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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
庄内)藩討伐応援部隊一大隊の総勢は五八〇人であったが、内、御目見以上の戦士は二二〇人にすぎず、あとは
足軽
,次に多いのは
足軽
の二二人であるが、中には五十~六十歳代の者もおり、戦争の悲惨さを物語っている。,歳 諸手
足軽
3石5斗4升 南部野辺地 永世15俵 家督は息子常次郎へ 15 大川豊太郎 24歳 諸手
足軽
,25歳 諸手
足軽
不明 箱館桔梗野 永世15俵 家督は息子へ(氏名不明) 22 斎藤東八 47歳 諸手
足軽
,33歳 諸手
足軽
3石5斗4升 箱館桔梗野 永世15俵 家督は息子源蔵へ 28 竹中範平 30歳 大組
足軽
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
津軽家でも
足軽
そのものが古くから存在したことはいうまでもないが、延宝元年に一二組の諸手
足軽
組が、また翌年十月,には二組の御先手組と御手弓
足軽
が設置され、また延宝三年春には郷
足軽
(ごうあしがる)が制度化され、在地の,
足軽
組再編によって、
足軽
組の編成は、大組
足軽
組(おおぐみあしがるぐみ)(御先手組、三組)・御持筒
足軽
組,(おもちづつあしがるぐみ)(御鉄炮
足軽
組、三組)・御旗
足軽
組(おはたあしがるぐみ)(二組)・諸手
足軽
組,郷
足軽
は別に郷
足軽
組が編成されたが、ほとんどが諸手
足軽
頭支配とされた(山上笙介『津軽の武士 1』一九八二年
通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
銃器の必要性を説いたとしても、彼らにとってそれは時節柄の心得程度にすぎず、銃隊・砲隊への編成化は主に
足軽
層,・武芸砲術引担 明治1.5 御用人兼 3 秋元蔵主 御軍政局評定方 御手筒
足軽
頭 150石外,100石勤料 諸手
足軽
頭 明治1.8 大組
足軽
頭兼務 4 三橋左十郎 〃 御手筒
足軽
頭 250,石 諸手
足軽
頭 明治1.8 御側御用人・御軍政局御用掛 5 貴田孫太夫 〃 御手筒
足軽
頭,200石 諸手
足軽
頭 6 館山善左衛門 〃 御手筒
足軽
頭 200石外50石勤料 諸手
足軽
頭
通史編2(近世1)
(裁判と判決)
ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(寺社奉行・郡(こおり)奉行・町奉行・勘定奉行)・徒(かち)目付・
足軽
目付,一種でその死体は新刀の斬れ味を試みる様斬(ためしぎ)りに使用される)のほか追放も申し渡され、牢奉行・
足軽
目付,はりつけ)・獄門(ごくもん)・斬罪のほか、鞭(べん)刑(敲(たたき))のうえ追放が申し渡され、徒目付・
足軽
目付,一七七四)ころからは、村のはずれや町のはずれで徒目付が追放などを申し渡すことも行なわれるようになり、
足軽
目付
通史編3(近世2)
(二等銃隊の補充と特質)
役方長男の一一九人、小普請(こぶしん)(御留守居組御目見得以下支配や無役・寄合(よりあい)などの役職)・
足軽
層長男,さらに、第1期では小普請・
足軽
層が当主から次、三男層に至るまでまんべんなく取り入れられていることがわかる,ことに長男、次、三男層は第2期・第3期では激減していることから、おおかたこの第1期に小普請・
足軽
層の銃隊編成,ただし、この階層は家臣団中最多であったが、当主・長男はすでに
足軽
銃隊・大砲隊として戦力化されており、その,小普請・
足軽
といえば藩士・藩卒とはいえ最下層の者であり、ましてやその子弟は武士としての心構えに疑問をさしはさまれていた
通史編3(近世2)
(出発)
一七二一)幕府が発した諸大名参勤道中の供人数制限令をみると、二〇万石以上は馬上(ばじょう)一五~二〇騎・
足軽
一二,〇~三〇人・中間(ちゅうげん)人足二五〇~三〇〇人、一〇万石以上は馬上一〇騎・
足軽
八〇人・中間人足一四,〇~五〇人、五万石以上は馬上七騎・
足軽
六〇人・中間人足一〇〇人、一万石以上は馬上二、三騎・
足軽
二〇人・,(1)先払いの
足軽
が、これまで「ひっこめー」と叫んできたが、今後は「下(した)におれー」と唱えるよう変更,富田町
足軽
町の枡形よりここまで、道の両側に並木松が植えられており、村の庄屋・手代が一行を迎えた。
通史編3(近世2)
(消防制度)
消防制度 藩庁の消防組織としては火消番があり、元禄四年(一六九一)の「非常の節詰場所の定」では大組
足軽
頭,(おおくみあしがるがしら)・持筒(もちつつ)
足軽
頭・諸手(しょて)
足軽
頭の三役が申し合わせて、一組が定,(一七〇八)の「弘前火事の節合図の定」によれば、「鐘撞堂(かねつきどう)」(現市内森町)では火の見の
足軽
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
おうままわりくみがしら)(番方の役職)が申し合わせのうえ、一人ずつ交代で詰め、物頭(ものがしら)(武頭、
足軽
,この座敷には、御旗奉行・御持鑓(おんもちやり)奉行・大組
足軽
頭(おおくみあしがるがしら)・御持筒(おんもちつつ,)
足軽
頭(いずれも番方)のうち一人が、午後二時から翌朝八時まで宿直する。,さらに歩行(かち)(徒)目付・
足軽
目付(ともに用人や大目付・目付の指揮下にあり、藩士の行状を監察し、非違,在国中御番免除の役は、留守居組頭・城付
足軽
頭(しろつきあしがるがしら)・手弓頭(てゆみがしら)・手筒頭
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
人 備 考 番 頭 1 与 力 10 組 頭 2 平 士 30 物 頭 2 警固
足軽
,10 弓
足軽
20 鉄炮
足軽
30 手筒
足軽
10 うち2人警固 旗奉行 1 旗差之者
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
周辺の勤皇諸藩に進攻を開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内藩兵と衝突し、
足軽
頭成田求馬以下九人,一等銃隊)・表御書院番銃隊(二等銃隊)・第一等予備銃隊・中小姓組・徒士組と、前線に出動する三等銃隊・
足軽
銃隊,・
足軽
大砲隊・小荷駄方などに、明確な役割分担が生じたのである。,たとえば、番方当主はわずかに一人であり、小普請・
足軽
層が一二四人とこれをカバーしてはいるものの、彼らの
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
北には水の防御はないが、
足軽
町・歩者(かち)町(若党町)・小人町があって防御を固めている。 ,
足軽
・小人といった下級武士も城下の南北端に配置され、南溜池のすぐ北に
足軽
町があった。,現下白銀町)、下片原町(現下白銀町東側堀端)、志(し)わく町、親方町、大工町、新かち町、志(し)けもり町通、
足軽
町,
足軽
町(現若党町と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
代官経験者かもしくは検地業務の経験者)、算用者二〇人(勘定の者の中でも算用達者で、掛算引算の巧者)、郷
足軽
,(雨具持)二〇人、物書二〇人(中小姓、歩行、
足軽
、町人・百姓、家中の子息でもよい)、竿打二〇人(大組・,小組
足軽
の内から)などと、それぞれの役に求められる要件を伝え、その役にふさわしい人材を選び出し派遣するよう,黒滝太郎右衛門
足軽
目付 12 〃 小笠原十兵衛 〃 13 絵師 上村半兵衛 絵師 14,役 職 氏 名 本来の役職 新規召抱 備 考 33 物書 三島村弥次右衛門 郷
足軽
34 〃
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
つである従者確保について触れたところであるが、百姓は郷夫(ごうふ)として動員させられていたのであり、
足軽
,寛政十一年の東蝦夷地仮上知の際に当藩が用意した
足軽
五〇〇人の大半は町人・職人・郷夫であり、無苗字であることが,不都合であることから、以後職人・郷夫といった名目をやめ、勤番中は
足軽
として苗字を与えているのは、このことをよく,沿岸警備については本章第五節二で詳しく述べるが、文化四年五月から「外浜固(そとがはまがため)」として三厩に
足軽
通史編2(近世1)
(東蝦夷地直轄下の勤番体制)
これにより、両藩はそれまでの箱館勤番を免除され、ともに重役を二、三人、
足軽
を五〇〇人ずつ派遣し、元陣屋,津軽弘前藩はこの幕命に基づき、翌十二年三月には物頭三人・勘定人二人・作事方一人・医者二人・
足軽
五〇〇人,なお、派遣された
足軽
のほとんどは、郷夫(ごうふ)として動員された百姓や職人であり、本来の軍団編成ではなかった
通史編2(近世1)
(金木屋日記にみる対外危機)
続いて日記では、松前家はこの派兵のため
足軽
を新規に三〇〇人ほど雇い、軍備に支障が出ないようにしているが,、津軽家でも蝦夷地警備のため
足軽
の待遇改善に努め、家禄二〇俵の者を三〇俵にしたり、御持鑓(おもちやり),や長柄(ながえ)の者を
足軽
に取り立てているという。
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
藩では早速、松前から連絡がありしだい加勢人数を派遣することを決定し、その際には、鉄炮
足軽
・小知行二五人,この出兵規模案は、鉄炮隊中心の、指揮者を
足軽
頭・物頭一人ずつという小人数であった。 ,ところが、幕府が津軽弘前藩に出動を命じた人数は侍と
足軽
四、五〇〇人であり(資料近世1No.八二一)、藩,2 24 旗差組頭 2 警固 5 5 6 警固とは小頭のことで
足軽
,小知行小頭 2 組士 36 149 旗差 10
足軽
通史編3(近世2)
((三)日常生活)
添田は、延宝二年に大組
足軽
頭(おおくみあしがるがしら)、天和二年には馬廻三番組頭となり、元禄十年(一六九七
通史編3(近世2)
(能楽)
二日には城内各所に徒目付・
足軽
目付・
足軽
を配置し、
足軽
の中から特に火消番を命じて警備に当たらせた。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
耕春院門前は西茂森町、裏門前は茂森新町、貞昌寺門前・報恩寺門前・万能寺門前は北新寺町、大矢場は新寺町新割町、
足軽
町,は富田町、普光寺跡門前は住吉町、和徳
足軽
町・薬王院・薬王院門前町は和徳町、座頭町は小人町、神明宮社家は
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
この後、城下の大きな変化は、宝暦五年(一七五五)八月に、富田村に
足軽
町が成立したことである(『記類』),紺屋町支配・亀甲町支配の一二の町支配および寺社門前軒数目録が記載されているが、富田町とは前述の富田村の
足軽
町
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
この年には、和徳町北端に
足軽
町を設置し、桝形が設けられている。 ,このほか、亀甲町角に御蔵、
足軽
町和徳町口に桝形、南袋川岸町(現西大工町)、古堀町、茶畑町、川端町などが
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
第四に新土手町の延長がみられ、南西・北東の両側に
足軽
町の取り立てがなされたこと。,しかし、万治の絵図にみえていた新土手町の南西・北東側にあった
足軽
町はこの絵図にはみえない。,精細画像で見る 次いで元禄八年(一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士・
足軽
通史編3(近世2)
(改革開始以前の状況)
元治元年(一八六三)には一〇〇石以上の上士にゲベール銃が配布され、さらに慶応元年(一八六五)三月に入り、
足軽
隊,不可欠の利器であり、それは臆病とか剛胆にかかわりなく、まったく便利な機器であるなどとして、鉄砲などは
足軽
通史編3(近世2)
(盗賊の横行)
対する取り締まりは乞食手の扱いであったが、数十人、百人にもなったら乞食手による統制がきかず、大組諸手
足軽
通史編3(近世2)
((三)住居)
下級武士は身分・職掌によってまとめられ、さらに軽輩である
足軽
・小者(こもの)などは武家町から離し、町人町
通史編2(近世1)
(流民の発生と施行小屋の設置)
は施行小屋に代えて楮町(こうじまち)に新たに「非人(ひにん)小屋」(のち施行小屋と再び改称)を作り、
足軽
,ほかにも屋敷から盗みを働いたりする事件が頻発し、藩は大組諸手
足軽
をいつでも派遣できるよう、警備体制を強化
通史編3(近世2)
(一一代順承の治世)
合計三〇〇人の藩兵が派遣され、その人員を確保するために、家中の御持鑓(おもちやり)・長柄(ながえ)の者を
足軽
,に取り立てたり、
足軽
の家禄を大幅に改善したり、さまざまな手段を講じた。
通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
ここまでが小隊の指令部であり、さらに行軍を円滑にするため
足軽
から鼓手が配置されている。,石郷岡権蔵 〃 3人扶持勤料 御馬廻無足組 5 広島助吉 鼓手 30俵2人扶持 諸手
足軽
,、これを丹念にみていくと、軍制改革全期を通じて二等銃隊頭は四三人任命されており、その藩内役職の内訳は
足軽
頭六
通史編2(近世1)
(続発する強訴の動き)
、この猿賀組の強訴の首謀者の逮捕のために、同二十七日、今重助の指揮のもと、唐牛甚右衛門の門弟一一人と
足軽
一
通史編3(近世2)
(藍)
軍用の一例として、「国日記」天和三年(一六八三)閏五月三日条には、
足軽
用羽織一〇〇〇人分の木綿地と染め
通史編2(近世1)
(正徳から天明にかけての大名課役)
図51.江戸城主要城門 表6 江戸城門番の格と人数 番号 門 格 人数(人) 給人 侍
足軽
,神田橋門は江戸城の大手前を固める門の一つであり、給人五人・侍三人・
足軽
三五人・中間二七人の計七〇人が詰
通史編3(近世2)
(軍制への戸惑いと浸透)
たとえば、弘前藩は明治元年四月十六日に奥羽鎮撫総督府より庄内討伐援兵命令を指示され、同二十一日に
足軽
頭松野栄蔵,のものであったが、閏四月上旬に出撃予定とされたこの派兵は、実行段階で御留守居組頭山崎所左衛門を大隊長とし、
足軽
銃隊
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
銅屋町 大円寺并元門前町 川端丁 右取扱 右同 三上虎平太 同小三区 土手町 松森町 富田町
足軽
町,御徒町 同川端町 徳田丁 萱丁 南横丁 北横丁 山下丁 片山丁 植田丁 柳丁 緑町 坂本丁 和徳町 同
足軽
町
通史編2(近世1)
(文久の面改め)
なお、生活に困窮した下級武士・
足軽
の妻女が、内職同様に青物(野菜類)を触れ売りして処分されている例が「,彼らへ仲買同様に青物を買い集め、売り渡していた
足軽
も同様に処分されている。
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
漆奉行は用人支配であり、定員は八人前後で、
足軽
隊の古参組頭クラスが命じられていたようである。,さらに漆掻きが行われるときには、漆奉行の他に
足軽
目付や
足軽
組頭から命じられた漆掻き立ち会い目付が領内を,一方漆の実の採取は最初は
足軽
組頭などが農民を使役して採取していたとみられるが、その後漆実取奉行には手廻組
通史編2(近世1)
(情報収集活動)
さらに、
足軽
目付・小知行組頭のうち、一月に二、三度、二人ずつ松前に派遣するように、また青森・鰺ヶ沢の両浜
通史編3(近世2)
(弘前藩の出兵)
また、二十日には、二等銃隊頭和嶋安左衛門(やすざえもん)が一小隊を率いて、二十三日には諸手(しょて)
足軽
頭
通史編3(近世2)
(出開帳)
藩庁では辻札を立てさせ、
足軽
番所二ヵ所をつくり、昼の内だけ
足軽
六人に張番をさせた。
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
日条の相撲対戦成績 勝 負 早川 東光寺村七兵衛 同人 胡桃館村助七 同人 後潟村弥兵衛 稲妻 大組
足軽
,御旗の者とは、もとの旗本衆で、手廻衆ともいった御旗参士であり、延宝八年(一六八〇)、
足軽
二八組に改編した,時、御旗
足軽
組の二組五〇人は御旗奉行の配下となった(山上笙介『津軽の武士1』一九八二年 北方新社刊)。
通史編3(近世2)
(切支丹類族)
この時、徒目付・
足軽
目付が検使となり、町年寄・町名主・月行事が立ち会い、死体は古箱に入れ、蓋を釘付にし
通史編2(近世1)
(民次郎一揆)
この以前から、前述のような百姓の動きがあったので、藩は警戒のため大組諸手
足軽
の内一〇人を各御用番宅に詰
通史編3(近世2)
(藩兵の整理)
まず、明治二年六月十二日の段階での藩兵数は、
足軽
を除いて二二七二人にも上った。
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
「秘苑」では、城下の荒廃した状況を、上級家臣の屋敷跡に
足軽
小人や小給の者たちがわずかな家作をして住居している,に住居できない者については引き移ることとし他の町に代屋敷を与える、これまで御家中町に住居していた諸組
足軽
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
野内(現青森市野内)といった領内の主要地には、町奉行が「浦奉行」という名目で、湊目付・平士・横目付・
足軽
,黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人 番士 番人 下番
足軽
通史編2(近世1)
(天明期の借り上げと寛政期までの状況)
天明三年(一七八三)十一月三日、知行・切米・扶持方の別を問わず、一律に一日一人四合の支給とし、
足軽
・小者
通史編3(近世2)
(城下での生活)
昨日、私の組の
足軽
二人が飛脚となって越後(えちご)国(現新潟県)より到着。,唐牛甚右衛門へ
足軽
の一日の勤務人数の書付けをみせたが一一四人である。,
足軽
どもの勤番を今後大組の勤務場所四ヵ所にするよう唐牛甚右衛門が命じられた。午後六時出番。
通史編2(近世1)
(「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)
〇〇人、さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手、
足軽
通史編2(近世1)
(藩士対象の司法制度)
また幕府と異なり、その適用は御目見以上の藩士とはかぎらず、家老から
足軽
級までかなりの幅があった。
通史編2(近世1)
(下級藩士への開発奨励(I期))
つまり「小知行」は開発の功によってその土地を知行地として与えられ、郷
足軽
からさらに上級の藩士に取り立てられる
通史編3(近世2)
(毛内宜応)
宝暦八年家督三〇〇石を継ぎ、
足軽
頭を務めたが、天明二年に病身を理由に御役御免を願い隠居を申し出た。
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