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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(一 伏見杉板の賦課)
賦課 天正十九年(一五九一)九月の九戸一揆鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく)職を甥の
豊臣秀次
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
この紛争は、かつて奥羽仕置の際に秋田の検地奉行を勤めた
豊臣秀次
の家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏,浅利氏の突然の上洛計画といい、
豊臣秀次
の重臣木村重茲の調停といい、浅利氏はすでにこのころより中央政権内
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
図5.黄鷹献上に対する謝辞を述べた織田信雄の書状 為信は織田信雄だけでなく、秀吉の甥の
豊臣秀次
,天正十八年四月十日の
豊臣秀次
の花押を据えた判物(資料近世1No.一〇)は、南部右京亮の鷹献上に対する謝辞,伊達政宗によれば、徳永寿昌は
豊臣秀次
に仕える「出頭第一」の人であり、関白秀吉へも直接ものごとを言上できる,なお秀吉は、天正十九年(一五九一)十二月、甥の
豊臣秀次
へ関白職を譲るに際して、同月二十日、四ヵ条の誓書,図6.
豊臣秀次
画像
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
秀吉は、「奥州奥郡(おうしゅうおくぐん)」の仕置のため、徳川家康・
豊臣秀次
(ひでつぐ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ,四月十四日の書状によれば、「津軽・仙北口よりハ北国」の大名衆が兵を進め、葛西・大崎方面には徳川家康と
豊臣秀次
,浅野長吉は、信直方の八戸政栄(まさよし)と東朝政に六月十五日付の書状によって、家康と
豊臣秀次
が七月上旬,さたけよしのぶ)と宇都宮国綱(くにつな)が三番、越後の上杉景勝が四番、江戸大納言徳川家康が五番、そして尾張中納言
豊臣秀次
,そういう状況のなかで、八月九日、為信は、奥羽再仕置の総大将に任じられ二本松に陣取った
豊臣秀次
から、仕置奉行
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
その他の「悪逆人共」はすべて首をはねられ、首数一五〇余りがこれまた
豊臣秀次
のもとに届けられた(『浅野家文書
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
ただ、のちに豊臣秀吉をはじめ、
豊臣秀次
、織田信雄(おだのぶかつ)といった豊臣政権の有力者が、「南部右京亮
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十八年(一五九〇)四月十一日、
豊臣秀次
、南部右京亮為信へ判物を下し、角鷹の献上を賞する。,●天正十九年(一五九一)八月九日、
豊臣秀次
、津軽為信へ判物を下し、津軽仕置に蒲生氏郷等を派遣することを,●文禄元年(一五九二)正月、関白
豊臣秀次
、条書を下し、唐入りにつき大名の名護屋参陣を命じる。,●文禄二年(一五九三)五月二十五日、関白
豊臣秀次
、津軽為信へ朱印状を下し、名護屋在陣の労をねぎらう。
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正十八年(一五九〇)四月十一日、
豊臣秀次
、大浦為信の鷹献上を賞する。
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
… 石井三庵政満覚書・北信愛覚書・松岡西庵書上 357 ●天正十八年(一五九〇)四月十一日、
豊臣秀次
、
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