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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (進駐軍将兵への対応策)

進駐軍将兵への対応策 敗戦後まもないとき、進駐軍兵士が婦女子を陵辱するとのデマが全国的に横溢した。,実際には進駐軍兵士が全国各地で一斉に婦女子を陵辱する異常現象はなかった。,内務省では各庁府県宛に、進駐軍の不法行為を未然に防ぐよう、新聞などを駆使して呼びかけた。,『東奥日報』は進駐軍による暴行六件、掠奪(りゃくだつ)そのほか不法行為三八件と報じ、九月五日これらの行為,このほかにも進駐軍は平和進駐である旨、隣組や回覧板などで徹底するよう指示が出されている。 / 進駐軍将兵への対応策
通史編5(近・現代2) (進駐軍の小学校視察)

進駐軍の小学校視察 昭和二十三年六月、中津軽地方事務所から「職員に周知せしめ、学校経営、学級経営に遺憾,のないよう措置方を要望する」として、青森軍政部(米国進駐軍)教育部長エー・クロスから青森県教育課長宛に,その最大のものは、学校は児童を主体に経営されるべきことを、進駐軍軍政部が再三注意してくれたことであった / 進駐軍の小学校視察
通史編5(近・現代2) (進駐軍の衛生対策)

進駐軍の衛生対策 弘前市に限ったことではないが、敗戦前後の人々の生活は、現在からみれば大変非衛生的だった,進駐軍では日本占領に当たり、幕僚部の各部局がさまざまな分野を丹念に調べ上げていた。 / 進駐軍の衛生対策
通史編5(近・現代2) (市の対応策と市民の反応)

進駐軍対策の基本は知事を中心とする県レベルで対応したが、市町村行政の実質的な対応は、進駐軍への便宜をはかり,そのため進駐軍に略奪された印象をもったのだろう。,それだけ市民は進駐軍を警戒していたのである。,進駐軍の大多数は若い男性の集合体だった。,写真101 青森進駐軍司令官通知
通史編5(近・現代2) (連合軍の弘前進駐)

連合軍の弘前進駐 敗戦直後の行政当局の最大課題は何と言っても進駐軍対策だった。,「鬼畜米英」と信じ込まされた進駐軍との接触に人々が恐怖感を抱いていたからである。,青森県にも進駐軍が上陸し、青森市公会堂に司令部を設け、軍政をしいた。,写真99 進駐軍の司令部が置かれた青森市公会堂  けれども実質的に連合軍は間接統治の方法をとり、,進駐軍は弘前市にもやってきた。
通史編4(近・現代1) (御真影奉置所の設置)

石川小学校奉安殿落成式 (昭和4年5月)  なお、昭和二十一年(一九四六)一月、日本敗戦後アメリカ進駐軍,は各学校に下賜された御真影の回収を命じ、二十二年に至って、再びアメリカ進駐軍の命によって、奉置所の取り,偶像崇拝を徹底的に排除しようとの進駐軍の意図からである。
通史編5(近・現代2) (終戦直後の国民学校)

米進駐軍の来弘と同時に、市内各校の女子教員は出校を停止された。,進駐軍にわかりよくするためである。,『○○ PRIMARY SCHOOL』と横文字が掲示されたが、進駐軍が退去すると、英字の校名も取り外された
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の打合会議)

興業物に関しても、祭り事業にありがちな行為に対する要望を示しているが、やはり当該期を象徴するものとして「進駐軍,進駐軍への宣伝も考案され、青森県企業課が英文パンフレットを製作し配布することになった。  ,進駐軍への宣伝伝や配慮も項目に挙げられているが、占領期弘前市の観桜会の実態がかいま見られ興味深い。
通史編5(近・現代2) (週五日制の実施)

これは、進駐軍軍政部がアメリカ方式を押しつけたもので、県教育委員会としては、実施したくなかったというのが
通史編5(近・現代2) (日本再軍備と自衛隊の誘致)

けれどもアメリカの極東政策が逆コースを辿ったことや、進駐軍の撤退に伴う自国の防衛措置が必要だと痛感する
通史編5(近・現代2) (復員・引揚げ対策の開始)

復員・引揚げ対策の開始 進駐軍対策のほかに市当局の敗戦処理として重大な業務は、多数の復員兵や引揚者をどう,進駐軍に没収される前に大量に払い下げようとしたのである。
通史編5(近・現代2) (学校給食とPTA)

進駐軍の放出物資に加え、ララ(アジア救済連盟)、ユニセフ等の救済物資が各校に配給され、児童に温食給食が
通史編5(近・現代2) (誘致反対論)

これは明らかに進駐軍と彼らに媚(こ)び寄っていった「パンパン」たちの姿を重ねた主張だった。
通史編5(近・現代2) (終戦直後の教育)

十二月、青森県進駐軍第三司令部の指令として「軍国主義的、国家主義的教育ヲ許サズ」と次のことを禁止した。
通史編5(近・現代2) (葛原市政)

一日進駐軍の幹部が市の有力者を招待した。其時皆モーニング姿なのに彼一人は国民服で悠々と出かけた。
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の市政事務)

しかし突然の敗戦と進駐軍の威力に対し、政府や軍当局に不信を抱いた農民たちは供出に応じようとはしなかった,もう一つの業務は進駐軍が日本各地の事情を把握するために、各市町村役場当局に命じた調査報告である。
通史編5(近・現代2) ([付図])

金属供出のため為信公銅像出陣〈昭和19年〉 19 終戦〈昭和20年〉 20 弘前市への進駐軍
通史編5(近・現代2) (ソ連からの引揚げ督促)

青森県町村会では政府や進駐軍に引揚げを督促し、町村民に対し引揚げに対する陳述嘆願書の提出を要請している
通史編5(近・現代2) (新制高校の発足)

弘前市に進駐軍が入ったのは、昭和二十年(一九四五)九月二十六日である。
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

参加者はアメリカ進駐軍の青森軍政部民間情報教育部係官、文部省係官をはじめ県関係者、県立図書館長、県社会教育委員
通史編5(近・現代2) (誘致賛成論)

旧陸軍のように農地を荒らしたり、進駐軍のように婦女子を陵辱したりする恐れもない。
通史編5(近・現代2) (地場産業の諸相)

終戦後の二ヵ月間は休業状態であったが、やがて業務を再開して進駐軍の衣服の洗濯・修理などを行い、その後、
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の一側面)

県内が半分、県外では北海道、岩手の両道県各地からの団体が多く、進駐軍も二度訪れている。
通史編5(近・現代2) (土産品開発への模索)

進駐軍将兵たちの大半はアメリカ人だった。
通史編5(近・現代2) (軍国主義・国家主義の払拭)

進駐軍の膨大な食糧や物資、経済力を見て、科学の必要性と振興を希求した人々も多かった。
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

戦後の弘前  293 第一節 軍都弘前の崩壊と占領 ………………………………………  294   一 進駐軍対策
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