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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(町家の遺構)
代々清兵衛(せいべえ)を襲名して、津軽弘前藩内の藁工品(わらこうひん)や荒物(あらもの)を扱ってきた
豪商
,石場家は、黒石の
豪商
高橋家(たかはしけ)住宅(現黒石市中町、重要文化財)とともに現存する町屋の遺構の双璧
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
行在所には本町の
豪商
金木屋の邸宅が充てられた。,このようにして、弘前の行在所に充てられた
豪商
金木屋の邸宅跡(現弘前大学附属病院構内)、行幸があった弘前裁判所
資料編3(近世編2)
(●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財)
●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財 東長町の
豪商
であった中田屋嘉兵衛(賀兵衛)が、天保の
通史編2(近世1)
(騒動の要求と結果)
販売に当たっては米改めを受けた
豪商
たちの保有米五二六九俵のうち、五〇四俵が騒動直後に補助米・夫食(ふじき,)米となり、一五〇〇俵が小売米として売り出され、相場との値段の差額は、彼ら
豪商
の負担とされたのである。
通史編3(近世2)
(帰田法(きでんほう)とは)
弘前藩の帰田法とは、領内の地主・
豪商
の所持する田地の内、一〇町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価
通史編5(近・現代2)
(昭和弘前市民の一側面)
写真12 角は宮川 地主小作制度に象徴される農山村社会の深刻な問題は、地主の豪農・
豪商
化をもたらし,じ時代・同じ日本の社会に、一方で身売り女性を出さざるを得ない農山村社会がありながら、もう一方で地主や
豪商
,青年将校たちが五・一五事件や二・二六事件を起こした要因の一つも、東北地方の貧しい農山村社会が、地主・
豪商
,その一方で地主や
豪商
たちは、第一次世界大戦後の好景気をばねに、大資本をもとにした企業活動を行った。
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
津軽領には太閤蔵入地が設定され、この太閤蔵入地からの年貢米を敦賀の
豪商
組屋(くみや)源四郎に命じて南部領,その際、北国海運の
豪商
を利用し、
豪商
の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る敦賀,・小浜の
豪商
を通じて南部氏や津軽氏を上方に結び付け、中央政権への依存度を深めさせていったのである。
通史編2(近世1)
(由緒書から)
持船商人の例としては、彼の持船が為信の上方上りに徴用されたことを記しており、そこに初期
豪商
的な性格も認
通史編4(近・現代1)
(菊池楯衛とりんご植栽)
すなわち、現在の中心市街地や宅地がその場所に当たるが、旧藩士や地主
豪商
の生産拡大とともに土地が不足し、,特に、地主
豪商
は原始的蓄積を元手に、零細農家には手の届かない企業的投資家として植栽から収穫までに時間のかかるりんご,この時期、弘前を中心に青森県下にりんごを普及させる上で、旧藩士とともに地主
豪商
の果たした役割も大きかった
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
なお買越米の購入に要した費用は一万五〇〇〇両に及び、もっぱら豪農・
豪商
層の御用金で賄われた。,また、藩士の面扶持の手当である「菜銭(さいせん)」も
豪商
農の御用金によって賄われた。
通史編2(近世1)
(青森騒動の経過)
さらに、打ちこわしの前に蔵を開けさせ、
豪商
が保有している米穀の量を調べる「米改め・蔵改め」も行われた。,拒否すると打ちこわされるため、
豪商
らは保有量を自主的に高札や張札に書いて申告したという。
通史編3(近世2)
(村の変容)
弘前の
豪商
金木屋では万延元年(一八六〇)四月二日の日記で、青森でも火事があり、近頃は所々に不審な苞(つと
通史編2(近世1)
(消極的な藩の救済策)
消極的な藩の救済策 津軽弘前藩の対策は、ひたすら「買〆米(かいしめまい)」と呼ばれる領内各地の豪農・
豪商
層
通史編4(近・現代1)
(行在所金木屋)
行在所金木屋 弘前における行在所たる光栄に浴した本町の武田家は、屋号を金木屋と称し、藩政時代の
豪商
で
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
このような初期
豪商
の系譜を引く北陸地方の海商(かいしょう)たちによって、初期海運が維持経営されていたのである
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
江戸時代末期の建築 蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、東長町の
豪商
通史編3(近世2)
(本町と町家)
大きい間口がすべて
豪商
ばかりとはいえないであろうが、一応の目安とはなろう)。
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
なお、伏見作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の
豪商
によって担われ、すべて敦賀湊に一旦陸揚
通史編3(近世2)
((三)住居)
これらの町の中で、最も殷賑(いんしん)を極めたのは本町(ほんちょう)であり、
豪商
はほとんどここに集まっていたということができる
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
・氷見(ひみ)五郎兵衛、出羽国庄内では佐藤助九郎、能登国では酒屋兵衛らであり、いずれも日本海沿岸部の
豪商
,奥羽の諸大名は、これら北国海運を担っている
豪商
との深い関係を持っていた(山口徹『日本近世商業史の研究』
通史編4(近・現代1)
(りんご生産の展開と農業振興)
この間、着々と土地を集積した地主・
豪商
は、会社組織によるりんご大規模経営で高率配当を出していた敬業社(,なりんごが生産できることが知られて以降、部落有秣場を開放分割して、大面積のりんご園を開設することが、地主や
豪商
通史編4(近・現代1)
(旧藩体制改革への動き)
小野組は、三井組、島田組とともに全国の府県の為替方を三分する勢力を持つ
豪商
であった。
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
また、翌文禄二年四月十日に秋田氏は、秀吉から下命された材木のほかに自分自身の材木の廻漕を敦賀の
豪商
道川
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
の耕作を滞りなくできるよう督励し、また、藩の援助が及ばない場合があるのでよろしく協力するよう、豪農・
豪商
層
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
嘉永六年(一八五三)七月五日の夜、賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町(いわきまち))の
豪商
武田家の人々
通史編3(近世2)
(ねぷた)
嘉永六年(一八五三)七月五日の夜、賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)の
豪商
武田家の人々が、家老大道寺
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
国元仕送制度自体、藩内での米の買い入れについて
豪商
・豪農層の負担に依拠していたが、翌宝暦六年に窮民扶助
通史編2(近世1)
(穀物の流通統制)
領内の
豪商
農は「銘々勝手」に売買の値段を定める状態で、米価の値段は上がり下層民は難渋した。
通史編4(近・現代1)
(米作振興と米騒動)
県内では、
豪商
や地主の篤志家が米の提供や廉売を行うなど、米価高騰の対策を行い、人心の平静に努めた(『新聞記事
通史編3(近世2)
(一一代順承の治世)
弘前の
豪商
金木屋又三郎はその日記の中で、アメリカは今後三〇艘ほども黒船を派遣するとか、その国土は日本の
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
魯僊は異国人と接触する機会の多い箱館の
豪商
山田屋の番頭忠七から異人についての知識を得たり、また、市中の
通史編3(近世2)
(出発)
禁止事項を公示した高札(こうさつ)を設置する場所)に、御目見医者・町年寄・御用達(ごようたし)町人(
豪商
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
文禄四年(一五九五)十二月、若狭小浜の
豪商
組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この
通史編2(近世1)
(「標符(通帳)」発行の前提と経過)
いわば、藩と一部
豪商
による一方的な政策であった。
通史編3(近世2)
(新しい指導者)
結果的には、菱田は県の為替方(出納担当)である
豪商
小野組に依頼して米を放出してもらい、また大蔵省から特使北代正臣
通史編3(近世2)
(金木屋の生活)
一般の商人とは異なる
豪商
ではあるが、金木屋の日記を通して、町人の生活を垣間(かいま)見ることはできるであろう
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