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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (学校造営)

学校造営 これより先、寛政六年(一七九四)九月十日、学校用地が弘前城追手門外東南の一角(現在市立図書館,間もなく校舎の造営が始まり、久渡寺の杉並木をはじめ、大鰐・金木・岩崎・赤石の各地から大木、大石の建築資材 / 学校造営
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城三の丸一帯は兵器廠だった。 / 弘前城内の植物園造営
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

高照神社の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政の神号をとった高岡霊社(現高照神社)を造営 / 高照神社の造営と「名君」信政像の創出
資料編3(近世編2) (●熊野宮 本殿 樋の口町--県重宝)

弘前市田町)の本宮・熊野奥照神社とともに、熊野三所権現を模したものとされ、ここは那智宮に相当するものとして造営
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

東北地方の古墳時代 古墳時代とは、一般的には古墳の造営に象徴される時代を指す。,五世紀末の東北地方北部には、日本最北の前方後円墳である岩手県角塚(つのづか)古墳がただ一基、北上川中流域に造営
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

伏見指月城の普請 文禄元年に普請が始まった伏見城は、伏見指月(しづき)の地に造営されたため伏見指月城,普請当初は隠居所にふさわしく小規模のものであり、また当時朝鮮出兵も重なって、その造営はあまり進んではいなかった
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

寛永五年(一六二八)、為信の正室仙桃院が死去すると、長勝寺に廟所を造営した。,この後も信枚の碧巌台、信枚室の明鏡台、三代藩主信義の白雲台が造営された。
通史編1(古代・中世) (守護・地頭の制)

、領域内の公田の掌握、奥州の特産品である布や馬・金などの年貢の収納、警察権、庶民の相論の裁判権、寺社造営役
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

室による藤先(ふじさき)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏が造営,写真220 『津軽一統志』貞昌寺  そのなかにあって、唯一、特異なのが、中野(浪岡町)に造営され,その浄土真宗寺院の造営について、近年の研究をもとに紹介してみることにしよう。  ,写真222 蓮如上人坐像  この「夷浄願寺」を拠点にして、前の津軽地域の四ヵ寺も造営されていったのである,~一二六二)の門弟の如信・無為子・唯信・是信・本願らが出身地の東北地方に弘通(ぐつう)したり、寺院を造営
通史編1(古代・中世) (桓武の登場)

「造作」とは都城の造営、「軍事」とは蝦夷征討を指す。
通史編3(近世2) (浄土宗)

青蓮庵が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明「宝永五年の弘前新寺町稲荷神社の勧請と別当浄土宗白狐寺の造営
通史編1(古代・中世) (胆沢築城)

こうして造営が続く胆沢城に、あの阿弖流為が同族五〇〇人を引き連れてついに投降してきた(史料二五九)。
資料編3(近世編2) (●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)

正徳元年(一七一一)から二年にかけて造営されたもののようである。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

これは前方後円墳に代表される、あの巨大な古墳が、大和を中心に統一的な企画性をもって各地に造営された時代,19 角塚古墳全景  埴輪も有する日本最北の前方後円墳である角塚古墳は、五世紀第3四半期ころの造営
通史編1(自然・原始) (住居)

のものであるが、重なり合い互いに切り合う重複状態で発見される現状をとらえると、定められた区域の範囲内に住居を造営,このような大型住居の造営について、雪国に多いことを理由に、冬季における共同作業場・集会所、現代の公民館的役割
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

安倍氏の柵 安倍氏は北上平野一帯に柵を造営し、そこに一族などを配置して地域支配を行っていた。
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

中でも、森ヶ沢遺跡では大阪陶邑産、三日市の須恵器は仙台市大蓮寺産であり、畿内政権や仙台平野の古墳造営者
通史編1(古代・中世) (城館発掘の成果)

さらに、中別所の地は広大な城館ではないかと指摘する人もおり、城館の中に板碑を造営することによって「聖地
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

台地(西は岩木川・南は寺沢川・東は土淵川等によって画された)の北端部は、慶長15年(1610)弘前城が造営
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

古墳造営の年代は、出土遺物から見て8世紀前葉から後葉にかけてのものである。
通史編1(自然・原始) (環状列石)

泉山(いずみやま)遺跡(晩期・大洞B~C1式土器期)、青森市南郊の八甲田山地から枝状に延びる台地上に造営
通史編1(古代・中世) (伊治公呰麻呂の乱)

このとき広純は、問題の胆沢攻撃の拠点として覚鱉(かくべつ)城(所在地不明)の造営を計画中であり(史料一五六
通史編1(古代・中世) (文室綿麻呂の登場)

水害に悩まされていた志波城を南に移転して徳丹(とくたん)城(岩手県矢巾町(やはばちょう)、写真51)を造営
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

)において最在を奉して祈祷(きとう)した」ことが記されており、四代信政は、信志をもって岩木山下居宮を造営,本殿は、棟札などは発見されておらず、信政の没年などから推して正徳元年(一七一一)から二年にかけて造営されたようである
通史編1(古代・中世) (阿弖流為の投降)

翌、延暦二十二年(八〇三)には志波(しわ)城の造営が始まる(史料二六四)。
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

松浦甚五左衛門・豊嶋勘左衛門・木村杢之助(もくのすけ)の屋敷が引き上げられ、八〇〇〇坪の用地に校舎が造営
資料編1(考古編) ((2)人骨の出土した土壙墓)

このように地表を浅く掘って造営された土壙墓と異なり、1.50mないしそれ以上に達するほど深掘りし、しかもその
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

この綱吉政権下での幕府財政は、将軍綱吉の奢侈(しゃし)と護国寺(ごこくじ)・護持院(ごじいん)等の造営
通史編1(古代・中世) (三十八年戦争の時代)

ただし男勝村の征討ができなかったので、完成するのは天平宝字四年(七六〇)の雄勝(おがち)城造営(史料一
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

(2)遺跡の立地  江戸時代に岩木山麓を流下する大森川(大森勝山遺跡の北側を流れる)をせき止めて造営
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営,つまり、神社の造営に当たっては、在地に伝統的に定着していた山岳信仰の行者たる山伏修験が任じられることが
通史編1(古代・中世) (東北地方北部の群集墳)

須恵器横瓶・高台付坏・長頸壺・土師器坏・甕などが出土し(図5)、二回にわたる発掘調査の結果から、墳墓造営
資料編1(考古編) ((5)骨角牙器(こっかくがき))

本県における骨角製漁具の出現は、貝塚が造営される赤御堂式土器期以後であり、その赤御堂貝塚(八戸市十日市
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

されたものであるが、岩木山百澤寺大堂の内陣に置かれていた建築型厨子であり、寛永十五年(一六三八)ころに造営
資料編3(近世編2) (2 本丸御殿の考察)

御殿の様子を描いたものと見られているようであるが、表書院前の能舞台は、延宝二年(一六七四)八月に新規の造営
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

現存のものの棟札には「御櫓新規御造営………」とある。
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

これらの建造物の造営に当たっては、当然のことながら人々の尊敬を受け、一方では、人々を統率する人物が存在
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

●天平宝字二年(七五八)十二月八日、桃生城・雄勝柵造営。,●天平宝字三年(七五九)九月二十六日、桃生・雄勝城造営関係者の正税出挙を免除。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

図207.松前箱館千代ヶ台ニ御陣屋造営之図 目録を見る 精細画像で見る  ここに詰めた勤番人数
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●延暦二十一年(八〇二)正月九日、坂上田村麻呂、胆沢城を造営。
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

には楕円形、表館式土器期は隅丸長方形、早稲田6類土器期になると円形並びに隅丸長方形の平面形を持つ住居が造営
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

天平宝字ノ頃、恵美朝猲等漸ク桃生郡ノ辺マテ切従ヘテ鎮府ヲ宮城ノ郡ニ造営シテ蝦夷ノ押トセラレタリ。
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

五月に五代藩主津軽信寿(のぶひさ)は、富山藩主前田利興(としおき)とともに幕府から江戸芝増上寺の方丈造営
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

縄文時代後期は甕棺墓(かめかんぼ)と並んで、組石石棺墓(くみいしせきかんぼ)なるものもおもに十腰内Ⅰ群期に造営,五七基、浪岡町北中野の源常平(げんじょうたい)遺跡で二四基が発見され、特に三内丸山Ⅱ遺跡では二列に並んで造営
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●応仁三年(一四六九)九月四日、岩木山神社御宝殿造営。
資料編3(近世編2) (【解説】)

ところであると創設の意義が宣揚され、これまで当藩にこうした教育機関のなかったことを遺憾とし、明春から造営
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

右の二つの史料の大意を、「文永五年の比、東に俘囚が反乱を起こし、その過程ないしはその結果、堂塔を多く造営,古代の安倍氏の血を引く津軽安藤氏は「因果の道理を弁(わきま)へて」二つの拠点地域に多くの堂塔を造営した
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「俘囚之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営,の古代律令国家にとっての支配の北限を示す場でもあり、その周辺には、いうまでもなく、前述の数多の神社が造営
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

図52.寛文4年の領知目録  そして、慶長十六年の禁裏造営の際、津軽氏の普請役賦課の役高は約四万石
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永禄三年(一五六〇)九月二十五日、岩木山神社御宝殿造営、棟札に大旦那南部信濃守為則、祢宜阿部与四郎仲信
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