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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一)十月、豊臣秀吉
通史編3(近世2) (乳井貢)

彼の経歴とその思想については通史編2第四章第一節三で述べたとおりであるが、ここでは彼の豊臣秀吉と赤穂浪士
通史編2(近世1) (一 伏見杉板の賦課)

一 伏見杉板の賦課 天正十九年(一五九一)九月の九戸一揆鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、津軽為信の領地,御鷹」は、同領内で手厚く保護され、その上で献上道中を組んで日本海沿岸の大名領を経由して上方へ運ばれ、豊臣秀吉
通史編2(近世1) (鷹献上による豊臣政権との折衝)

際して鷹を献上しており、なかでも天正十七年(一五八九)十二月二十四日と推定される、南部右京亮へ宛てた豊臣秀吉朱印状,南部右京亮は為信を指し、豊臣秀吉は遠方からの鷹献上であるから、道中で鷹を損じることがあってもそれは不問,図4.蒼鷹  天正十八年(一五九〇)正月十六日と推定される津軽左京亮へ宛てた、豊臣秀吉の花押を据,の次男で、天正十一年(一五八三)に尾張国清須(きよす)城主、翌十二年(一五八四)、徳川家康と同盟して豊臣秀吉
資料編2(近世編1) ([口絵])

(本文史料232・233号) 霊屋内部 天正十九年六月二十日 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛,(本文史料三三号) 天正十九年ヵ十月晦日 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛 (本文史料四一号
資料編2(近世編1) (『志学幼弁』十巻)

巻九の「雑問」中の豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士への糾弾は痛烈であり、乳井の真骨頂が遺憾無く発揮されている
通史編2(近世1) (一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)

一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り 天正十八年(一五九〇)三月一日、豊臣秀吉は京都をたち、小田原
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

天正十七年八月二十日 前田利家書状 (本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

しかし、天正十八年(一五九〇)七月二十七日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直(のぶなお)が,豊臣秀吉はこのような状況に対し、天正十八年七月から行われた奥羽仕置の際に、和賀・稗貫・南部領の仕置については
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

福島正則の改易 福島正則は尾張の住人福島市兵衛正信の長男で、母は豊臣秀吉の伯母木下氏と伝えられている
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

りょうちかたさんようのとし)」ということで領内一様に算用を命じたところ、浅利氏は妻子を捨て、突然上洛し「上様(うえさま)」(豊臣秀吉
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

天正十七年(一五八九)十二月二十四日付の豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)の宛先では為信を「南部右京亮,「貞享書上」は、徳川家の発給文書が対象となるという通達であったが、家によっては、織田信長・豊臣秀吉などから
通史編3(近世2) (「天地の大用」)

この点で注目されるのは、乳井の、豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士に対する痛烈な批判である。
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

鷹献上システムの成立 天正十九年(一五九一)十月晦日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四一
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

信直の為信に対する私恨はこの段階でも消えうせていたわけではなかったのであるが、私戦という行為はすでに豊臣秀吉
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

これ以後、為信は一挙に津軽一円の領有化へと向かうことになり、天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉によって公式
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

河出書房新社刊 一部改変して掲載 8 南部利昭氏蔵 盛岡市中央公民館写真提供 9 二戸市教育委員会蔵 10 豊臣秀吉朱印状, 林原美術館蔵 28 佐賀県立名護屋城博物館蔵 29 暗門奇勝 青森県立郷土館蔵 30 同上 31 豊臣秀吉朱印状,伏見桃山御殿太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣朝臣秀吉公御城並大小名御屋舗之図 福岡市博物館蔵 40A 同上 40B 同上 40C 同上 41 豊臣秀吉朱印状,秋田藤太郎宛 文禄4年11月5日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 42 豊臣秀吉朱印状写
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀」を命じ、違反者は成敗すべきことを,●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直に上洛の路次安全をはかることを告げる。,●天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞する。,●天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞するとともにその領土支配を承認する。,●天正十八年(一五九〇)五月一日、小田原在陣中の豊臣秀吉、大政所に手紙を送り、関東奥羽仕置のことを述べる
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

編年史料 (天正十七年~明暦二年) ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下,●天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、朱印状を下し、南部右京亮為信の鷹献上を感謝する。,●天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、津軽為信へ判物を下し、弟鷹の献上を賞し、ついで境目を堅固,●天正十八年(一五九〇)七月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、南部内七郡を安堵する。,●天正十八年(一五九〇)七月、豊臣秀吉、奥羽両国へ禁制を下付する。
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

藩政前期為信 津軽地方の統一は、津軽氏の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され
通史編3(近世2) (神事能)

づけた「新嘉丁」の笛、聖徳太子作の龍王の面・元利作の悪尉代の面、孫次郎作の白玉の面など能面二八七面、豊臣秀吉
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

伏見築城と奥羽大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

天正十九年(一五九一)十月晦日付けと思われる、豊臣秀吉が為信に鷹献上を命じ、沿道へ献上道中支障なきように
通史編2(近世1) (刀狩り)

刀狩り 豊臣秀吉は、会津到着に先立って、天正十八年(一五九〇)八月七日、陸奥国南部の岩瀬郡長沼(いわせぐんながぬま
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

慶長元年二月、浅野長吉は、豊臣秀吉の家臣佐々正孝に対して、秋田氏と浅利氏の紛争の停戦を命じるよう指示を
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

このような「外構」で有名なものとしては、織田信長の清洲(きよす)城や、豊臣秀吉によって作られた大坂城などを
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

そのため奥羽の諸大名は豊臣秀吉に臣従するといっても、実際にはこれら集権派か分権派の大名や奉行らを取次としていくことを,図41.伏見作事杉板に関する豊臣秀吉朱印状  しかし津軽氏は、この伏見作事板を慶長二~四年分廻漕
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

図1.豊臣秀吉画像  関東惣無事令は、北条氏を中心とした北関東の諸大名間の紛争をその対象としていた
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

天正十九年六月二十日、豊臣秀吉は、奥州奥郡の仕置(一揆鎮圧)のための陣容・進路、そして、進軍の方法を指示
通史編3(近世2) (能楽)

豊臣秀吉は四座へ一〇〇〇石程度の配当米を与えて保護した。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

第一次朝鮮出兵の際、文禄二年(一五九三)三月十日付の豊臣秀吉朱印状(東京帝国大学編纂兼発行『大日本古文書
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

           南部大膳大夫とのへ (盛岡南部家文書) 図31.南部信直へ杉板伐採と廻漕を命じる豊臣秀吉朱印状
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

それが、慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉の死を契機に噴出し、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いは、その矛盾
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

ただ、のちに豊臣秀吉をはじめ、豊臣秀次、織田信雄(おだのぶかつ)といった豊臣政権の有力者が、「南部右京亮
資料編2(近世編1) (【解説】)

なお資料編1の最終条は、天正十八年(一五九〇)五月一日、豊臣秀吉が関東・奥羽仕置の見通しを大政所(おおまんどころ
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

図10.為信に対し九戸一揆の成敗を命じた豊臣秀吉朱印状  浅野長吉が南部信直の家臣東朝政(ひがしともまさ
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

一五九二)三月十三日、名護屋に集結させた一六万の兵を九軍に編成して朝鮮に渡海することを命じた(北島万次『豊臣秀吉
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…………………………… 奥瀬文書 340 ●天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀,… 秋田藩採集文書「奈良岡惣五郎家蔵文書」 352 ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直,………………………… 秋田家文書 355 ●天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、大浦為信の,………………………… 津軽家文書 356 ●天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上,………………………… 津軽家文書 358 ●天正十八年(一五九〇)五月一日、小田原在陣中の豊臣秀吉、大政所
資料編1(古代・中世編) (出典・典拠一覧(第一章・第二章))

と戦国社会』 ヴァリニャーノのローマ宛報告書 ………………………………………………… 岡本良知氏著『豊臣秀吉
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