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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (農民組合の結成)

農民組合の結成 大正年間は、中津軽・南津軽の二郡は稲作の先進地で、その上りんご兼業地帯として農業近代化,大正十一年(一九二二)四月には、日本農民組合が賀川豊彦・杉山元治郎らを中心として組織された。,一方、これとは別の体系をとって日本農民組合関東同盟(日農)が十一月創立された。,大正十五年三月の第五回大会で、運動方針をめぐって左右両派が対立、右派の平野力三らが脱退、新たに全日本農民組合同盟 / 農民組合の結成
通史編4(近・現代1) (青森県の農民運動)

実態は農民組合である。,岩淵氏から農民組合設立の腹案を聞いていましたので、いちおう実態調査をしたかったからでした。,我々は貴き処の日本農民組合の力によりて、我々農民は生きるのであります。,を組織して地主と戦ふは我々の仕事であるといふ事を知ったのでありますから、小生は大(ママ)一に農民組合に,下湯口の集落では昭和十年代に村の役員を何期も務め、戦後は農民組合の活動家として活躍した。
通史編5(近・現代2) (指導者・石岡彦一)

指導者・石岡彦一 農民組合の出した声明書によると、相馬村の一件は次の状況だった。,ないものまで取り立てる地主に対して、農民組合に団結して小作料五割減を要求した。,この昭和六年九月、石岡彦一は全国農民組合本部へ次のような手紙を書いている。,写真89 清水農民組合(昭和23年頃)(矢印が石岡彦一、最前列左端から三浦勝三郎・大沢久明・田村文雄・
通史編5(近・現代2) (無産政党の結成)

さらに、日本農民組合は、より包括的な立場から無産政党の樹立に動き、大正十四年十二月一日、わが国最初の無産政党,そこで、日本農民組合と官業労働総同盟は反共路線を打ち出し、大正十五年三月五日、大阪で労働農民党を結成した
通史編5(近・現代2) (小作争議と地主制)

とする農民らは、大正十一年(一九二二)、「土地を農民へ」、「小作料の永久減額」をスローガンに掲げ、日本農民組合,しかし、昭和三年(一九二八)の「三・一五事件」で打撃を受けた日農は、同年五月全国農民組合(全農)を再結成,写真43 第13回全国農民組合大会で活動を報告する岩淵謙一(昭和9年)  しかし、昭和期に入ると,青森県における小作農民組合は、大正十三年(一九二四)九月、西津軽郡車力村に岩淵謙一、謙二郎の兄弟によって
通史編5(近・現代2) (農民運動の変質)

あっせん)で対立を解消したが、十三年、全農は戦時体制のもと方向転換を行い、小作組合型を放棄、二月六日大日本農民組合
通史編5(近・現代2) (凶作と小作争議)

経済界の不況は、地主による土地返還要求や売却、競売処分をもたらし、小作人の自覚向上、農民組合の発達は争議
通史編5(近・現代2) (争議の発端と経過)

副会長高樋竹次郎(土木建設業・津軽実業新報社長)、長谷川忠蔵(黒石消費組合長・新聞社長)、理事柴田久次郎(労農党・農民組合指導者
通史編5(近・現代2) (全農青森県連合大会)

写真90 全国農民組合県支部連合会第7回大会(昭和10年)  資本主義の矛盾が生んだ農業恐慌は「
通史編5(近・現代2) (総選挙での戦い)

のち弁護士となり、労農党本部や日本農民組合の顧問弁護士を務めた。, 昭和3年12月の新労働農民党結成大会(矢印が堀江彦蔵)  翌四年三月四日、大阪で開かれた全国農民組合大会
通史編5(近・現代2) (りんごの唄と空前のりんご景気)

写真124 中弘農民組合、税金闘争勝利後の観桜会  昭和二十七年(一九五二)九月から十月にかけて
通史編4(近・現代1) ((四)津軽における社会主義勢力の伸長)

しかし、西郡車力村では、大地主で貴族院議員に当選したばかりの鳴海周次郎が、農民組合の候補者に敗れて次点落選
通史編5(近・現代2) (県内の社会運動の状況)

本県の農民組合は、全国的な無産運動沈滞の中にあって、新潟に次ぐ勢力を維持していた。  
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