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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (児童の船沢村農耕地開墾)

児童の船沢村農耕地開墾 二十年(一九四五)五月に至って食糧不足はいっそう深刻になり、小学校児童も食糧増産,県は中津軽郡船沢村の岩木山麓(現弘前市弥生地区)に農耕地を開墾、一般入植者のほかに国民学校児童による食糧増産,を図り、弘前市内各国民学校に農耕地を割り当て、中津軽地方事務所を通じて次の通牒を発した。   / 児童の船沢村農耕地開墾
通史編1(自然・原始) (弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)

弥生文化の伝来と稲作農耕の開始 約一万年の長きにわたって続いた縄文時代も、今を去る約二三〇〇年前のころになり,、南から伝播して来た新しい弥生文化が徐々に浸透し、やがてその文化の有する稲作農耕の技術を学び、次第に縄文文化,コメは伝来し、その終末のころにはすでに栽培を開始していた証拠が北九州で確認されているが、大規模な稲作農耕 / 弥生文化の伝来と稲作農耕の開始
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

さらに、古墳時代後期から奈良時代併行期には、農耕を生業とする集団によって拠点的に集落が形成された。,津軽地方では、続縄文文化末葉の北大式土器の存在が希薄になるが、北大Ⅰ式土器が太平洋側の農耕文化圏である,石狩低地帯を中心とする地域でも採集・狩猟を基盤とする文化と、農耕を基盤とする文化、この両者の交流によって,成立した混交文化圏の介在によって、おそらく北大Ⅱ式の時期には農耕文化の受容態勢が整えられていったと思われる,系譜が希薄になる続縄文・土師器混交文化の時代を「原エミシ文化の時代」と呼び、古墳時代後期から奈良時代の農耕文化
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

弥生文化の内容 先述したごとく、弥生文化には稲作農耕のほかに金属器も加わっている。,西日本から稲作農耕を伴って到来した弥生文化は、縄文文化の強い東北北部の地に入ると、さまざまな変革をもたらしたであろう,しかしながら、現在までに発見された遺構・遺物の範囲では、農耕の存在と金属器の受容を推定する程度であって,まして約二〇〇〇年をさかのぼる弥生時代に、この寒冷な地で稲作農耕に挑戦した先人の労苦はいかばかりであったろう,やがて気候の寒冷化が激しくなって稲作農耕をあきらめ、狩猟・採集に戻るか、あるいは南方への移住がなされたのであろう
資料編1(考古編) (第3節 弥生時代)

第3節 弥生時代 縄文時代に続く弥生時代は、稲作農耕を主体とした土地を基盤とする経済社会であり、したがってこの,弥生時代は、一般的な理解として、前述の稲作農耕のほかに鉄器や青銅器など金属器使用の開始、織物の出現、ガラス
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

弥生文化と続縄文文化 稲作農耕を生産基盤とする本州の弥生文化に併行する時期に、北海道地方に展開した縄文文化以来,東北地方北部における弥生時代後期以降の遺跡数減少は、気候寒冷化によって稲作農耕が後退し、人口が減少したことを,日本列島の北に位置する津軽地方における稲作農耕の導入は、土器に施された文様の特徴などからもわかるように,したがって列島最北の稲作農耕民は、気候の寒冷化によって、稲作に代わる生計戦略を模索することなく在地を放棄,東北地方北部で稲作農耕が行われていたころ、北海道地方で続縄文文化を形成した人々は弥生文化の影響を享受(
資料編1(考古編) ((1)7・8世紀)

この理由については、弥生時代後期に始まった気候寒冷化により衰退した農耕が、この時期の気候温暖化によって,すなわち、土地を基盤とする農耕が一定の土地への定住化を促した結果、竪穴住居群の集合体としての集落跡として,かまどは古墳時代前期から中期にかけて、朝鮮半島からの影響で作られたもので、農耕文化の象徴とも言える施設
通史編1(自然・原始) (津軽への稲作の伝来)

弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、東北北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ稲作農耕,北九州などで大規模な稲作農耕の開始期と東北北部とは遅くみても一世紀の差であり、ことによるとその差は縮小
通史編3(近世2) (施行小屋の閉鎖)

そのうち孤独な者一三人には米一斗五升、銭五文目ずつ与えられ、農耕に従事するよう指示されている。
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

弥生時代に東北地方北部地域を含めた広域に展開する文化と見られたが、今日では、砂沢遺跡や垂柳遺跡など、稲作農耕,この続縄文文化は、稲作農耕を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその,青森県では、弥生時代後期ころに始まった気候寒冷化に伴い、稲作農耕の衰退とともに、この北海道続縄文文化の
資料編1(考古編) (3.砂沢遺跡)

恐らく稲作農耕の技術は、我々の想像を超えたスピードで伝わり、従来考えられていた紀元後1世紀以降との説を
通史編1(古代・中世) (北東アジア人の渡来)

北東アジア人の渡来 ところが稲作農耕が日本列島に持ち込まれた弥生時代になって、人口が急増する。
通史編1(古代・中世) (擦文文化の特徴)

顕在的な物質文化の面では、日常容器としての土師器を指標とする農耕文化の生活様式を大幅に採り入れているが,)・食用植物などの採取といった採集経済を基盤としながら、アワ・ソバ・ヒエ・キビなどの雑穀類を主とする農耕
通史編3(近世2) (中村善時)

ここには老農たちから聞いて学んだことや、自らの体験に根ざした農耕の知恵や技が、「風土」「気候」「農事」
資料編1(考古編) (-農具-)

-農具- 古代の農耕具としては鋤・鍬・鎌が出土している。
通史編1(古代・中世) (ふたつの広域火山灰)

ふたつの広域火山灰 七・八世紀代に散在的に展開した農耕集落は、八世紀末から九世紀に入ると面的な展開をみせ
資料編1(考古編) ((8)馬産と関連遺物)

馬は農耕等の使役のほか、軍用あるいは交易物資として重要な役割を果たしたものと考えられる。  
通史編2(近世1) (「不作」と本百姓体制―貞享検地の前提―)

経営規模の違い、労働力に即していうと、協業的な組織力の大小などによって両者が規定され、それが「御百姓」間の農耕,新検已前諸品上納之事」(資料近世1No.八四五)によれば、当時は一般的に「不作」が起きており、また、過重な夫役が農耕
資料編1(考古編) (4.垂柳遺跡)

砂沢と垂柳の両遺跡では、稲作農耕に関する諸道具(例えば耕作具や石包丁など)は見られない。,したがって、当地方では稲作農耕を推進しつつあったにせよ、西日本に見られるような集落を単位とする組織的な
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

たとえば木造町石上神社遺跡などのような岩木川水系の平野部の微高地上に稲作を生業とする開拓集落が展開し、農耕社会
通史編1(古代・中世) (北日本の地域差)

とくに、津軽地域の城館のなかでも平野部と海岸部では出土陶磁器に違いはないものの、農耕具や狩猟具といった
通史編2(近世1) (土着策の展開と農村)

このような状況は、裏を返せば、在宅者の農耕従事が藩の予測に大きく反したものとなっていたことを示している,単にその生活を維持するには、あえて農耕従事の必要はなかったのである。
資料編1(考古編) (2.弥生時代の初期稲作について)

縄文時代晩期後半期に北九州で開始された稲作農耕は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

東北地方のこの時代のなかで、東北地方北部では三世紀末から四世紀前半代には、弥生時代の指標であった稲作農耕
資料編1(考古編) ((2)9世紀~10世紀前半)

一部には沖積平野の微高地上や、山間部に進出するものも認められ、稲作農耕の発展による耕地の拡大化が指摘される
通史編5(近・現代2) (当局による移民の促進)

また農耕開拓を通じて勤労奉仕を実践し、青年訓練と大陸認識の付与を兼ねていた事業でもあった。  
通史編4(近・現代1) (米作奨励と栽培管理)

写真17 三上仙年「四季農耕図襖絵」
資料編1(考古編) (5.青森県における弥生時代の終局)

恐らく彼らが稲作農耕を営むのは技術的に無理であり、かつての弥生時代前・中期に行われていた稲作は、後の平安時代
通史編1(古代・中世) (穢・祓と境界の地)

「日ノ本・唐子ノ二類ハ其地外国ニ連テ、形躰夜叉ノ如ク変化無窮ナリ、人倫・禽獣・魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕
通史編1(古代・中世) (本州の擦文文化の実態)

本州においては、米をはじめとする穀類の存在が知られており、この地域で擦文土器を製作・使用した人々も農耕
通史編1(自然・原始) (砂沢遺跡)

・砂沢遺跡の完掘した2号水田跡  垂柳ならびに砂沢遺跡の水田跡発見により、東北北部の地でも稲作農耕
通史編5(近・現代2) (弘前実科高等女学校の変遷)

写真73 農耕作業に出る弘前市立弘前高等女学校生(昭和18年頃)  十八年には弘前市立弘前高等女学校
通史編1(古代・中世) (古墳文化及ばぬ北の世界)

を守り、稲作を好まない人々の住む地帯もあったであろうから、弥生時代の段階からそうした続縄文的な非稲作農耕地域社会
通史編1(古代・中世) (平安時代の律令祭祀)

また、古代史上でも議論の多い、いわゆる殺牛馬信仰は、雨乞いなどの農耕儀礼にかかわるものとする説と、怨霊
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

 弘前市立図書館蔵 118 奥民図彙 国立公文書館蔵内閣文庫 119 弘前市教育委員会 120 四季農耕図屏風, 坂本賢一氏蔵 121 同上 122 四季農耕図屏風 坂本賢一氏蔵 123 奥民図彙 国立公文書館蔵内閣文庫
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

の土師器の影響を強く受けて成立した土器の名に由来する文化で、石器が消滅して本州からきた鉄器が普及し、農耕
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

このほか、初期稲作農耕と密接な関係を持つ遠賀川式系土器も出土しており、遺跡の立地を考慮すると、稲作農耕
通史編1(古代・中世) (環壕集落の構造と年代)

環壕集落の構造と年代 九世紀代に発達をみる津軽地方を中心とする東北地方北部の農耕文化は、一〇世紀代には
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

農耕従事によって、小給の下級家臣らの困窮脱却を企図したものであり、天明四年令と本質的な違いはない。
資料編2(近世編1) (【解説】)

部分 四季農耕図屏風…平尾魯仙画(六曲一双、市立博物館蔵)
通史編1(古代・中世) (津軽地方の古代信仰)

当時の県東側地域にあっては、馬が極めて重要な交易の対象であったという状況から考えると、全国的に展開する農耕儀礼
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

このような蝦夷地への百姓の動員は、労働力不足となって直接的に農耕に影響を与えるとともに、動員されないまでも
通史編3(近世2) (藩から県へ)

とされていたが、実際に来着してみると、実高は六〇〇〇石程度で、ほぼ着の身着のままで移住してきた藩士たちには農耕
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

1979年3月 *119 *114に前掲 *120 *114に前掲 *121 中尾佐助 『栽培植物と農耕,における弥生文化」(伊東信雄先生追悼 考古学古代史論攻) 1991年3月 *151 巌文明 「中国稲作農耕,の起源と展開 日本における稲作農耕の起源と展開」(日本考古学協会設立40周年記念シンポジューム-資料集
通史編1(自然・原始) (新編 弘前市史 通史編1(自然・原始) 目次)

……  350   一 遠賀川系土器の伝来 …………………………………………  350   二 稲作農耕
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

………  100 第四節 考古学からみた平安時代の津軽 ……………………………  105    一 農耕社会
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

 「青森県北津軽郡市浦村相内福島城址」(館址) 1958年 *33 井上久 「津軽地方における先史農耕,(青森県埋蔵文化財発掘調査報告書第20集) 1974年 *111 石附喜三男 「擦文式文化における農耕作物
資料編3(近世編2) (【解説】)

この政策は、生産を支える水利関係の整備や、農耕従事者の確保策をともなったことから一定程度の成果を収めることになるが
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