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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(市制施行百周年)
この記念すべきイベントを象徴するのが
追手門
(おおてもん)広場の建設である。,
追手門
広場は東奥義塾高校跡地に建設された。,弘前市の記録と記憶を伝える諸施設を、
追手門
広場に集約したことが特徴である。,写真232
追手門
広場の落成記念式典 市制百周年記念事業として、
追手門
広場とともに忘れてはならないのが,市制百周年で
追手門
広場に象徴される地域の記録と記憶を育む拠点が完成した。
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
図8 二の丸辰巳櫓 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸
追手門
維持修理報告書,北門は、大光寺城の
追手門
を移築したものと伝えており、他の四棟より規模も大きく、また、銃眼がないなど、形式,十七世紀後半以降は搦手門であるが、築城当初は
追手門
であったとされ、その後、碇ヶ関に通じる道が開かれて、,三ノ郭南門が
追手門
に変更された。 , 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸
追手門
維持修理報告書』より転載)
通史編5(近・現代2)
(新図書館の建設)
新図書館の建設 現市立図書館は弘前市制施行百周年記念施設として、下白銀町二番地一(
追手門
広場内)に設置,なお、新図書館が建てられた
追手門
広場には、明治三十九年(一九〇六)から昭和六年(一九三一)まで図書館として
通史編5(近・現代2)
(図書館の新築)
藤森睿市長は市議会全員協議会に諮り、図書館は弘前公園内
追手門
付近に新築する方針を決めた。,市は両者の意見を採り入れて、「①場所や文化財保護の建て前から、なるべく
追手門
より離して建てる。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
一七九四)には学校が新たに創設されることになり、「封内事実秘苑」(資料近世2No.二七四)によれば、
追手門
前,図5.
追手門
前に建設された学校―稽古館 目録を見る 精細画像で見る 稽古館の創立は、家中に好学,寛政末年(一八〇〇)ころの「弘前分見惣絵図」(弘図津)によれば、
追手門
前には学校が描写されている。
通史編3(近世2)
(東奥義塾)
東奥義塾 明治五年五月、漢学校と英学校を合併する議が起こり、
追手門
外の旧藩軍事局の建物(寛政八年稽古館
通史編3(近世2)
(学校造営)
学校造営 これより先、寛政六年(一七九四)九月十日、学校用地が弘前城
追手門
外東南の一角(現在市立図書館,のある
追手門
広場一帯)に定まった。
通史編3(近世2)
(城門番所の警備)
廃藩当時には、
追手門
(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭
通史編5(近・現代2)
(雪燈籠まつり)
二月三日には前夜祭として
追手門
広場で、共催者である三団体関係者が集まり、三者を代表して福士市長が「市民総参加
通史編4(近・現代1)
(洋風建築と蔵造り)
三十九年には最も斬新な洋館建築の弘前市立図書館(現在
追手門
広場に移築)が、大手門前の外堀近く、東奥義塾
通史編5(近・現代2)
(前川設計建築群)
弘前公園
追手門
と堀を隔てて向かい合う四階建ての建物は、そのコンクリート打ち放しの肌合いの中に近代的な感覚
通史編5(近・現代2)
([付図])
盟約を締結〈昭和58年〉 41 和徳地区土地区画整理事業完成〈昭和58年〉 42
追手門
広場落成
通史編5(近・現代2)
(福士市政の財政)
建設事業であり、二年七月、郊外に移転した東奥義塾高校跡地に図書館・郷土文学館・観光館が開館し(この一画を「
追手門
広場,写真158
追手門
広場 (二)津軽広域圏の開発 弘前市の財政における施策が常に津軽地域全体
通史編4(近・現代1)
(公園開設)
追手門
と東門には「弘前公園」と掛札をかけ、早朝から開かれ、自由に遊歩できるようになった。
通史編3(近世2)
(出発)
――内南御門――外南御門――下乗橋(げじょうばし)――二ノ郭――三ノ郭――大手御門(おおてごもん)(
追手門
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
現
追手門
)と東門、四の丸北門(現北門〈亀甲門〉)はそれぞれ瓦葺きであったが、葺き初めの年代は異なる。
通史編4(近・現代1)
(東奥義塾の再興なる)
下白銀町の校舎(現
追手門
広場)に復したのは、県立工業学校が馬屋町の新校舎に移って旧義塾の校舎を明けてからである
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
門は東門(三の丸東門)・南門(三の丸
追手門
)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった
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