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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (織座)

織座 「国日記」元禄十三年(一七〇〇)四月七日条によると、織座の取り立て場所には長内三益(おさないさんえき,同じく元禄十三年四月六日条では、織物座仲間の屋敷地として長内三益の薬園を願い出たところ、三益は迷惑千万,ここで織座に関する名称について触れる。,織物座・織物所、そのほか石渡織場所・石渡織物師役所・石渡において織座、さらに糸会所・蚕繭会所等の表記が,翌十四年四月には羽二重(はぶたえ)(絹布の一種、良質の絹糸で緻密に織り精練した純白のもの。 / 織座
資料編1(古代・中世編) (四 板碑の様式と石質)

四 板碑の様式と石質 津軽地方の板碑は、関東地方の板碑と違って自然石を利用しており、緑泥片岩を使用した,日高市四本松の板碑  しかし碑面には、関東地方の板碑に似せるために郭線に工夫を凝らし、月輪・蓮座・,石質については、安山岩が圧倒的に多いほか、石英安山岩・流紋岩・溶結凝灰岩などが用いられている。,岩木山の周辺の板碑は、岩木町兼平や弘前市大森に見られる輝石安山岩に類似した石質である。  ,深浦町では、流紋岩を使用した板碑が見られ、町並みの裏手には同質の岩石層が露出している。 / 四 板碑の様式と石質
通史編4(近・現代1) (弘中生気質)

弘中生気質 明治後期に始まった弘中の校風発揚運動は、必ずしも成功したとは言いがたい。,その原因を聞くに、同校にては昨年来弘の有田洋行活動写真一座の歌劇の観覧を許可しながら、有田歌劇以上の今回,の石井漠、沢モリノ一座の歌劇の観覧を禁止したるは、その意を得ざることなり。,これに加えて同校生徒の一部よりなる校風発揚会の会員を、棟方教諭が教唆して、歌劇興業中、弘前座前に立ち番,死んだとて誰ァ泣ぐものか、お寺のかぐぢで隠坊ァ泣ぐ、デンガラデンガラ  新しい大正期の空気のなかで質実剛健 / 弘中生気質
通史編1(自然・原始) (常盤面)

面の傾斜は下流側で一〇〇〇分の二~三、平川の支流六羽川流域および引座川流域では一〇〇〇分の四~五と緩くきわめて,一方、引座川流域に分布する常盤面は平賀面を浸食する浅い谷状凹地であって、凹地を埋積する泥炭層ないし有機質,ボーリング資料によると、引座川近くの平賀町消防署21(四一メートル)では、最上部に厚さ約九メートルの砂,砂礫層の下位には二枚の火砕流起源の軽石質粗砂層があって、中部にある腐植質シルト層(厚さ約一・七メートル,二~三メートル)、下部には青灰色砂質シルト~粘土質シルト(厚さ四メートル以上)が薄く堆積している。
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

唐竹川を除く各河川は平野部で合流し引座(ひきざ)川として平川に合流する。,唐竹川は平野部で平川の分流である六羽(ろっぱ)川と合流し、下流側で引座川に合流する。,平賀町は平川~引座川間のやや高度の低い扇状地性の低地に位置している。  ,には尾上町、図25には平賀町の東西方向の地質断面を示した。,また、図26には平野南縁の平賀町~尾上町~黒石市の南北方向の地質断面を示した。
通史編1(自然・原始) (平賀面)

平賀面 六羽川の東側にあっては、引座川流域の扇状地性の低湿地を除いて黒石面の周辺に分布し、尾上町八幡崎,と軽石質砂を確認している。,また、古懸浮石流凝灰岩の下位にも軽石質砂層(厚さ七~八メートル)があって、駒木浮石流凝灰岩に対比される,~四一)が堆積し、下半部はN値五〇以上の堅固な軽石質砂岩であって、本質的な火砕流堆積物と思われる。,かつて扇状地面上を平川や浅瀬石川、そして引座川などが網状に流れていたものであって、平川や浅瀬石川ではクロスラミナ
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

弘前城下史料』上)に載っている「諸役銀之覚」によれば、城下の酒屋は一一〇軒あり、役銀は一軒につき三両三〇匁、質座,「御役家業」としては造酒高一〇〇石につき役銭一貫五〇〇目、質座の役銭八五匁、魚売の役銭三〇匁、菓子の役銭一,質屋については利息の統一などの必要性があり、また役銭の書き上げが「質座」となっていることからみて、同業組合,元禄八年(一六九五)六月九日の「質座作法御定」(前掲『弘前城下史料』上)には、刀・脇差・諸道具・諸品等,これらはいずれも、藩の強い指示ではあるが、指示を受ける受皿として質座が存在していた。  
通史編1(自然・原始) (第五節 引用参考文献)

第五節 引用参考文献 (1)藤本幸雄(一九八九)  (3)白神山地、日本の地質2東北地方、共立出版、,九〇頁 (2)井上武・三橋運一 (一九六一) 青森県南津軽郡大鰐町東部と碇ヶ関村における地質調査報告,東北地方、共立出版、六七-六九頁 (21)村岡洋文編(一九八八) 八甲田地熱地域地質図、地質調査所,(22)村岡洋文・長谷紘和(一九九〇) 黒石地域の地質、地域地質研究報告(五万分の一地質図幅)、地質調査所,、岩波講座地球科学5、(勘米良・水谷・鎮西編)地球表層の物質と環境、岩波書店、五三-九六頁 (31)
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

める者)を合わせて三二七人、大工・木挽(こびき)が一九九人、酒屋一〇七軒、本室屋一五七軒、新室七軒、質座,(質屋)三二軒、豆腐屋三八軒の記載があり、家業の種類が少し多く記載されている。  ,御用蝋絞 1 御国産鉄取扱 1 彫刻師 2 御前穀物請負・同搗屋 1 御買上品取扱 1 御座頭,2 米金仲買頭 1 座頭頭 2 御大工 11 日市頭 2 日市物書 2 日雇頭 6 御蔵拼頭,軒 檜物師 18 内 御用1軒 御 役 家 業 造酒屋 31 内 御銚子屋1軒   休2軒 質座
通史編5(近・現代2) (桜田市政と合併対策)

市町村に対しては自治相談所を開設して議会や理事者に啓発宣伝をし、部落座談会や懇 談会を開催して一般住民,その一方で、県は市町村当局に対しても、議員研修会・部落座談会・合併準備会を結成するよう要請している。,相談所は県内各地域ごとに開設され、各会場ごとの特殊性を考慮して適宜質疑応答形式をとった。,県は町村合併の必要性とその促進を基本的に説明し、質疑応答することとした。,町村合併に関する情報を中心に、中央官庁からの通達を解説したり、質疑応答を掲載するなど、一般住民対象の広報的役割
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

による養蚕と製織 本町の絹・木綿・布商人金木屋和吉(初代)は、現金正価、掛け値なしの商法を取り入れ、品質吟味,止まりの南溜池(みなみためいけ)(現市内南塘(なんとう)町)堤沿いの御用地借用のうえ、大造りの国産織座を,同じく「封内事実秘苑」天保元年六月条には、在府町の金木屋甚左衛門織座の状況について次のように記されている
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

元禄十三年には、紺屋町の長内三益薬園屋敷が「織物座」として認められた(同前元禄十三年四月七日条)。,そのためには品質の向上も必要となる。,元禄十四年二月、欲賀庄三郎・富江次郎右衛門が藩に繭(まゆ)の品質にかかわる要請を行っている。,その中で両人は、一つの繭に一匹のさなぎが入った「壱疋作り之繭」で、かつ品質のよい「きんこ繭」に限定することや,、繭の天日干しの際の品質の維持策などを提言している(「国日記」元禄十四年二月二十二日条)。  
資料編1(考古編) (第4節 中世・近世の生活用具)

・桶(以上木製品) 灯火具 火打金(鉄製品)/火打石・石鉢(石製品)/瓦燈(土製品) 暖房具 瓦質(,鉄製品)/紅皿(陶磁器) 茶の湯 中国製鉄釉壺・碗,瀬戸美濃鉄釉壺・碗・天目台・茶入(以上陶磁器)/瓦質風炉,(土製品)/茶臼(石製品) 聞香 青磁香炉,瀬戸美濃香炉(以上陶磁器)/瓦質香炉(土製品) 文房具,,鏃(以上鉄製品)/鐔,切羽,笄(こうがい),鐺(こじり),足金具,返角,目貫,こはぜ,縁金具,八幡座,
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

これに対し藩では「京座会所」を設け、ここで一切(いっさい)を取り扱わせる策をとっている。,麻に似ているが、上質で多く帷子や羽織に用いる)以上については、自家用を除き余分は会所に集めさせていた。,町・在に対しては、織りの希望者を織座に加わらせて技術指導を行い、織り出した絹・布で商品となりうるものについては
通史編5(近・現代2) (紅緑の少年時代)

頑固で変わり者であった弥六の奇行は数多いが、自由奔放な紅緑の気質はこの父から譲り受けたものと思われる。,また、当時弘前柾木座で演劇会を観るなど芝居にも興味を示していた。
資料編1(考古編) ((1)貝塚に見る食生活)

          ○         ○                   ○         白座遺跡,前・中期 後期 晩期 出土魚類名 帽子屋敷貝塚 赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 早稲田貝塚 野口貝塚 白座遺跡,前期 中期 前・中期 後期 晩期 出土哺乳類名 赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 早稲田貝塚 野口貝塚 白座遺跡,鳥類骨 貝塚・遺跡名 早期 前期 前・中期 中期 後期 晩期 出土鳥類名 赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 白座遺跡,特にこれらの遺跡は、骨歯角牙(こっしかくが)のような硬組織のみならず、軟質の植物質の遺物も多く残している
通史編3(近世2) ((一)衣服)

麻裃は長袴か半袴か不明であるが、『日本服飾史』によれば、裃の地質が麻のことである。  ,襲封後初めて入国したのは天明四年(一七八四)八月二十日であるが、同年九月一日、二日には、熨斗目長袴で各座敷,へ出座し、継目(つぎめ)(襲封)の礼を受けている。,十一日には麻裃を着て山吹(やまぶき)の間へ出座して、着城祝儀の礼を受けた。  
通史編3(近世2) (野本道玄)

、道玄の建議により織物師欲賀庄(荘)三郎、富郷次郎右衛門らの諸工が上方から招かれ、翌十三年紺屋町に織座(,彼は機織、製糸の改良を督励し、上方から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。
通史編1(自然・原始) (海洋プレートが運んでくるもの)

そうした陸地から遠く離れた所で、珪質プランクトンの死骸から形成されたチャートの層が海洋プレートの移動とともに,遠く離れた深海底に堆積してできた地層が、どうして座頭石のような陸地の奥まった場所に露出することになったのだろうか
通史編1(自然・原始) (弘前でみられる最古の地層)

大和沢川の上流部から稲刈沢の上流部に続く、険しい山地をつくっている硬い岩石は、弘前地域では最も古い地質時代,プレートで運ばれてきた地層、つまり弘前地域の最南部にみられる付加体の地層がどのようなものか、市街地の南の座頭石
通史編5(近・現代2) (反戦・厭戦の防止)

三月十三日、県当局や大日本傷痍軍人会および軍人援護会の各支部は、重度傷痍軍人の再起復活のため二十四日に座談会,座談会の内容は重度の傷痍軍人を対象としているだけに、実際に前線に登用される軍人としての再起を試みたものではない,重度の傷痍軍人も動員せざるを得ないところに、根こそぎ動員の本質と実態がうかがえよう。  
通史編5(近・現代2) (弘前手織)

する弘前手織は、元禄七年(一六九四)、津軽塗と同様に四代藩主信政が現在の弘前市紺屋町に製糸場および織座をつくり,値段はやや高かったが品質は良好で、昭和九年頃、三越デパートの機関誌において、全国まれに見る優秀品として
資料編1(古代・中世編) (〈凡例〉)

(6) 「月輪(円相)」「天蓋」「蓮座」「香炉」「花瓶」等は「備考欄」に存在を記述するにとどめた。,(11) 「石質」は、山口義伸、鎌田耕太郎両氏に確認を依頼し、修正した板碑もある。
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

厚さ約二〇メートルに及ぶ本質的な火砕流堆積物とその再堆積物は一〇〇〇分の八~一五の勾配をもち、下流側に,この結果、浅瀬石川流域や平川-引座川間では開析された扇状地が断片的な分布を示し、平川流域では六羽川および,引座川による開析の度合いが大きいために、黒石面の分布が薬師堂付近に局部的に認められるのみである。  ,引座川流域では平賀丘陵から流れる小谷あるいは平川による浸食で黒石Ⅱ面が大きくえぐられたために、古懸浮石流凝灰岩
通史編4(近・現代1) (和服と呉服商)

これに伴って、津軽手織(「弘前手織」ともいう)はさらに品質や縞柄なども改良されて、四十年八月の税務署の,呉服店にはまだ呉服の陳列所などはなく、店の構えは錦絵に見る「江戸駿河町の越後屋」という様式で、番頭の座席,の上には「忠七」などとその名を大書した紙を下げ、店の奥には帳場が格子机を前に座っていた。,前方に木綿、奥座敷に絹布を並べ、金屏風を飾り、休憩所を設け、八方に姿見をかけるなど、東京の三井呉服店の
通史編2(近世1) (「不作」と本百姓体制―貞享検地の前提―)

これは、「御百姓」の階層分化に照応したものであり、さらには、軒掛の賦課方式の実質的な崩壊の端緒でもあった,逆に、延宝期まで夫役と農業耕作とが存立しえたのは、「新検以前は何も田畑有余御座候」(資料近世1No.八四五,このような前例を踏まえ、貞享検地は、単なる検地にとどまらず、土地と農民への支配体制を再編成しようという性質を
通史編4(近・現代1) (開化思潮の影響)

第一に慨歎すべきことは、世の中の開化につれて人は次第に節倹を忘れ質朴を失い、とうとうたる奢侈(しゃし),おまけに旅籠屋・貸座敷にい続けて散財し、勝手な物知り顔をする男が多くなったではないかという。  ,こうした世の中になったから気質もおのずと変化して、ことに婦女の言動が粗略になった。
通史編4(近・現代1) (伝統習俗の刷新)

今後は貧富ともに質素を旨とせよ。,やむなく、十四年四月からイタコや座頭の頭役(報恩寺)を定め、お役金四円也を上納させて、その職能を認めるという
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

①瑪耶(めや)渓、②座頭石、③法峠(ほっとうげ)、④弘前公園、⑤乳井神社、⑥岩木山、⑦芦野公園、⑧愛宕山,写真10 ねぷた(昭和初期・仲町)  青森市の歌舞伎座とならび、弘前座では演奏会や演劇が繰り広げられた,昭和九年十一月、「弘前市の秀麗なる山水と、質実剛健なる地方色とを謳歌し、将来発展の意気を鼓舞する」目的,写真11 弘前座  弘前市だけのことではないが、当時の音楽を語る際に津軽三味線の隆盛も見逃せない
通史編3(近世2) (織)

両人の召し抱えは、野本道玄のかねてからの上申によるもので、織座を取り立て、領内における養蚕と絹織の指導,査察した上磯根岸(ねぎし)村(現東津軽郡平舘(たいらだて)村根岸)には養蚕にすぐれている者が多く、良質の
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

写真78『津軽一統志』高伯寺 写真79 大日如来座像  また七時雨峠(ななしぐれとうげ,また出土遺物も質・量ともに豊富で、陶磁器とともに大量のかわらけが出土している。
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

の存在は、元禄時代には全国的にみて有名なものであり、元禄十六年(一七〇三)、銅を扱う商人から幕府の銅座役所,図101.尾太鉱山の図  その後尾太鉱山は銅・鉛の生産が徐々に落ち、さらに出荷した製品の品質低下
通史編1(自然・原始) (大雪と豪雪)

したがって、シベリア気団は日本海を南下するとき、下層が対馬暖流による高温な海表面水温により変質するので,居座っている寒気団の模様は、季節風によりできた筋状の雪雲が大陸から離れ出すことで、寒気の補給がとだえたか
通史編4(近・現代1) (青森県における普通運動)

我議会政治は却って逆転を続け、政界醜陋事の頻出は人心に悪影響を及ぼし、政党改造の声のみ徒らに高くして実質は,また、五所川原青年会長外崎千代吉も、青森市歌舞伎座で工藤日東とともに普選断行演説会を開いた。  
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

10月5日,織物座設置を命ぜられる。,1702 元禄15 48 「きんこまゆ」の種を下して,上質糸の生産を勧める。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

それはほかでもなく、『天台座主記(てんだいざすき)』が物語る次のような座主補任の事実である。  ,すなわち、歴代天台座主の出身地を九世紀に限定してみると、初代座主の義真(七八一~八三三)は相模国、二代,また七代の猷憲は下野国塩屋(しおや)郡出身、というように天台座主のポストを、初代~七代の間に東国出身者,つまり法華経の功徳によって、その中央に地上仏国土を実現するところの此土浄土という性質のもので、そのよるべき,まず、はじめに、古代はもとより中世期の特質を逆に浮き彫りにするために『津軽一統志』首巻の「神社 仏閣」
通史編5(近・現代2) (県立工業から弘前工業へ)

この日六月八日は四年生以下座頭石に遠足があり、五年生は修学旅行で留守だった。,しかし、定員は増えたが、実質は必ずしもこれに伴うものではなかった。
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

派遺されるだけの「御金(ごきん)御手伝」だった(「御金御手伝」については、松尾美恵子「御手伝普請の変質―,ここで藩は経費節減によって費用捻出の一助とし、当座を切り抜けることに成功している。  
資料編1(考古編) (1.境関館遺跡)

珠洲片口鉢・瀬戸(卸皿・盤)・鉄鍋・石製粉挽き臼 貯蔵具 珠洲(甕・壺)・曲物・越前甕 暖房具 瓦質火鉢,108-11)、鉄釉天目茶碗(図108-12・13・14)、鉄釉仏花瓶(図108-15)、鉄釉壺形擂座(,図109 境関館遺跡出土陶磁器(4)  ほかに、瓦質土器と呼ばれる火鉢の類が8点、瓦(軒丸瓦)1,2 ⅠQ-92 Ⅱ下 和鏡 径11.0cm,縁高0.82cm,縁厚0.37cm,鈕座蓮 3 5号堀,5層 和鏡 径11.0cm,縁高0.82cm,縁厚0.43cm,鈕座亀 4 ⅠR-102 Ⅱ 和鏡 縁高
通史編5(近・現代2) (インフレの進行と低物価運動)

新たに設立しようとする弘前商工会議所は、名は古い伝統を継いではゐるが、その実質は全く新しい性格と構想とを,耐乏生活要請    チ、商業者に対し商業道義の昂揚、遵法精紳の涵養を計る 第三、実施事項  ①説明会、座談会,丸公表等  ⑦新聞ラヂオの利用 新聞記者との懇談会を開催し記事掲載を依頼する、本運動の展開の解説、誌上座談会等々記事,を掲載する、ラヂオは対談、座談会、ラヂオドラマ、生鮮食料品丸公紹介等に利用する  ⑧物価監視委員の活動,活潑にすること  ⑩経済事犯取締りの強化   本運動の推進と並行して経済事犯の取締りを強化し、悪質闇行為
資料編1(考古編) ((4)土製品)

縄文時代早期前葉の根井沼式土器に伴うものであり*77、その後しばらく間を置いて、三戸郡階上(はしかみ)町の白座遺跡,なお、この時期の土偶は、直立ないしは足を開いた形状のみではなく、座ったりまたはうずくまったいわゆる蹲居,土版は、岩版と同様な形態をなすが、材質は粘土である。
通史編3(近世2) (藩から県へ)

この点で廃藩置県は明治二年の版籍奉還とは決定的に本質を異にするものであったが、なぜ、これへの反抗が起こらなかったのだろうか,ひとつには、杉山龍江に伝えられたように、当面の間、新県の事務は旧体制に従って取り扱うとされ、藩政が即座に
通史編4(近・現代1) (食生活の変化)

そんな質素な日常が、近隣の軍人家族との交際上、また、対等意識から、毎日でも魚を買う習わしになっていった,これまでは夜鷹そばか、煮売り茶屋の店先で食べていたものが、東京そばは座敷に上がって食べるというので珍しがられた
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

狩人たち) 1974年1月 *6 曽根廣 「陸奥椿山海岸より発掘せるエオリス様の石片に就いて」(地質学雑誌,史前学雑誌2-3) 1930年3月 *45 江坂輝彌 『各地域の縄文式土器(東北)』(日本考古学講座3,講談社日本原始美術1) 1964年3月 *59 永峯光一 『縄文晩期文化-中部日本-』(新版考古学講座3,*63 坪井清足 『縄文文化論』(岩波講座日本歴史1) 1962年4月 *64 橘善光・奈良正義 『,岡遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書14) 1974年3月 *117 杉山寿栄男 「石器時代有機質遺物
通史編4(近・現代1) ((一)北洋の出稼ぎ農民たち)

初代永一郎の奥さんは、なかなかおっかないおばあさんで、座敷の仏壇の前でながながとお経をあげ、うちわ太鼓,そして、主張として賃金増、労働時間短縮、歩増、医療体制完備、宿舎改善、傷病・退職・死亡手当制度確立、悪質周旋屋
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

野田権参事は津軽人の気質をのみ込んでいたので、御仮屋を改築して県庁を開き、事務を執るにも畳敷きのままとし,、座って事務を執っていた。
通史編5(近・現代2) (出稼ぎの実態)

悪戸位の所)より山道で八里以上で造材関係以外人の出入なく、荷物類は馬で二回に仲出して上げて居る所で御座います,ヨロスクと言ふわけで同行者(佐々木、[ A ])と言ふ者に十五円、酒呑むト足、上着、ツポン十四円位、家具(質受
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

このほか、家老大湯五左衛門、郡奉行対馬万右衛門、寺社奉行岡三太左衛門ら四二人がこれに連座し処分を受けた,一免除されたものの、家中救済策が示されず不評であること、表向き加増されても知行米の換金率が下がるために実質が
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

『東京人類学会雑誌』一一-一二五 一八九六年八月   D 佐藤傳蔵 「陸奥亀ヶ岡石器時代遺跡地形地質及発見品,先史考古学』一-一 一九三七年一月 (40)A 大里雄吉 「陸奥国是川村中居石器時代遺跡発見の植物質遺物,町のあゆみ-先史時代-」『平内町史』上 一九七七年四月 (69)江坂輝彌 「縄文式文化について(講座・その,(115)(38)B・(39)に前掲 (116)江坂輝彌 「各地域の縄文式土器」『日本考古学講座』
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

低地遺跡」(考古学ジャーナル10) 1967年 *68 和島誠一 「原始集落の構成」(日本歴史学講座),歴史』山川出版社 1970年 *85 菊池徹夫 「擦文式土器の形態分類と編年についての一試論」(物質文化,第一田名部小学校校庭遺跡-第1次調査概報-」(北奥古代文化3) 1971年 *89 近藤義郎 「製塩」(新版考古学講座特論,東北の中世陶磁器をめぐる問題」(庄内考古学18) 1982年 *311  〃  「食の文化」(岩波講座 ,秋田県教育委員会 『払田柵跡Ⅰ-政庁跡-』 1985年 *317 山田一郎・井上克弘 「東北地方を覆う古代の珪長質テフラ
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