世編) (一 銅鐘)

この鐘は、もと藤崎にあった護国寺に寄進されたもので、銘には執権北条貞時の法名「崇演」の文字が含まれている,「嘉元鐘」が寄進された護国寺は、藤崎町藤崎の北西にあった。,護国寺は後に満蔵寺となり、慶長年間(一五九六~一六一五)、弘前藩の寺院政策により西茂森町の禅林街に移され
通史編3(近世2) (万蔵寺)

「曹洞諸寺院縁起志」には、北条時頼が衰退していた午堂教院を臨済宗護国寺に改めたとか、霊台寺に改めたなどと
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

護国寺は、堂教院→霊台寺→護国寺と名を改め、臨済宗から改宗して曹洞宗の満蔵寺となった。,長勝寺の「嘉元鐘」は、もと護国寺にあった。,この天台宗から真言宗への改宗を伴う久渡寺に次いで伝えるのは、藤崎町の護国寺の旧跡の満蔵寺である。  ,執権時頼の開基と伝え、当該地の「唐糸」伝説をもとどめるこの護国寺は、史料的制約の多い中世寺社のなかで、,次に、この鎌倉幕府と護国寺との史的かかわりを中心にして、北奥津軽と鎌倉幕府の間に展開して宗教史的な様相
通史編1(古代・中世) (「嘉元鐘」)

集古十種』長勝寺鐘銘文  元来この鐘は、鎌倉建長寺流の禅宗寺院で関東祈禱所でもある、格式の高い藤崎の護国寺,藤崎や護国寺については、すでに唐糸にまつわる時頼廻国伝説のところでも述べたが、鎌倉幕府による当地方支配
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

今有デ二何面目一而再見二、二此人一哉ト、自抱レ石投レ水、不レ堪ヘ二最明寺哭泣スルニ一、因而為レ之建ツ二護国寺一焉,薦メンカ其冥福一、弘長二年、継キ二絶タル旧跡一、興シテニ廃レタル名藍一而建テ二一精舎ヲ一、号改メテ二護国寺,、かつて寵愛してやまなかった当該地出身の唐糸のことを想うあまり、廃れていたこの「靈臺寺」を再興して「護国寺,の悲恋史話が北条時頼の廻国伝承とセットをなして語り継がれ、しかもこの両者を切り結ぶクライマックスが「護国寺,この時頼の廻国と臨済禅院の護国寺建立が、前にみた幕府の「禅密主義」仏教政策の現実的反映の産物であることは
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

この「嘉元鐘」とも称される梵鐘は、もと藤崎村護国寺にあった。,前にも触れたように、この貞時の祖父時頼が弘長二年(一二六二)、津軽田舎郡藤崎に霊臺寺を復興して護国寺と,のち、この護国寺を蘭渓道隆のよる建長寺の末流として、関東祈禱所化した。,銘文中の「当寺 住持 伝法 沙門 徳煕」の当寺とは護国寺であり、沙門徳煕とは春容徳煕のことであって、道隆,このように、北条貞時は得宗家の専制化の道を、津軽の護国寺においても具現化したのである。  
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

この綱吉政権下での幕府財政は、将軍綱吉の奢侈(しゃし)と護国寺(ごこくじ)・護持院(ごじいん)等の造営
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

十三世紀、鎌倉の北条氏は、弘前に隣接する藤崎に壮大な禅寺「護国寺」を営み、津軽得宗領支配の拠点としたし
通史編3(近世2) (居開帳)

海蔵寺では、唐糸御前ゆかりの護国寺の本尊で、最明寺入道(北条時頼)が信仰した毘沙門天像を、安永元年(一七七二
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

つは、古代の坂上田村麻呂とセットに考えられる神社の創建と天台宗寺院の造立と通底する、かの執権時頼による護国寺
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

弘和二年(一三八二・北永徳二)二月二十一日、そへ、黒石郷新里の年貢一〇貫文を死後「唐糸前の御寺」(藤崎護国寺
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

弘和二年(一三八二・北永徳二)二月二十一日、そへ、黒石郷新里の年貢一〇貫文を死後「唐糸前の御寺」(藤崎護国寺
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