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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(近世の十三湊)
通史編2(
近世
1) /
近世
の十三湊
近世
の十三湊(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,十三湊の再建もしくは再興が、領主権力が上方から連れてきた城下特権商人によってなされたという(長谷川成一『
近世
国家 /
近世
の十三湊
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
通史編2(
近世
1) /
近世
初期海運 さて西津軽郡深浦町の圓覚寺(えんかくじ)(真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは))は、,この絵馬は、
近世
初期海運の実態を知る上で重要である。,北国船とは、
近世
初期から前期にかけて羽賀瀬(はがせ)船と並んで、日本海海運の主役として活躍した廻船であった,加えて
近世
初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも,出羽地方の諸藩と同様に、
近世
初期から弘前藩の御蔵米の払い方は、主として京都・大津で行われていたのであった /
近世
初期海運
通史編3(近世2)
(近世漆工芸の発展)
通史編3(
近世
2) /
近世
漆工芸の発展 慶長八年(一六〇三)、徳川家康は江戸に幕府を開き、幕藩体制をつくり上げた。,半田市太郎は『
近世
漆器工業の研究』(一九七〇年 吉川弘文館刊)に、次のように書いている。 /
近世
漆工芸の発展
通史編2(近世1)
(近世大名と大名課役)
通史編2(
近世
1) /
近世
大名と大名課役
近世
大名にとって軍役(ぐんやく)負担とは、領地の宛行(あてがい)や安堵という将軍家,拙稿批判によせて―」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、笠谷和比古「幕藩関係概論」同『
近世
武家社会 /
近世
大名と大名課役
通史編2(近世1)
(近世最後の大飢饉)
通史編2(
近世
1) /
近世
最後の大飢饉 幕末に近い天保三年(一八三二)から、同九年(一八三八)まで断続的に続いた「天保の飢饉 /
近世
最後の大飢饉
通史編2(近世1)
(近世における史書の編纂)
通史編2(
近世
1) /
近世
における史書の編纂 津軽弘前藩が編んだ官撰史書として、現在我々が知っているのは、享保年間に編纂された,の記述は主として、長谷川成一「津軽藩藩政文書の基礎的研究(一)」『文経論叢』一五―一・文学科篇、同「
近世
東北大名 /
近世
における史書の編纂
通史編2(近世1)
(近世中期の三人の藩主)
通史編2(
近世
1) /
近世
中期の三人の藩主 宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、 /
近世
中期の三人の藩主
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
通史編2(
近世
1) / 新編弘前市史 通史編2(
近世
1) 目次 まえがき
近世
専門部会長 長谷川成一 …………………,………… 192 三 家臣団の成立と知行宛行 …………………………………… 200 第四節
近世
前期 / 新編弘前市史 通史編2(
近世
1) 目次
通史編3(近世2)
(新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)
通史編3(
近世
2) / 新編 弘前市史 通史編3(
近世
2) 目次 序 凡例 ……………………………………………………… / 新編 弘前市史 通史編3(
近世
2) 目次
年表・索引編
([年表(近世以前)])
[年表(
近世
以前)] [年表(旧石器時代~天正十九年) 蝦夷・津軽・奥羽関係] [年表(文禄元年~ / [年表(
近世
以前)]
通史編1(自然・原始)
(四 津軽地方災害年表(古代~近世))
四 津軽地方災害年表(古代~
近世
) [津軽地方災害年表(古代~
近世
)] / 四 津軽地方災害年表(古代~
近世
)
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
資料編3(
近世
編2) / 新編 弘前市史 資料編3
近世
編2 目次 ■口絵 ■序 はじめに ………………………………………… / 新編 弘前市史 資料編3
近世
編2 目次
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
第1節 中世・
近世
遺跡の概観 中世・
近世
遺跡の概念を考古学資料から見ると、日常生活容器として陶磁器が,流通するようになる年代以降を中世(時代区分の問題はあるが)・
近世
と考え、概ね12世紀から18世紀ころまでを,青森県における中世・
近世
の遺跡を見ると、そのほとんどは昭和50年代以降に調査された遺跡であり、表採品も,表1 青森県中世・
近世
遺跡一覧*1 No. / 第1節 中世・
近世
遺跡の概観
資料編2(近世編1)
(新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)
資料編2(
近世
編1) / 新編 弘前市史 資料編2(
近世
編1) 目次 ■序 はじめに ………………………………………………… / 新編 弘前市史 資料編2(
近世
編1) 目次
資料編1(考古編)
(第3節 中世・近世の住居と集落)
第3節 中世・
近世
の住居と集落 12~18世紀までの遺跡調査による住居は、掘立柱建物跡と竪穴建物跡が,表1から、青森県内における中世・
近世
遺跡の建物跡検出事例を見ると表2のようになり、高橋與右衛門の整理を / 第3節 中世・
近世
の住居と集落
資料編1(考古編)
(第2節 中世・近世の考古学研究略史)
第2節 中世・
近世
の考古学研究略史 ここで若干の研究史を概説してみたい。,最初に青森県の中世・
近世
遺跡を考古学的な視点でとらえたのは、中谷治宇二郎である。,号バイパス建設に基づく緊急調査として始まり、路線内の一部調査ではあったが、検出遺構・出土遺物は中世・
近世
,が報告され*15、他に浪岡町源常平遺跡・同杉ノ沢遺跡・黒石市浅瀬石遺跡・同高館遺跡でも中世・
近世
関係の,このように、県内の中世・
近世
遺跡の調査が増大するにしたがって出土陶磁器に対する関心も高まったころ、金沢大学 / 第2節 中世・
近世
の考古学研究略史
通史編2(近世1)
(まえがき)
通史編2(
近世
1) / まえがき
近世
専門部会長 長谷川成一 ここに、『新編弘前市史』通史編2(
近世
1)を,本市史における
近世
の通史編は、通史編2と同3の二巻から成り、全八章で構成した。,、大浦氏の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心とした
近世
津軽地方,我々は、すでに『新編弘前市史』資料編2・3(
近世
編1・2)を刊行して、資料に基づいた
近世
津軽領の歴史的,した資料を踏まえつつ、刊行後、新たに見つかった資料類や、二〇〇一年に刊行を開始した『青森県史』資料編
近世
資料編1(考古編)
(第4節 中世・近世の生活用具)
第4節 中世・
近世
の生活用具 遺跡から出土する生活用具を見ると、その素材から分類する方法と機能から分類 / 第4節 中世・
近世
の生活用具
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
通史編2(
近世
1) /
近世
初期の段階では、敦賀の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運,それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「
近世
,また、
近世
前期までの津軽と上方との交易品としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、上方からは,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか
近世
初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も
通史編2(近世1)
(凡例)
通史編2(
近世
1) / 新編弘前市史』通史編は全五巻で構成し、本巻はその第二巻として、十六世紀後半からおおむね十九世紀中葉まで、
近世
津軽領,□・資料古代中世□頁、『新編弘前市史』資料編2(
近世
編1)……資料
近世
1No.,□・資料
近世
1□頁、『新編弘前市史』資料編3(
近世
編2)……資料
近世
2No.,□・資料
近世
2□頁、津軽歴代記類……記類、津軽藩旧記伝類……伝類、津軽徧覧日記……徧覧日記、封内事実秘苑
資料編3(近世編2)
(はじめに)
資料編3(
近世
編2) / はじめに
近世
部会長 長谷川成一 ここに、『新編弘前市史』資料編3(
近世
編2)を刊行,本巻では、『新編弘前市史』資料編2(
近世
編1)に続き、十八世紀中葉の宝暦期から明治四年(一八七一)の廃藩置県,なお本巻を第六章から開始したのは、
近世
編が全部で九章から構成されていて、先年刊行した
近世
編1が第五章までを,収録し、
近世
編2はそれに接続することから、第六章から出発するという章立てとなった。,触れられなかったので、
近世
後期の資料のみでなく前期の資料も収録したことをご了解いただきたい。
通史編3(近世2)
(凡例)
通史編3(
近世
2) / □・資料古代中世□頁、『新編弘前市史』資料編2(
近世
編1)……資料
近世
1No.,□・資料
近世
1□頁、『新編弘前市史』資料編3(
近世
編2)……資料
近世
2No.,□・資料
近世
2□頁、津軽歴代記類……記類、津軽藩旧記伝類……伝類、津軽徧覧日記……徧覧日記、封内事実秘苑
資料編3(近世編2)
(●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)
資料編3(
近世
編2) / 尾上町大字猿賀字石林--県重宝 この神社の創立については、古代にまで遡る伝承も伝えられており、中世を通して信仰され、
近世
,
近世
においては、拝殿のような空間も含まれていたと考えられるが、一般的な形式である「前室付き流造」とはなっておらず,、県内の
近世
神社建築を考える上で、欠くことのできない建築である。
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
通史編2(
近世
1) / 堀越城への移転 「津軽一統志」(資料
近世
1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,が設けられ、激しい攻防が繰り広げられていた(以下、資料古代・中世第四節「堀越城」、および長谷川成一『
近世
国家,岩木川沿岸部への太閤蔵入地の設置は、同地域の
近世
的体制への転換を促し、為信の岩木川東岸への本格的進出を,堀越城の拠点化は、同地帯の経営を容易にし、領内全域への
近世
的支配を及ぼす契機をなし、津軽氏が
近世
大名へと,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自ら
近世
大名へと成長してゆくステップでもあった。
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
通史編2(
近世
1) / 南部信直(なんぶのぶなお)に宛てた書状から、秀吉の出馬による奥羽の仕置が具体的に構想されていた(資料
近世
,秀吉は、奥州にまで到達すれば日本の支配は完了するというように認識していたということになる(長谷川成一『
近世
国家,それは、①当知行安堵、②妻子在京(人質徴収)、③検地の実施、④城破(しろわ)り、の四点であった(資料
近世
通史編2(近世1)
(二 浅利騒動への加担)
通史編2(
近世
1) / このような騒動は、
近世
大名が家臣団統制を図り領主権力を強化しようとしていた
近世
初期には、日本のどの地域
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
通史編2(
近世
1) / 出穂についても、三分の二ほどみえるところもあるものの、まったく穂がみえないところもあったという(資料
近世
,がそろうであろうとし、さらに、畑作についても、例年ほどではないにしても、楽観的な見通しを立てている(資料
近世
,には一俵一七匁八分であった鰺ヶ沢の米価が、七月はじめには二一匁、七月九日には二三匁にまで高騰した(資料
近世
,が、領内の米払底をもたらし、八月末には餓死者を出すような飢饉状態を招くことになったという(菊池勇夫『
近世
通史編2(近世1)
(弘前八幡宮の祈祷)
通史編2(
近世
1) / 廻船廻米海上無難祈祷 35 五穀成就・風雨順時祈祷 163 その他(時疫退散祈祷等) 40 注) 長谷川成一「
近世
北奥大名,津軽弘前藩を指しており、対外危機が直接的に藩国家の危機認識につながっていることがわかる(長谷川成一「
近世
北奥大名,と寺社」『日本
近世
史論叢』上巻 一九八四年 吉川弘文館刊)。,同年十月二十四日の「公私自分留」(資料
近世
2No.一五八)によれば、当初通常の祈祷であったものが「重キ,「国日記」同十月三十日条にはその結果が記されている(資料
近世
2No.一五九)。
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
通史編2(
近世
1) / 現在の北海道地方を除き、
近世
国家においてアイヌ民族の居住が確認されるのは、津軽領の津軽・夏泊両半島、そして,その点からすれば、北奥地域は、
近世
国家の中でも、異なった民族が共存していた特異な地域である(森田稔・長谷川成一編,)によると、津軽半島の各所に「犾家数〆四拾二軒」があった(「津軽一統志」巻十下、『青森県史』資料編
近世
一,彼らと北海道に住むアイヌたちの間には
近世
初頭まで津軽海峡を挟んで活発な交流関係があったものと推定される,
近世
中期になると蝦夷地への出漁はごくまれなものとなっていたようである(榎森前掲書)。
通史編3(近世2)
(報恩寺)
通史編3(
近世
2) / に改宗した信枚は、寛永八年(一六三一)に江戸で死去すると常福寺に葬られ、後に津梁院に改葬された(資料
近世
,国元では同三年、報恩寺を寛永寺宮門跡から寺号を受けて創建した(資料
近世
2No.四〇四)。
通史編2(近世1)
(一 海防問題の発生と蝦夷地出兵)
通史編2(
近世
1) / (なお、本項は菊池勇夫『幕藩体制と蝦夷地』一九八四年 雄山閣出版刊、同『北方史のなかの
近世
日本』一九九一年, 校倉書房刊、長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、浅倉有子『北方史と
近世
社会』
通史編3(近世2)
(学官の職掌)
通史編3(
近世
2) / 寛政八年(一七九六)三月十五日には職制が定められ、学官名に対応する席次と俸禄が決められた(資料
近世
2No,学校名「稽古館」は『尚書』「堯典」冒頭の「ここに古の帝堯を稽(かんが)ふるに」に典拠を有する(資料
近世
,山崎図書、小司(鑓奉行格)竹内衛士、小司(物頭格)野呂登と続き、経学学頭六人(以下人名略、詳細は資料
近世
通史編3(近世2)
(専求院)
通史編3(
近世
2) / 専求院(せんぐいん)は、寛永元年(一六二四)、誓願寺にいた無角に念夢が願い出て、創建が認められた(資料
近世
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
通史編2(
近世
1) / と東北大名』117頁 平成10年 吉川弘文館刊 表2 長谷川成一『
近世
国家と東北大名』119頁 平成10,」『文化における北』56頁 1989年 弘前大学人文学部人文学科特定研究事務局刊 表31 菊池勇夫『
近世
,』164頁 1999年 清文堂刊 表35 浅倉有子『北方史と
近世
社会』166頁 1999年 清文堂刊,表36 浅倉有子『北方史と
近世
社会』165頁 1999年 清文堂刊 表37 浅倉有子『北方史と
近世
社会,表61 浅倉有子『北方史と
近世
社会』175頁 1999年 清文堂刊 表62 浅倉有子『北方史と
近世
社会
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
通史編3(
近世
2) / 一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され、戦国大名としての地位を築いたことによってなった(長谷川成一『
近世
国家,寺領二四石を与え、慶長九年(一六〇四)には一三石余を加増するなど、その地域の寺院勢力を積極的に利用した(資料
近世
,別に城内に祀った稲荷宮が、現在堀越にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料
近世
,)(現岩木山(いわきやま)神社)を再建して寺領四〇〇石を寄進し、同九年には百沢寺大堂を再建した(資料
近世
通史編3(近世2)
((二)日常生活)
通史編3(
近世
2) / 」によって嘉永六年(一八五三)五月と九月の二ヵ月における、武田家の日常生活の一端を示してみたい(資料
近世
通史編2(近世1)
(町支配の役人)
通史編2(
近世
1) / 町支配の役人 「町支配并びに諸職人と知行取の由緒書」(資料
近世
1No.一一五一、故八木橋武實氏旧蔵),の有力町人)籠(ろう)奉行・籠守・時の鐘撞(かねつ)きで構成されていた(長谷川成一「本州北端における
近世
城下町
通史編2(近世1)
([口絵])
通史編2(
近世
1) / 近衛家と津軽家の,
近世
初頭からの関係の深さを示すものといえよう。 ,詳しくは,本書156頁の図57,資料
近世
1の74~94頁を参照されたい。
通史編3(近世2)
(町家の遺構)
通史編3(
近世
2) / 屋内の土間(どま)・井戸などに
近世
の雰囲気が漂う。,全体的に木柄が太く、構えも大規模で、改造が加えられてはいるが、
近世
後期の数少ない商家の遺構として貴重である
通史編2(近世1)
(由緒書から)
通史編2(
近世
1) / に十三湊へ商船乗廻を行い、天文十三年(一五四四)に津軽に移住したという(長谷川成一「本州北端における
近世
城下町,このように、十六世紀の末ころには、
近世
日本海交易の原形が、かなり具体的な姿を現しつつあったといえよう。
通史編3(近世2)
(伊勢参り)
通史編3(
近世
2) / 伊勢参り 伊勢神宮は、慶長七年(一六〇二)、城内に「太神宮」として神主惣宮太夫久長に祀らせ(資料
近世
,伊勢参りに個人で出かけるには負担が大きいので、藩では領民より徴収した金で代参させた(資料
近世
2No.四五二,(一七一二)、大津屋清十郎からの母親の伊勢参りの願い出については、町奉行が許可を与えた例がある(資料
近世
,所持品には寺請証文のほか、伊勢神宮のものとみられる「御祓(おはらい)」が記されている(資料
近世
2No.
通史編2(近世1)
(窮民対策)
通史編2(
近世
1) / には餓死者が出るようになっており(「平山日記」)、十月から十二月までに三万人の餓死者が出たという(資料
近世
,しかし、「寒風ニ成候故、小屋ニ而死人夥敷」という様子であった(資料
近世
1No.八五五)。,八月二十五日、藤崎村・板屋野木村・五所川原村など八ヵ村の「銭持候者共」に、米買が強制されている(資料
近世
通史編3(近世2)
(福寿院)
通史編3(
近世
2) / しかし、慶長年間(一五九六~一六一四)に移転しているところから、創建は慶長年間より以前のことになる(資料
近世
通史編3(近世2)
(浄龍寺)
通史編3(
近世
2) / 浄龍寺 浄龍寺(じょうりゅうじ)は、正保元年(一六四四)、善覚が創建した(資料
近世
2No.四〇九)。
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
通史編2(
近世
1) / 津軽から江戸への廻船運行を許可する、幕府年寄衆土井利勝と酒井忠世(ただよ)の連署奉書を拝領した(資料
近世
,与えて、青森の町づくりを命じ、積極的な人寄せと一〇年間の年貢、並びに諸役を免除する特権を与えた(資料
近世
,その理由は、旧来の特権を有していた有力な商人層を排除して太平洋海運の発展に対応可能な
近世
的商人を育成し,、外浜で新たな開発の拠点となる
近世
都市を建設する必要に迫られてのことであった。,また慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(資料
近世
1No.一〇四九)には、「油川
通史編2(近世1)
(一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき))
通史編2(
近世
1) /
近世
後期にこれを詳細にまとめたものが、「前代歴譜」として陽明文庫等に収蔵されている。
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
通史編3(
近世
2) / 信政の後見役信英の所領となる黒石領の検地が行われているので、寺社領の把握もなされたものとみられる(資料
近世
,寺社領は全部で三六九二石余で、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料
近世
2No.三九九)の三八五九石余,配下に寺社役二人、寺社方物書三人、寺社方小使三人が属した(黒瀧十二郎『日本
近世
の法と民衆』一九九四年 ,縁起は、真言宗最勝院を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている(資料
近世
,一六六四)から築造されたが、九輪の金物が不足したため、領内奉加をもってこれに充てることを許可した(資料
近世
通史編3(近世2)
(教応寺)
通史編3(
近世
2) / 教応寺 教応寺(きょうおうじ)は、正保元年(一六四四)、了春が開基・開山となって創建した(資料
近世
2No
通史編3(近世2)
([奥付])
通史編3(
近世
2) / [奥付] 新編 弘前市史 通史編3(
近世
2) 平成15年6月20日発行 「新編 弘前市史
通史編3(近世2)
((一)神社)
通史編3(
近世
2) / (一)神社 領内の神社の九〇パーセントは、「神社微細社司由緒調書上帳」(資料
近世
2No.四二一)に記載
/ 21ページ