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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) ((1)貝塚に見る食生活)

赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 早稲田貝塚 野口貝塚 白座遺跡 女館貝塚 林通り貝塚 最花貝塚 最花D貝塚,一王寺遺跡 熊ノ林貝塚 二ッ森貝塚 中の平遺跡 札地貝塚 平虚空蔵貝塚 ドウマンチャ貝塚 亀ヶ岡遺跡,野口貝塚 白座遺跡 女館貝塚 林通り貝塚 最花貝塚 最花D貝塚 一王寺遺跡 熊ノ林貝塚 二ッ森貝塚 中,の平遺跡 オセドウ貝塚 田小屋野貝塚 札地貝塚 平虚空蔵貝塚 ドウマンチャ貝塚 亀ヶ岡遺跡 サル,森貝塚 オセドウ貝塚 最花貝塚 最花D貝塚 札地貝塚 ドウマンチャ貝塚 亀ヶ岡遺跡 ヒメウ ○ / (1)貝塚に見る食生活
資料編1(考古編) ((5)骨角牙器(こっかくがき))

本県における骨角製漁具の出現は、貝塚が造営される赤御堂式土器期以後であり、その赤御堂貝塚(八戸市十日市,先端を鋭く尖らせた尖頭器は、唐貝地貝塚(上北郡六ヶ所村=早期)*95・最花貝塚(むつ市田名部=中期)*,96・亀ヶ岡遺跡(西津軽郡木造町=晩期)*97・平虚空蔵貝塚(三戸郡名川町=晩期)*98・大浦貝塚(青森市野内,早期以後の各貝塚で出土している。,においてはアカガイ製、ドウマンチャ貝塚ではベンケイガイとアカガイ製、最花貝塚ではベンケイガイ製の腕輪が
資料編1(考古編) (5.縄文時代の食生活)

これら食料の残り滓は、多くの人々が目に触れる遺物包蔵(含)遺跡では腐食し残存しないが、貝塚・低湿地・泥炭層,その理由は、例えば貝塚は端的に言うと、縄文人を含めて古代人のゴミ捨て場であり、生活用具の破損物をはじめ,、食料の残り滓が捨てられている結果、貝塚を発掘すると彼らの生活レベルやその内容を知ることができるからである
通史編1(自然・原始) (二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化)

の大木式土器が北部に達し、次の後期には関東地方南部の称名寺(しょうみょうじ)式(横浜市金沢区の称名寺貝塚出土土器,を標式とする)(62)に後続して堀之内(ほりのうち)式(千葉県市川市の堀之内貝塚出土土器を標式とする),(63)・加曽利(かそり)B式(千葉市加曽利貝塚出土土器を標式とする)(64)土器が後を追って北上し、,)式(宮城県河北町(かほくちょう)の南境貝塚出土土器を標式とする)(66)・宮戸(みやど)1b式(宮城県鳴瀬,(なるせ)町の宮戸島にある里浜(さとはま)貝塚出土土器を標式とする)(67)土器に影響を与え、さらに北上
資料編1(考古編) ((3)縄文時代前期)

昭和31年(1956)と翌年に発掘が行われた三沢市早稲田貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1,その後、昭和52年(1977)と翌年にわたって調査された八戸市市川町の長七谷地貝塚出土の第Ⅲ群土器*33,気温は平均して2度以上高く、当時各地に形成された貝塚の分布から考えると、海の範囲が広がっていたようである,青森県でも同様の状況が考えられ、上北郡天間林村に所在する二ツ森貝塚は、現海岸線まで直線で約16kmあり,*41、若い女性人骨の発見で名高い上北町大浦の古屋敷貝塚でも現海岸線まで約5.5kmある*42。
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

」『考古学雑誌』四三-二 一九五七年 (20)江坂輝彌 「青森県三戸郡大館村十日市字赤御堂貝塚の調査,グループ編 『鳥浜貝塚-縄文前期を主とする低湿地遺跡の調査1』 福井県教育委員会 一九七九年   B, 森川昌和ほか 「福井県鳥浜貝塚」『探訪縄文の遺跡 西日本編』 有斐閣選書三四 一九八五年 (62),」『探訪縄文の遺跡 東日本編』 有斐閣選書三三 一九八五年 (64)後藤和民 「千葉県加曽利貝塚」『,磯崎正彦 「十腰内遺跡」『岩木山』 弘前市教育委員会 一九六六年 (69)名取武光・峰山巌 「入江貝塚
通史編1(自然・原始) (岩木山麓緊急遺跡発掘調査開始~現代)

当該年における学術調査は、江坂輝彌が担当者となって行われた名川町平虚空蔵貝塚(四~五月)、八戸市長七谷地貝塚,(八月)、同市類家(るいけ)の帽子屋敷(ぼうしやしき)貝塚(八月)、前述の佐藤達夫等による唐貝地・早稲田貝塚,これらの遺跡の中で、平虚空蔵・長七谷地貝塚は先述のとおりであり、帽子屋敷貝塚も赤御堂貝塚と同様、縄文時代早期
通史編1(自然・原始) (早期)

これらの土器の編年について、六ヶ所村倉内の唐貝地(からかいち)貝塚出土土器を標式とする唐貝地下層式(18,)に続いて、三沢市の早稲田貝塚をモデルとして、古い土器から早稲田1式~早稲田6式に至る六形式の変遷も打,ち立てられ(19)、さらに八戸市十日市(とおかいち)の赤御堂(あかみどう)貝塚出土の縄文文様をもつ尖底土器,赤御堂式尖底深鉢形土器 八戸市・長七谷地貝塚 (八戸市博物館蔵)
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

中島はさらに、八幡一郎と中島全二の協力を得て、下北の田名部町(現むつ市)最花(さいばな)貝塚を同年十一月,昭和二十五年(一九五〇)になると、酒詰仲男(さかづめなかお)主催の土曜会が『貝塚』を復刊させ、その復刊最初,このほか、縄文時代に関するおもな調査は、下北の田名部町(現むつ市)にある女館貝塚が江坂輝彌により(82,を調査し(85)、昭和三十一年(一九五六)と昭和三十三年(一九五八)には、三沢市早稲田(わせだ)貝塚を,一方の平虚空蔵貝塚は、内陸部にある縄文時代晩期の淡水性貝塚であり、数種類の骨角器を多数発見した。  
通史編1(自然・原始) (明治時代)

一八三八~一九二五)は、東京大学から招かれて動物学を講じ、その傍ら、来日時に発見した東京の大森(おおもり)貝塚,E.S.Morse (日本考古学協会『モースと大森貝塚』1978年 表紙より) 大森貝墟の,碑 大森貝塚の碑  以上のように、我が国が科学的な考古学の黎明期を迎えていたころ、岐阜県出身
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

内容は、時代区分から説き起こし、亀ヶ岡遺跡の成因をはじめ、貝塚・竪穴・チャシ・是川などの遺跡のほか、蝦夷論,松本は、宮城県の松島湾に浮かぶ宮戸島里浜(みやとじまさとはま)貝塚と、岩手県陸前高田(りくぜんたかだ),市の獺沢(うそざわ)貝塚出土の土器を、模様(文様)から第一期より第五期へ変遷するとの考え方を示した。,天間林村の二ツ森貝塚も、村道の拡幅整備工事の実施の際に青竜刀型骨製品をはじめ、鹿角(ろっかく)製垂飾(,角田の調査報告は、当貝塚出土の土器を詳細に分類し、特に縄文時代中期末の土器に対し榎林(えのきばやし)式
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

これに対し、小川原湖周辺の同期に関する土器文化の研究を志していた佐藤達夫は、三沢市の早稲田貝塚や六ヶ所村,の唐貝地貝塚等を調査し、貝殻文から条痕文(じょうこんもん)に至る土器を、唐貝地下層式から早稲田1類を経,22、県教育委員会文化課並びに昭和55年(1980)設置の県埋蔵文化財調査センターによる八戸市長七谷地貝塚,東通村・下田代納屋B遺跡 (青森県立郷土館蔵) 赤御堂式尖底深鉢形土器… 八戸市・長七谷地貝塚
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

縄文文化の起源の研究」(史学29-2) 1956年8月 *20 佐藤達夫ほか 「青森県上北郡早稲田貝塚,」(史前学雑誌1-2) 1929年5月 *32A *20に前掲 *32B 佐藤達夫ほか 『早稲田貝塚,』(青森県教育委員会) 1963年5月 *42 鈴木克彦・森本岩太郎ほか 『上北町古屋敷貝塚・Ⅱ(遺構編,8) 1959年3月 *96 金子浩昌・橘善光ほか 「最花貝塚第一次調査報告」(むつ市文化財調査報告,*103 江坂・渡辺・高山 「大間町ドウマンチャ貝塚」(下北 九学会連合 平凡社) 1967年3月
通史編1(自然・原始) (食料)

神奈川県横須賀市の平坂(ひらさか)貝塚で発掘された、縄文早期の熟年(働き盛り)の男性骨の例は、右足(右,しかし貝塚を発掘すると、貝はもちろんのこと、魚・鳥・獣類の骨角牙も出土し、その出土量によっては依存度が,遺跡の近くにまで海が迫っており、その海に対する依存度の高さは想像できるが、現在までの調査では貝塚の発見,この類の骨は県内の貝塚でも検出されており、古くは縄文早期のころから食されたとみえ、八戸市の赤御堂貝塚において,出土し(53)、天間林の二ッ森貝塚では多量の骨が発見されている(54)。
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

青森市細越館遺跡・十和田湖町三日市遺跡・平内町槻ノ木遺跡などの古墳文化の遺物を出土する遺跡と、大間町大間貝塚,・大平D貝塚など続縄文式の北大Ⅰ式のみを出土する遺跡があるが、調査によって得られたこの時期の文物は森ヶ
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

)渡辺兼庸 「古物学の底本」『考古学雑誌』六三-二 一九七七年九月 (12)A 西岡秀雄編 『大森貝塚,』 中央公論美術出版 一九六七年十一月   B 近藤義郎・佐原眞 『大森貝塚』 岩波文庫 一九八三年一月,若林勝邦 「陸奥亀岡探究記」『東洋学芸雑誌』九七 一八八九年十一月 (26)A 若林勝邦 「陸奥国上北郡貝塚村貝塚調査報告,」『東洋学芸雑誌』一四六 一八九三年十一月   B 佐藤重紀 「陸奥国上北郡の貝塚」『東京人類学会雑誌,」『日本貝塚の研究』 岩波書店 一九六九年九月 (67)A 江坂輝彌 「余白録 古いノートから-青森県下北半島最花貝塚
通史編1(自然・原始) (前期)

前期 縄文前期の土器編年は、昭和五十二・五十三年(一九七七・七八)の八戸市長七谷地(ちょうしちやち)貝塚,ところが一部は日本海沿いに南下を続け、富山県氷見(ひみ)市の朝日(あさひ)貝塚(24)や、能登半島の富山湾
通史編1(自然・原始) (大正時代)

遺跡の中でも、特に貝塚から埋葬人骨が発見されることがある。,大正十年(一九二一)北津軽郡相内(あいうち)村(現市浦(しうら)村)オセドウで道路工事中に貝塚がみつかり,はせべことんど)(一八八二~一九六九)と、山内清男(やまのうちすがお)(一九〇二~一九七〇)がオセドウ・笹畑の貝塚
通史編1(自然・原始) (第三節 縄文時代)

の水が栃木県の南部付近にまで及び、現在の海岸線から直線で約六〇キロメートルの奥地に達していたことが、貝塚
資料編1(考古編) ((3)6世紀代)

時期の遺跡は極めて少なく、古墳文化の土師器を出土する七戸町大沢遺跡や、続縄文文化の北大Ⅲ式の大間町大間貝塚
資料編1(考古編) (第3節 弥生時代)

この時代を表す弥生という名は、明治17年(1884)3月2日、現在の東京都文京区弥生町にある向ヶ岡貝塚
通史編1(自然・原始) (漆)

三内丸山が調査に入る三〇年前から数次にわたって調査が行われた福井県三方(みかた)町の鳥浜(とりはま)貝塚
資料編1(考古編) ((1)工芸の種類)

(1)工芸の種類 縄文時代前期の福井県三方町鳥浜貝塚では、大小さまざまな木製品が発見され、それらの品々
資料編1(考古編) ((3)石製品)

図14 縄文時代の石器・石製品 石鏃…(前期)天間林村・二ツ森貝塚 (天間林村教育委員会蔵),石槍…木造町・田小屋野貝塚 (前期)(木造町縄文館蔵) 石匙…尾上町・八幡崎遺跡(晩期,欠失)… 尾上町・八幡崎遺跡(晩期) (尾上町教育委員会蔵) 骨製飾櫛…天間林村・二ッ森貝塚
資料編1(考古編) ((2)人骨の出土した土壙墓)

他県の例では、昭和48年(1973)8月、秋田県の八郎潟北側に位置する八竜町萱刈沢貝塚で、前期末~中期中葉期,本県の事例では、昭和57年(1982)の初夏に、上北郡上北町にある古屋敷貝塚の調査で、当該土壙から左側臥
資料編1(考古編) ((1)3世紀末~4世紀前半代)

7 上尾駮(2)遺跡 上北郡六ヶ所村尾駮 C2・D 弥生後期 8 大間貝塚 下北郡大間町大字大間 北大,所村尾駮 C2・D 弥生後期 297 37 玉清水遺跡 青森市駒込字月見野 C2・D 38 横峯貝塚
通史編1(自然・原始) (弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)

なる語は、明治十七年(一八八四)三月二日に、現在の地名でいうと東京都文京区弥生の向ヶ岡(むこうがおか)貝塚
資料編1(考古編) ((2)植物栽培の起源)

それは鳥浜貝塚で発見された、リョクトウ(緑豆)とヒョウタン(瓢箪)などである*119。
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

本業の傍ら下北や上北(かみきた)郡に歩を進め、明治二十年(一八八七)に天間林(てんまばやし)村の二ツ森貝塚,若林は、四年後の明治二十六年(一八九三)七月、上北郡天間林村の二ツ森貝塚を発掘しているが、これは同郡下,坪井正五郎の弟子、神籠石(こうごいし)についての研究がある)・松村瞭(まつむらあきら)(モースと共に大森貝塚
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

出土層による対比、整理分類、並びに文様等の形式学的方法を背景とした編年的研究を岩手県大船渡市赤崎町の大洞貝塚,、大和久震平は山内清男の教示を得て、昭和30年(1955)10月の秋田県能代市柏子所(かしこどころ)貝塚,旧→大洞B新→大洞BC旧→大洞BC新→(以下はさきに設定の形式と同じ)のような形式の設定と変遷を、同貝塚
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

 「下北半島に於ける土師器の竪穴」(考古学ノート5) 1951年 *11 加藤孝 「塩釜市表杉ノ入貝塚,(宮城学院女子大学研究論文集5) 1952年 *12 橘善光 「青森県下北半島八森遺跡調査慨報」(貝塚,遺跡調査概報(2次)」(古代10) 1953年 *15 江坂輝弥 「尻屋崎付近の土器・須恵器出土の貝塚,青森県下北郡ムシリ遺跡」(日本考古学年報4) 1955年 *22 桜井清彦 「青森県森田村発見の鉄斧」(貝塚,縄文文化の終末とそれ以降の文化」(弘前大学国史研究14) 1958年 *36 石附喜三男 「奥尻島青苗貝塚
通史編1(自然・原始) (中期)

(27)、ソーメンのような細い粘土紐を縦横あるいは菱形に貼り付けている富山県の朝日下層式(氷見市朝日貝塚出土土器
資料編1(考古編) ((2)県内遺跡の出土工芸品)

(2)県内遺跡の出土工芸品 本県でも、縄文時代前期中葉の円筒下層a並びにb式土器期に、鳥浜貝塚と同様
通史編4(近・現代1) (伊東重と養生哲学)

伊東は、東京大学でモールス(大森貝塚を発見したエドワード・モースのこと)が講じたダーウィンの生物進化論
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

深鉢形土器… 八戸市・韮窪遺跡 (県埋蔵文化財調査センター蔵) 大木8b式甕形土器… 二ッ森貝塚
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

白糠赤平遺跡  〃 白糠字赤平  〃 〃 9C~10C 表採資料 33 ムシリ遺跡  〃 尻屋 貝塚包含層
資料編1(考古編) ((5)塩業)

三内遺跡  〃 三内字丸山 製塩土器 〃 12 朝日山遺跡  〃 高田字朝日山  〃 平安 13 大浦貝塚
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

諸物資の交換・獲得という人間集団の経済的要求に起因するものであり、さらにまた、サハリン鈴谷(すすや)貝塚
通史編1(古代・中世) (津軽地方の古代信仰)

関東地方の例になるが、東京都港区伊皿子(いさらご)貝塚遺跡の九世紀中葉の竪穴住居跡でも、カマドの焚き口部
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

9.4m×7.4m、面積57.54m2、早期末早稲田5類土器期)*198、八戸市の長七谷地貝塚
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

この時期からは住居跡の発見数が急激に増加し、長七谷地貝塚6軒*179、和野前山遺跡(八戸市市川町)5軒
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

その際、一個の円筒下層d1式土器内から胎児骨が発見され(157)、上北郡上北町大浦の古屋敷貝塚でも同形式,本県では昭和五十七年(一九八二)五~六月に調査された上北郡上北町大浦の古屋敷貝塚の例があり、壮年期の女性人骨
資料編1(考古編) (〈用語の解説…第2節〉)

貝塚の考古学的編年から9,000~6,000年の間で縄文早期から前期にかけての時期とされる。
資料編1(考古編) (新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)

        5.縄文時代の食生活 ………………………………  124          (1)貝塚
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