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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (越後加増説)

越後加増説 信枚の越後転封は結局沙汰やみになったが、この騒動の最中に津軽弘前藩にとって一つの重要な点,六月二十一日付けで国元の服部長門・白取瀬兵衛宛てに出した申渡状(同前No.三七二)に記載されていた「越後,加増転封先が信州のみの表記であるが、越後国魚沼郡と信州川中島で合わせて一五万石であったものと思われる。,元和六年(一六二〇)三男忠勝が没したため、越後国魚沼郡の二万五千石は幕府に返上された。 / 越後加増説
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

津軽信枚の越後転封 元和五年(一六一九)は二代将軍秀忠が上洛した年であり、東北地方の大名をはじめ多くの,ところが、六月十七日付けの義宣書状は、信枚の越後転封を伝えており(資料近世1No.三六九)、信枚もその,一、国替を命じられ、福島正則が津軽へ転封となり、自分は加増されて越後に転封となった。,四、このたび上京した家中の者は、兵糧でも何でも売れる物があったら、どこへでも売り払って、越後に上る用意,を知るヵ) 信枚の越後転封を知る 津軽信枚へ越後転封指示ヵ 18 領内比内・八森筋の弘前藩の荷物運搬許可 / 津軽信枚の越後転封
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

越後高田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より越後高田領,越後高田領は、親藩(越前家)の有力大名松平光長(みつなが)の領するところであったが、相続問題が発展して,検地の実施中、越後と弘前の間には飛脚がたびたび往来し、また越後へ御用金も送られた(「国日記」天和二年六月十五,表14 越後高田領検地派遣役人表(江戸から派遣) No.,表15-1 越後高田領検地派遣役人表(国元から派遣) No. / 越後高田領検地の実施
通史編1(古代・中世) (陸奥国と出羽国)

一方、日本海側では、天武天皇十一年(六八二)四月、越後の蝦夷の伊高岐那(いこきな)らが俘人七〇戸をもって,持統朝には、越(こし)国が、越前・越中・越後に三分割され、陸奥国とともにこの越後国が律令国家の北の最前線,そしてその越後国内で、律令国家体制が整備されていくのと軌を一にして、和銅元年(七〇八)九月、出羽郡が建郡,出羽は「いでは」と訓(よ)み、「出端」の意味で、越後国の北端に突出しているところからつけられた命名である,征越後蝦夷将軍は佐伯石湯(さえきのいわゆ)、副将軍は紀諸人(きのもろひと)である(史料四四。
通史編2(近世1) (貞享検地)

貞享検地は、越後高田検地(天和元年〈一六八一〉の越後騒動の結果、幕府に収公された松平光長旧領の検地)に,越後高田検地と貞享検地との相関性は、 ①貞享検地のおもだった役人が、越後高田検地の経験者である。,②検地役人の大規模な組織体制は、寛文期から天和期までの検地での編成とは異なり、越後高田検地の例を踏襲したものと,④越後高田検地での検地竿は「なよ竹」を使用しており、貞享検地でも唐津船が積んで来た「なよ竹」「唐竹」を,これが、寛文期から天和期に行われた検地細目といかなる関連があるかということは知りえないが、これも越後高田検地
資料編2(近世編1) (第三節 検地の実施と新田開発)

第三節 検地の実施と新田開発 一 越後検地 二 領内検地 三 新田開発の展開
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●文武天皇元年(六九七)十二月十八日、越後の蝦狄に賜物。,●文武天皇二年(六九八)六月十四日、越後国の蝦狄、特産物を貢上。,●文武天皇三年(六九九)四月二十五日、越後国蝦狄に授爵。
通史編2(近世1) (由緒書から)

また、兵庫屋佐兵衛の由緒書には兵庫の浦、笠島太平太の由緒書には越後出身の商人が認められ、特に、笠島氏の,先祖は、天正から文禄にかけて越後から津軽へ乗り込み、鰺ヶ沢を拠点として茶の販売を営んでいた問屋であったという
通史編3(近世2) (浄徳寺)

『新撰陸奥国誌』は、越後国(現新潟県)出身の仙休が寛永年間(一六二四~四三)にこの地に至り、慶安元年(
通史編3(近世2) (満行院)

満行院 満行院(まんぎょういん)は、「旧記録」(同前No.四一〇)によると、延宝五年(一六七七)に越後出身
通史編2(近世1) (検地の実施)

4月 9日 越後高田検地へ動員のため中止。検地役人江戸登り。,しかし、三月十九日、越後騒動で改易された、松平光長(みつなが)の領地であった越後高田領の検地を命じられたため
通史編3(近世2) (御用染屋堀越屋)

『津軽古今偉業記』(一九六三年 青森県叢書刊行会刊)の堀越屋軍兵衛の項によると、堀越屋軍兵衛は越後の出身
通史編1(古代・中世) (柵の設置)

渟足柵と同じものを指すという説、あるいはのちの出羽国と越後国との境である鼠ヶ関(ねずがせき)あたりとする,もっとも磐舟柵の比定地である村上市付近は、その北に大鳥屋岳を中心とする山塊があって、地形的にはここで越後平野
通史編4(近・現代1) (後藤象二郎の動向)

これを導火線に、後藤の大同団結運動は信州・越後・奥羽の各県を席巻し、さらに九月には埼玉・群馬・神奈川・
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

救小屋(すくいごや)は十一月の時点で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには
通史編3(近世2) (城下での生活)

昨日、私の組の足軽二人が飛脚となって越後(えちご)国(現新潟県)より到着。,二十六日、朝飯後に登城して木村杢之介と会い、越後より来た飛脚について相談。,二十七日、先日の越後よりの飛脚、今日越後へ出発。昼飯後に唐牛与右衛門のところへ行く。,今日、越後国より組の佐々衛門が来訪し、越後国で組の小頭源左衛門・左次兵衛が今月四日より病気になり、十一日
通史編1(自然・原始) (衣服)

材質は草本(アカソ・カラムシ・アサ)、樹皮(オヒョウ)を使い、製作の技法は新潟県地方に伝えられている越後
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

寛文九年(一六六九)の寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に際しての松前出兵、天和二年(一六八二)の越後高田領検地
通史編2(近世1) (材木移出)

一六六〇)から翌寛文元年にかけて、材木の積み出しを求めた船頭で、地名を冠した者を拾ってみると、加賀二木・越後,・加賀安宅(あたか)・十三・庄内・鰺ヶ沢・新保(越前)・越後今町と、津軽領内を除くと、おおむね越前より
資料編2(近世編1) (【解説】)

しかし天和二年三月、津軽家は、越後騒動で改易された松平光長(まつだいらみつなが)の領地であった越後高田
通史編3(近世2) (変わり塗と池田源兵衛)

虫喰塗(むしくいぬり)」など、変わり塗漆器が若狭の土産品(みやげひん)として書かれている(杉原丈夫他『越後若狭地誌叢書
資料編1(考古編) ((3)多様な技法)

当時の衣服には、一般的にカジノキ・コウゾ・シナノキ・カラムシなどの繊維が採取可能な植物を原材に、越後アンギン
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

とりもなおさず、越後方面、会津方面に加え、平潟からも政府軍が上陸し、戦線が同盟諸藩に迫っている時期である
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

幟(のぼり)・旗差物を用いた大名は、堀・蜂須賀両氏のほかに津軽氏のみであり(堀氏は、さきにみた奥羽・越後各氏,この包囲網に動員された奥羽・越後の各氏は、南部利直を除いてはほとんど上杉氏と領界を接するため、出陣を命
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●延暦二十一年(八〇二)正月十三日、越後国の米、佐渡国の塩を毎年、出羽国雄勝城に運ぶ。,●延暦二十二年(八〇三)二月十二日、越後国の米・塩、造志波城所に送る。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

慶長三年に越後から、陸奥国会津・出羽国置賜(おきたま)地方に転封してきた景勝は、秀吉死後の政治的に不穏,さない形勢だったことから、同月二十四日、家康は最上義光に対して朱印状を発給し、そのなかで陸奥・出羽・越後
通史編3(近世2) (戦線の北上)

しかし、慶喜は謹慎を決め、定敬は、分領のあった越後柏崎(かしわざき)へと身を寄せることとなった。
通史編4(近・現代1) (米取引の商況)

白米小売壱升ニ付、上等七銭九厘、中等七銭七厘、下等七銭五厘ナリ、仝月五日ヨリハ気候稍々適順ニ帰シ、且越後米
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

○〈槍術〉高田平右衛門正重(たかだへいえもんまさしげ)(生没年不詳)  越後国高田の出身である。
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

銚子築港普請役を命じた江戸幕府年寄衆・普請奉行連署奉書  また、慶長十九年(一六一四)に築城された越後高田城,の普請も、伊達・佐竹・南部ら東北・越後の諸大名に役賦課がなされている。
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

悲しむべし、悲しむべし」と記したのは、これまで国守が在地豪族から選ばれた例がないからであり(同時に、越後
通史編2(近世1) (漆の栽培奨励)

南部地方と違って津軽には漆掻(うるしかき)の技術が伝承されていないことからもわかるように、掻子は出羽・越後
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

米沢屋 仙台屋 南部屋 黒石屋 最上屋 8 2 2 1 1 1 北 陸 加賀屋 越後屋
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十八年(一六一三)十一月十八日、津軽信枚、幕府より越後高田城普請役を命ぜられる。,越後よりの入津米と幕府からの拝領米を領内に下付する。多数の餓死者あり。,●元和五年(一六一九)六月十七日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、津軽信枚の越後転封,同月二日、津軽信枚の越後転封の中止決まる。,越後より米穀を移入し、弘前にて救米一人四升五合を給付する。
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

…………  154   一 初代・二代藩政の動向 ………………………………………  154   二 越後,…………  230   一 四代信政政治の動向と支配機構の整備 ……………………  230   二 越後高田領検地
通史編3(近世2) (毛内宜応)

隠遁の身となり、水石糸竹を玩、詩碁を楽み」として、三河国の遊士白井秀雄(菅江真澄(すがえますみ))、越後国
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

一方、現在でも北陸地方という名称に名残をとどめているように、当時の方位観では北とは北陸から越後・佐渡方面
通史編2(近世1) (土着策廃止後の新田・廃田開発)

この呼び戻し策は、享和元年から行われているが、その範囲は非常に広範囲に及び、呼び戻し役の者は「秋田より越後路
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

日本の瞽女としては越後(現新潟県)の高田瞽女が有名だが、近世には各地に瞽女の集団が存在した。
通史編4(近・現代1) (和服と呉服商)

そのころ、市内の呉服店にはまだ呉服の陳列所などはなく、店の構えは錦絵に見る「江戸駿河町の越後屋」という
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

また、今村の息子勇吉郎が秋田・庄内・越後へ出張し、米・酒・籾(もみ)などを買い付け、雇い船二艘で庄内米一二
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

堺屋・尾張屋・丹波(たんば)屋・広島屋・備前(びぜん)屋・大和屋・若狭(わかさ)屋・越前屋・越中屋・越後屋
通史編2(近世1) (信義の襲封)

寛永十七年(一六四〇)から十九年まで続いた大凶作により、領内は飢饉(ききん)となり、十九年には越後(現新潟県
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

[八世紀] ●和銅二年(七〇九)三月六日、陸奥・越後二国の蝦夷に、征討軍派遣。,越後国に移し供給する。 ●延暦十四年(七九五)十二月二十六日、逃亡兵士を柵戸。
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

さんしんしちそう)とあり、そのうち七湊には越前三国・加賀本吉(もとよし)・能登輪島(わじま)・越中岩瀬(いわせ)・越後今町
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

基頼の指揮のもと、平泉藤原氏・越後城氏・常陸佐竹氏のような新興領主層が育成され、その時代に、まったく新
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

その理由は手伝普請とその前年に越後高田領検地を務めたためとされる。
通史編2(近世1) (本村と新田)

「元和年中御家臣姓名大概」(『津軽史 第八巻』一九七八年 青森県文化財保護協会刊)には、越後転封に際して
資料編2(近世編1) (【解説】)

一六一九)の福島正則改易(ふくしままさのりかいえき)に伴う福島正則の津軽への転封(てんぽう)と津軽氏の越後
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永禄五年(一五六二)十一月、越後上杉氏、檜山屋形下国安東愛季の好誼を謝するとともに、再び鷹を所望する,●永禄五~十二年(一五六二~六九)の間、越後上杉氏、秋田方面へ船を派遣し、秋田沿海の通過と諸浦出入の保証
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