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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(営業税廃止運動)
営業税廃止
運
動 大正十一年(一九二二)に、弘前商工会議所において、県内の商工団体が集まり、営業税の廃止,その課税方法も売
上
金
額、資本
金
額、建物賃貸価格、営業者等の外形によるもので、担税能力に対応していないというものであった,この
運
動は全国的な
運
動の一環であり、護憲
運
動と密接な関係があり、大正三年から続けられた。 / 営業税廃止
運
動
通史編4(近・現代1)
(運輸事業)
そこで政府によって、陸
運
会社解散政策並びに陸
運
元会社を中心とする継立網の再編成が進められ、陸
運
元会社は,これには、郡役所から補助
金
が与えられた。十七、八年ごろになると小野貞助(初代和徳村村長。,弘前駅前で倉庫業、鉄道貨物取扱業などを経営)との競合が始まったが、間もなく補助
金
がなくなって、継立所は,強壮ナルモノニ限ルベシ 第三章 馭者馬丁ノ資格及服装 第十八条 馭者ハ満二十年以
上
、馬丁ハ十八年以
上
,キ進行スルトキハ後車ハ前車ヨリ五間以
上
ノ距離ヲ取ルベシ 第三十五条 往来雑踏又ハ狭隘ノ場所及街角
上
ヲ /
運
輸事業
通史編2(近世1)
(岩木川舟運)
さんぜじ)(現弘前市三世寺)、湊(現五所川原市湊)、大泊(現五所川原市藻川(もかわ))、蒔田(まきた)(現
金
木町蒔田,によって、七里長浜沖を南下、鰺ヶ沢湊(現鰺ヶ沢町浜町)まで廻漕され、そこから千石船などに積み替えられて
上
方,一般的にはこれらの船は、下りは川の流れにより船頭が操(あやつ)ったものであるが、川を遡
上
(そじょう)する,これらの御蔵に集められた年貢米は、鰺ヶ沢へ集められ、換
金
のため大坂に送られた。,・板屋野木からの御蔵米は「川舟」で下げさせるようにと指示があり、さらに十三から鰺ヶ沢への御米廻しにも
上
乗 / 岩木川舟
運
通史編2(近世1)
(西廻海運による大坂廻米)
西廻海
運
による大坂廻米 西廻海
運
が実現すると、
上
方廻米に利用される廻船の多くが大坂での雇船となった。,また
上
方廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と
金
融とを結びつけることとなった,い、
上
方商人への
金
融面への依存度が強まったことによる。 ,
上
方で
金
主と借
金
(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。,西廻海
運
による
上
方廻米は、全国市場として成長しつつあった大坂市場へ包摂(ほうせつ)されるものであった。 / 西廻海
運
による大坂廻米
通史編5(近・現代2)
(反対運動の展開)
され、ブナ原生林保護
運
動がますます盛り
上
がった。,は鰺ヶ沢ルートに同意する意見書を青森営林局に提出し、青秋林道予定地では着工許可前にブナなど二〇〇本以
上
伐採,反対
運
動は危機に陥った。,赤石川は
金
アユの川で、昔は一簗(やな)で一万尾も取れたという。簗は六ヵ所もあった。,反対
運
動は生存を懸けた
運
動となった。住民らの保安林解除に反対する意見書が約一万三〇〇〇通提出された。 / 反対
運
動の展開
通史編5(近・現代2)
(産業組合拡充運動)
産業組合拡充
運
動 昭和初期における農村の苦悩を前にして、政府は農民の窮乏打開のエネルギーを自力更生によって,信用事業を中心にスタートしたが、農業と農民組織の発展の中で産業組合の取り扱う事業の拡大が課題となり、この
運
動,事業は、資
金
の貸付けと貯
金
、生産物の販売と加工、産業経済
上
必要な物資の提供などが主たるものである。,設立された地域もあるが、昭和期に入っても未設置農村はなお多く見られ、ようやく東目屋村においても設立の機
運
が / 産業組合拡充
運
動
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
「ねぷた」の
運
行
運
行の状況をみると、「国日記」享保十一年(一七二六)七月十一日条によれば、五代藩主信寿,藩主の
上
覧の場所はこのように織座であったが、享保以後は三の丸(堀の土居に小屋がけして見物)か竹長屋(現一陽橋,幕末の天保五年(一八三四)七月七日に一〇代藩主信順(のぶゆき)が
上
覧した際の「ねぷた」は、見物人がおびただしい,数に
上
り、ものものしい警戒のもとに
運
行された(前掲『ねぶたの歴史』)。,次に町人がみた幕末の「ねぷた」
運
行の様子を「
金
木屋日記」(資料近世2三六二~三六三頁)によってみてみたい / 「ねぷた」の
運
行
通史編5(近・現代2)
(市役所のケチケチ運動)
市役所のケチケチ
運
動 昭和四十八年(一九七三)十一月二十四日付の『東奥日報』に〝暖房は四時で消す あすから,-弘前庁内のケチケチ
運
動〟と大見出しで弘前市役所の石油危機対策が紹介された。 ,電気代を含め〝ケチケチ
運
動〟で約一〇%の経費を節減できる-とは管理部のソロバンだ、というものである。,事態は、田中角栄内閣の『列島改造論』に象徴される積極財政で引き起こされていた物価騰貴が、石油危機を引き
金
とする,売り惜しみや便乗値
上
げによって消費者パニックとなり、政府がマイカーの自粛、企業の石油・電力消費の一〇% / 市役所のケチケチ
運
動
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
室町期に開かれたといわれるが、具体像が明らかになるのは近世初頭で、酒田・敦賀の廻船が南部氏の船宿・御用達
金
調達,また、酒田の舟持商人は、特に最
上
氏家臣などの蔵元的機能を持っており、
上
方商人に中継して蔵米の売却を行っていて,、酒田と
上
方(敦賀)間の蔵米の廻漕・販売は行ってはいなかったようである。,元和八年(一六二二)の最
上
氏の改易後は、最
上
川流域の米沢・山形などの諸藩、および天領の米が一層酒田に集積,津軽地域は、海
運
を通じて特に
上
方の経済圏との極めて緊密なつながりを持っていたことが想定されるのである( / 中世の北国海
運
通史編4(近・現代1)
(中央における大同団結運動)
から始まった松方財政による大不況で、町でも村でも多くの人々の生活が破綻し、また、没落し、一方、商業・
金
融業,当時の日本政府顧問)から井
上
外相の条約改正案批判の意見書が出され、秘密出版により頒布されて政府攻撃の機
運
,が沸き
上
がってきた。,そして、八月には板垣退助が封事(意見書)を天皇に出し、諸県の有志も
上
京して首相・外相らに面会を求めて、,井
上
外相は九月十七日辞任に追い込まれ、
運
動は一転して藩閥政府攻撃となった。 / 中央における大同団結
運
動
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
信寿の高増
運
動 江戸時代の武士の世界ではそれぞれの家の有する家格が大きな意味を持っていた。,での殿席(でんせき)(詰の間と控の間の区別)、行列に持参することを許される行装(長刀や長柄の槍、挟箱の
金
紋,そういった家格を高めるために、大名たちはさまざまな
運
動を展開していく。 ,それらは、①卯七月の「津軽土佐守内存口
上
覚」、②卯七月二十一日付の「覚」、③卯九月の「覚」という三点の,については、編纂史料以外で初めて、いわゆる「北狄(ほくてき)の押へ」論を主張する史料であって、政治的
上
昇 / 信寿の高増
運
動
通史編4(近・現代1)
(行在所金木屋)
行在所
金
木屋 弘前における行在所たる光栄に浴した本町の武田家は、屋号を
金
木屋と称し、藩政時代の豪商で,まず、行在所を新築するに当たり、本町の通りに面した空地は十分な面積がなかったので、考慮の末、結局本宅の
上
に,新たに土台を張り、その
上
に宮殿造りの層楼を建て増しすることにした。 ,この行在所の新築や、諸調度の設備に要した費用はしめて六八〇〇円という巨額に
上
った。,
金
木屋はその後家
運
に変転があり、明治後期に至って没落し、弘前の実業界から姿を消していったが、この行在所 / 行在所
金
木屋
通史編4(近・現代1)
(青森県における普通運動)
しかし、それが普選
運
動として展開するのは、普選
運
動の後期といわれる大正七年以降である。,このとき、政友会北郡分所は長尾角左衛門を中心に、衆院選挙区の基準人口が郡部一三万人以
上
、市部三万人以
上
,する者は国民の公敵として之を排斥す 記者団の代表は、のちに東奥日報社社長として敏腕をふるった山田
金
次郎,大正十二年八月、
上
北郡江渡由郎らは南部立憲青年党を結成、河野盤州を招いて結党式を挙げた。,十二年十月二十三日、憲政会南郡分所事務所落成式で、分所長成田匡(きょう)之進は震災後の混乱を憂い、「
金
力 / 青森県における普通
運
動
通史編5(近・現代2)
(観桜会運営の打合会議)
祭り事業にありがちな行為に対する要望を示しているが、やはり当該期を象徴するものとして「進駐軍との取引
上
の,弘南バスからは
運
営委員会の決定どおり、駅と公園の往復料
金
は一五円とし、片道切符を発行して一〇円とする意見,会合の内容は、観光地の集客問題を講じる
上
で参照すべきものが多いので、ここに記しておきたい。 ,具体的には市内や大鰐旅館団と交渉して割引を実施したり、指定観光旅館を設けてサービスの向
上
をはかったりすることになった,団体客誘致の宣伝向
上
のために、市当局関係者と市議会議員数名が、打合せに参加している。 / 観桜会
運
営の打合会議
通史編4(近・現代1)
(金細工物の商況)
金
細工物の商況 次に
金
細工物については、東京、大阪等から移入し、新潟、秋田、北海道へ移出していた。,(七月廿日報) 同人
金
細工物ノ輸出入 本市内ヘ輸入スル
金
細工物ノ重ナル仕入先ハ、東京、大坂、新潟,新潟県五百二十八〆目、其価格参百九拾参円参拾壱銭、○秋田県弐百九十〆目、其価格百拾六円参拾四銭ナリ、而シテ以
上
輸入品,ハ、当市需用ノ外ハ復輸出ヲナス者ニシテ、本年一月ヨリ六月ニ至ル間(一月ヨリ三月頃マテハ雪路ノ為、
運
搬甚,ニ騰貴セルヨリ、暫ク輸出ヲ見合セ居レリ (同前)
金
細工物とは機械工業製品のことと思われるが、悪路 /
金
細工物の商況
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
同十五日、神輿の渡御と山車の
運
行が行われた。,天和二年の行列は、辰(たつ)の
上
刻(午前七時ころ)に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から,黄石公 装束茶地
金
紋紗、袴赤地
金
鑭(襴)、襟巻白地錦、 張良 装束赤地錦、袴黒天鵞絨、襟巻紫地路
金
,、腰当萌黄地錦、 水引 紺地繻子、
金
糸ニテ岩ニ立浪織有、 見送 猩々緋、
金
糸ニテ登龍之縫玉眼ニ,重縁、紺地
金
鑭黒鵞絨、 下幕 木綿白地立浪之染抜、正面ニ八幡山之山字、 車引 着物千草木綿、
上
/ 三 八幡宮の祭礼と山車の
運
行
通史編4(近・現代1)
(高等学校誘致運動の展開)
高等学校誘致
運
動の展開 明治二十七年(一八九四)に制定された高等学校令により、明治四十一年までに全国,ナンバースクールといわれるもので、第一高等学校(東京)、第二高等学校(仙台)、第三高等学校(京都)、第四高等学校(
金
沢,弘前市においても高等学校誘致
運
動がいっそう盛んになり、同年七月には石郷岡文吉市長から市会に提出された高等学校設置,高等学校の設置位置に関しては青森市も名乗りを
上
げ、弘前市と激しい誘致合戦を続けたが、大正八年一月二十六日 / 高等学校誘致
運
動の展開
通史編5(近・現代2)
(観桜会(さくらまつり)の運営方針)
しかしこの露店は水道設備の問題など、衛生
上
から問題視されることが多かった。,、露店経営については、常に風紀
上
の問題がつきまとっていた。 ,観桜会の
運
営に関して
運
営委員会の報告書を見ながら概要を紹介してみたい。,馬車の料
金
もバスと同一とするため、馬車組合に申し入れ、折り合いがつかなければ公園のたまり場を貸さない方針,その他、興業物に関しては風紀
上
、いかがわしいものは厳重に取り締まり、公園内の商店、飲食店には価格表を明示 / 観桜会(さくらまつり)の
運
営方針
通史編5(近・現代2)
(金属団地の建設)
同法は、投資額一千万円以
上
で、従業員二〇人以
上
の工場が新設、拡充した場合には、三年間固定資産税を全額免除,こうして税制
上
の優遇措置を伴って
金
属団地の工場建設が始まった。一連の経過は次のとおりである。,び収支予算、役員の選任等、組合
運
営に必要な諸事項を審議決定した。,共同販売 7、組合員の取扱品の共同購買 8、組合員の取扱品の共同保管 9、組合員の取扱品の共同
運
送,締結 16、組合員の事業に関する経営および技術の改善向
上
による生産性の向
上
または組合事業に関する知識 /
金
属団地の建設
通史編5(近・現代2)
(吹奏楽金賞が光る)
吹奏楽
金
賞が光る 創設以来、他校に比べると日は浅いが、弘前南高校の部活動は着実な成果を
上
げている。,四十八年から常連のように出場していたが、五十二年の全日本吹奏楽コンクール全国大会で、初出場で高校の部
金
賞,をかちとると、五十六年までの五年間、連続して
金
賞に輝いた。,
運
動部では、バドミントン(四十一年)やバレーボール(四十二年)が県内優勝をしたのを皮切りに、弓道や山岳,創設以来、教職員や生徒たちが、学校の新しい伝統を築き
上
げるために奮闘努力している熱気が伝わるようである / 吹奏楽
金
賞が光る
通史編4(近・現代1)
(青森県の農民運動)
青森県の農民
運
動 大正十年(一九二一)十一月六日、浪岡労働組合が発足した。実態は農民組合である。,組合長は武田
金
次郎、中央紙の販売業で早稲田大学に学んだこともあると言われる。,浪岡労働組合はその意図するところを果たせず消滅したが、本県農民
運
動の夜明けを告げる暁鐘だった。 ,12年黒石夏期大学 この後、西津軽郡には、筒木坂、富萢などに組合が設立され、さらに南津軽郡にも
金
田村新屋町,(現尾
上
町)、浅瀬石村中川(現黒石市)などで組合ができ、各地で小作争議が激しく戦われ、車力村ではメーデー / 青森県の農民
運
動
通史編5(近・現代2)
(青森県の賃金動向)
昭和五十四年の全国の賃
上
げは平均約一万円、
上
昇率は六・〇%であった。,五十四年の初任給
上
昇率六・四%は、その前に行われた青森県の最低賃
金
の改定率六・五%とほぼ一致していた。,職種別賃
金
については、
金
融・保険業が最も高く、次いで
運
輸・通信・倉庫業、建設業が高い。,昭和六十年の調査では、全体的な賃
金
の停滞傾向は続きながら、女子の賃
金
が
上
昇し、男女間の格差が縮小してきていることがわかる,こうした中、県下八市の企業一、一〇〇社を対象としたモデル賃
金
調査によると、初任給
上
昇率が三・七%にとどまるなど / 青森県の賃
金
動向
通史編5(近・現代2)
(大火の遺産と廃娼運動)
大火の遺産と廃娼
運
動 二度の大火で弘前市の街並みは一変した。,集中しており、『弘前新聞』も「附近一帯の善良なる風俗が脅され町内に(ママ)勿論市全体に及ぼす風紀及教育
上
の,公娼・私娼を問わず、遊郭や貸座敷が存在し、正当化されている以
上
、性病(当時は花柳病と呼ばれていた)の蔓延,法律自体は、性病を蔓延させた女性は三ヶ月以下の懲役、媒介した営業者は三〇〇万円以下の罰
金
、六ヶ月以下の,婦人矯風会など女性
運
動側からの影響もあった。 / 大火の遺産と廃娼
運
動
通史編5(近・現代2)
(市の衛生対策と生活改善運動)
弘前市への交通量が激増するに伴い、牛馬糞が路
上
にたまってハエやカが大量に発生し、市民は清掃に悩まされ疫病流行,また町会長会でも牛馬に糞放袋をつけて処理をはかり、違反者を厳重取締りの
上
、糞尿は農村自給肥料に用いれば,日本学術振興会は昭和七年、皇室の下賜
金
を基に設立された財団法人で、総裁は秩父宮だった。,生活改善
運
動自体は古くから全国的に興り、
運
動もなされていた。,更新会は、ほとんど地面の
上
で行っていた炊事場に流し場を作ったり、土間や便所も改善を施すよう指導している / 市の衛生対策と生活改善
運
動
通史編5(近・現代2)
(金澤市政の財政)
な市政
運
営を基本理念とし、また、藤森・福士市政から引き継ぐ、津軽地域の発展とともに弘前市の発展があるとの,所信を述べ、行財政
運
営にあたる。 ,また、福士市政から受け継がれてきた弘前駅前再開発事業は
金
澤市政において完了する。 ,その後も六十歳以
上
市民の弘前城植物園・博物館など六施設への入場無料化、ホームヘルパー派遣事業、地域福祉,写真160 市政懇談会での
金
澤市長 /
金
澤市政の財政
通史編5(近・現代2)
(金賞に輝く合唱)
金
賞に輝く合唱 明治三十四年の開校から昭和の弘高女の時代まで、音楽担当として在職した教諭のほとんどは,四十二年の全日本合唱コンクール青森県大会で優秀賞を得てから、その後の県大会での
金
賞、銀賞はもちろん、全国大会,でも四十五年に銀賞を獲得、翌四十六年には念願の
金
賞に輝いて、青森県に弘前中央高校ありとその名声を全国に,彼の優れた指導を受けた生徒には福士洋子(夕湖)、三
上
由枝(米澤小蘭)などがおり、佐藤の創設した「弘玄書道会,一方、
運
動部については、まず陸
上
競技部が二十六年からの三連覇、三十四年からの五連覇、四十一年からの二連覇 /
金
賞に輝く合唱
通史編5(近・現代2)
(インフレの進行と低物価運動)
ところが戦後になると、軍が解体し、また、政府の要員も多くの人員が職を離れたため、多額の退職
金
を払い、さらに,も盛り
上
る意志を十分取入れ、それを最大限度に活かさうとするものである。,、登島権作、奈良
金
一、西沢衛守、西谷佐一、日通弘前支店、浜田忠治、平川力、弘前無尽株式会社、弘前信用組合,に対する統制撒廃の件陳情 政府の企図しつゝある売
上
税は中小商工業者及一般消費者に対し多大の影響を及,而も近く行はれる物価改訂と
運
輸通信料の値
上
によりインフレ昂進益々其の度を加へんとする状勢下にあつては、 / インフレの進行と低物価
運
動
通史編4(近・現代1)
(弘前市長らの商業金融に関する意見)
その内容は
金
融、交通
運
輸、雑の項目と工業関係の項目に分かれるが、
金
融ほかの項目に対する意見は次のとおりである,生産調査要項
金
融 改善要項 (一)小銀行ノ併合ヲ図リ、
金
融機関ノ整理ヲ為スコト (二)農工銀行,本県物産陳列ヲ為サシムルコト (二)参考品ヲ蒐(しゅう)集シ之ヲ当業者ニ展示セシムルコト ここで取り
上
げられた,ニ之ヲ図リ、貯
金
ノ奨励ニ重キヲ置カシムルコト 一〇、各種組合資
金
ノ固定ヲ戒メ、其ノ
運
用ヲ良好ナラシムルコト,この提言は、
金
融に関してその整備を求めていることと対応している。 / 弘前市長らの商業
金
融に関する意見
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
さて、城下の有力な商人たちには藩から臨時の
運
上
(うんじょう)
金
や冥加(みょうが)
金
が賦課される場合があった,の方丈造営を命じられ、国元に普請御用
金
の
上
納を命じた(「国日記」正徳三年閏五月七日条)。,また、安永四年(一七七五)五月の甲州川々普請手伝では、
上
方の
金
策が不調に終わったため、国元で茨城屋安右衛門,など四人の富商に合計一万五〇〇両の
上
納
金
を命じる一方、弘前・青森・深浦・碇ヶ関などの商人に四〇〇〇両以
上
,このように幕府から津軽弘前藩に普請役が賦課されると、御用
金
や冥加
金
が城下の町方や領内の商人に強制的に割 / 町役負担と御用
金
通史編2(近世1)
(「標符(通帳)」発行の前提と経過)
物資の
運
送に当たらせ、町年寄の
上
に格付けし、元司の直支配とした(資料近世1No.九三一)。,あわせて、同月、藩は領内の「
金
銀米銭」の実数書き
上
げを命じた。,・在に至るまで領民所持の「
金
米銭並諸商代物」を残らず書き
上
げさせている。,書き
上
げられた「
金
米銭」は足羽長十郎のもとに納められた。,また、これまでの貸借や年賦についても書き
上
げさせ、借
金
については藩が代わって返済することとした(『平山日記
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
その他の会社
上
記以外の会社を払い込み資本
金
順に見れば、市内の会社としては、東北織物株式会社(払込資本
金
,(払込資本
金
、五〇〇〇〇円、製麺及製麦)、弘前織物株式会社(払込資本
金
、四〇〇〇〇円)があり(表55参照,(払込資本
金
、一一〇〇〇〇円、酒類製造、清水村)、蛭田製材所(払込資本
金
、七〇〇〇〇円、製材、和徳村),、丸叶弘前
運
輸株式会社(払込資本
金
、五〇〇〇〇円、
運
送業、和徳村)、丸
上
運
送店(払込資本
金
、五〇〇〇〇,円、
運
送取扱業、和徳村)などがあり、活況を呈していた。
通史編5(近・現代2)
(弘前無尽会社の相互銀行への転換)
(現五所川原市)、西津軽郡木造町(現っがる市)・鰺ヶ沢町、
上
北郡三本木町(現十和田市)・野辺地町、下北郡田名部町,の百分の二に相当する
金
額との合計額以
上
の
金
額を、現
金
若しくは銀行預
金
として常時保有しなければならない。,第五条(本部経費分担
金
の
運
用) 前条の規定に基く本部経費分担
金
は、左の事項に限り
運
用する。,第七条(操作資
金
の
運
用) 操作資
金
は他の銀行への預ヶ
金
とし、左記事項に限り使用する。,第十条(本部預ヶ
金
の
運
用) 本部預ヶ
金
は、日本銀行預ヶ
金
若しくは重役会の決議により、日銀見返となるべき
通史編3(近世2)
((二)食事)
(二)食事 全国的にいえば、町人には冥加(みょうが)・
運
上
(うんじょう)(ともに商・工・
運
送等の営業者,に課した江戸時代の雑税)のほかに租税はほとんどなく、武士の生活の向
上
とともに富み栄え、農村へも進出した,ただし、有力商人の
金
木屋に残された、幕末期の「
金
木屋日記」によって、富裕な町人の食事を垣間(かいま)見
通史編5(近・現代2)
(県債五〇〇万円の成立)
立ち
上
がった。,救済
運
動に奔走した。,して、陳情
運
動が繰り広げられた。 ,商工大臣 青森県知事 (資料近・現代2No.一八四) 十二月三日以降の挙県一致した大がかりな陳情
運
動,の許可促進
運
動を開始す 銀行代表者、知事と協力し、県会委員の
上
京を促す 東奥 1.21 一千万円に査定
通史編4(近・現代1)
(郵便事業)
郵便事業 近代郵便制度は、前島密(ひそか)によって立案されたが、当初、郵便物の
運
送は飛脚によった。,そして明治五年六月に社名を陸
運
元会社と称して、駅逓寮の直轄保護の下に一面御用達会社として専ら一般貨物の,
運
送請負業に従事したほか、官営郵便の下請業務にも携わった。,甲第三〇号 県下西津軽郡鰺ヶ沢中津軽郡弘前南津軽郡黒石
上
北郡野辺地七戸下北郡田名部三戸郡五戸八戸各郵便局,ニ於テ駅逓局貯
金
方法開設本月二十五日ヨリ施行相成候条当県甲第百四十五号ヲ以テ預ケ
金
致度者ノ心得書ヲ添諭達
通史編5(近・現代2)
(昭和三十五年の弘南バス争議)
争議があり、スト突入以来一三二日間に傷害や暴行、器物損壊など六四件の不法事件が発生し、検挙者一三五人に
上
る,本県労働
運
動史
上
空前の争議となった。 ,長く務めた福岡礼次郎は、会社側の組合分裂策、第二組合(弘南バス全労組・全労系)優遇策、三ヵ年の安定賃
金
への,組合の要求は、①労働時間一日九時間を拘束八時間、②退職
金
増額、③貸し切り規準の緩和、そして一四三〇円の,新組合の弘南バス全労組は四月十五日会社最終案で妥結、三ヵ年は賃
金
要求せず、東北大手一〇社の平均基準にに
通史編2(近世1)
(幕末期の藩財政)
費目は「年中規定諸
上
納」(一年間に規定される諸
上
納
金
)および相場の差額による一四七三両のみであり、やや,支出は多岐にわたっているが、一〇〇〇両を越えるものは「御手山仕込
金
」「御土場駄賃銭并小廻
運
賃」など、国元,の藩政に関する
運
営費が多い。,代
金
はここでもみられない。,への廻米を減らすことは不可能で、さらに藩の冗費削減のための「御賄数」「小納戸
上
金
」の歩引も思うように進
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
④漁場の内を割合で与えられるというのは、漁場のなかでも
運
上
金
が異なるために、それを相応に割ることにして,、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町)領を与えられ、その漁場の
運
上
金
,分領体制によって、各藩に対して与えられることになった漁場の
運
上
金
および別段
上
納
金
の見込額をみると、津軽弘前藩,・盛岡藩へのそれと、仙台・秋田・庄内・会津藩のものとでは、
運
上
金
の額に著しい格差がある(表66)。,表66 分割分領6家へ支給する漁場
運
上
金
見込み(安政6年11月)
運
上
金
別段
上
納
金
合 計
通史編4(近・現代1)
(電信事業)
電信事業 わが国の通信・
運
輸の近代化は、まず明治二年(一八六九)に電信が開通し(東京・横浜間)、次いで,められてきた今別から函館に至る津軽海峡の海底電線工事が竣工したことにより、ほぼ日本列島を縦貫する電信幹線が出来
上
がった,岡ヘノ和文料
金
ハ酒田マテノ料
金
ニ
金
二銭ヲ加ヘ欧文ハ
金
二十五銭ヲ加フヘシ 一 弘前分局ヨリ隣局青森ヘノ,和文一音信料ハ
金
七銭欧文ハ
金
二十五銭ヲ払フヘシ 一 東京其他各分局ヨリ弘前ヘノ和文料
金
ハ青森ノ料
金
ニ,当時は、自由民権
運
動の高揚に伴い、電信事業が治安対策
上
の有力な手段として見なされ、普及していったのである
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・
上
方廻米の中止、,購入代
金
は在方・町方の御用
金
によって賄われた。,たとえば、五所川原村の郷士(ごうし)原庄右衛門は九月十日に
金
四〇〇両を代
金
に米四〇〇石を買い
上
げ、平井,しかし先述のとおり、冬は海が荒れて海
上
運
送が停止する時期であり、陸送による
運
搬も積雪のため大量の
運
送は,ようやく、
上
方・加賀から米が入ってきたのは翌年の春二月以降になってからのことであった。
通史編2(近世1)
(宝暦五年の米切手と標符(通帳))
「米標符」とされることもあるが、史料
上
確認できない。 ,左
上
の文字が同じ場合は、裏面の記載も同じである。,宝暦四年閏二月十五日、藩(調方役所)は江戸への「御国仕送」の実施に当たり、領内の富裕者から
金
銭を供出させ,そして、受け取った御用達から領内の富裕者に、この米切手が
金
銭供出の代わりとして与えられることになったのである,そして、大凶作に直面した藩は、より強力な経済統制・
金
融統制を実施することとし、標符の発行に踏み切ったのである
通史編5(近・現代2)
(連続する災害と東北振興政策)
連続する災害と東北振興政策
金
融恐慌の影響が去らない昭和六年(一九三一)、北海道と東北地方を中心にやませが,だが昭和の農村恐慌は、それ以
上
の惨劇を市や県にもたらした。 ,を立ち
上
げる旨発表した。,『東奥日報』は社長山田
金
次郎の指導のもとに、県内各地の凶作情報を伝え、救済・振興
運
動をまとめ
上
げるなど,』に見る東北振興
運
動」『メディア史研究』第一五号、二〇〇三年を参照)。
通史編5(近・現代2)
(弘前市の事業所の動向)
小売業 4,630 5,099 5,525 53.3 52.9 53.2 6.7 10.1 8.4
金
融,小売業が五三・二%と過半数を占め、次いでサービス業が二四・〇%で、この両者で民営事業所総数の四分の三以
上
を,・通信業三二四人、
金
融・保険業一四五人の減少である。 ,しているが、石油ショック以後の動向を全体的に見ると、昭和五十六年まで事業所数、従業者数ともに比較的順調に
上
昇,し、以後平成期にかけて
上
昇が止まったことがわかる。
通史編5(近・現代2)
(本県初の鉄道電化)
そして、昭和二十三年(一九四八)七月、本県最初の鉄道電化として弘前-津軽尾
上
間に電車が登場した。,さらに昭和二十五年七月一日には、津軽尾
上
と弘南黒石間の新路線五・七キロメートルの
運
輸営業も開始され、弘前市,尽力したのが当時の岩淵勉市長で、昭和二十一年十二月二十一日には第一回発起人会を開催し、翌年一月には陸
運
局,に認可申請、昭和二十三年五月七日認可、二十四年七月二十四日に弘前電気鉄道株式会社が設立された(資本
金
一,弘前市を経て北津軽郡板柳町までの路線と、弘前市から中津軽郡西目屋村までの路線をつくる予定であったが、資
金
が
通史編4(近・現代1)
(大同派の支配)
大同派の支配 県政界の再活性化は、明治二十一年の大同団結
運
動と無神経事件によってもたらされ、県下に多,が不利益になるので、県民は自由党たると改進党たると問わずその不当を鳴らして、各地に協議会を開いて反対
運
動,反対
運
動を東京で展開するのに、青森県から六十余人
上
京、弘前からは蒲田廣、樋口徳太郎、奈良誠之助、竹内半左衛門,、中津軽郡からは柳田治三郎、高杉
金
作、木村市五郎、村谷有秀らが
上
京した。,この
運
動は九十余日にして、三月四日衆議院にて修正案を一〇七対一二七で否決して幕を閉じた。
通史編5(近・現代2)
(争議の顛末)
昭和六年十月二十二日、青森地裁は電灯料
金
は契約に基づいており、経済事情に左右されるべきものでない。,料
金
不払いに対して送電拒否するのは当然とした。,昭和六年九月十八日満州事変が始まり、弘前の第八師団も大陸に出動、軍事色が濃厚となり、電灯争議を終結させようという気
運
が,この闘争は、表面
上
は同盟会の敗北だが、一般市民にアピールする問題を掲げて争議を大衆的に闘ったこと、市民,なお、私企業としての電力会社の営利主義が農山漁村の電化を怠るとか、無駄な経営費、高すぎる料
金
など、合理化
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
金
方収入における警備費の割合は、寛政九年以降、二、三年の例外を除いて一〇パーセント以
上
を占め、文化四年,石の登米より
運
賃差引 ㉑ 松本平八郎へ元利返済 29,508.75 11.61 ,ほかに江戸詰めの藩士への扶持米が六六二五石あり、この両者が江戸藩邸の
運
営費というべき性格のものであった,〇一〇石にも及び、藩邸の
運
営費をしのいでいる。 ,〇両、
金
方支出全体の一二・二〇パーセントに相当する額が計
上
されている。
通史編5(近・現代2)
(翼賛選挙)
太平洋戦争の緒戦の勝利で、東条英機内閣は政府に有利な政界刷新をねらい、事実
上
の推薦選挙とする方針を打ち,立候補者を推薦する青森県の地方協議会は東奥日報社社長山田
金
次郎を委員長とし、三市八郡から一四人の委員を,選出、弘前市と中郡からは鳴海康仲・三
上
直吉・藤田重太郎が選ばれた。,さらに下部に協力会をつくり、弘前市は神山隆文、伊藤
金
蔵、中郡は柳田保三が委員となった。,もっとも、号令により全国の投票率は八三%に
上
った。
通史編5(近・現代2)
(ストライキの諸相)
弘前では、昭和五年に、弘前キネマ館(新鍛冶町)で不払い賃
金
即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に,昭和七年春、非常時という時世で労働
運
動は逼塞(ひっそく)状態となった。,昭和八年、中津軽郡西目屋村川原平の津軽
金
山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃
金
値
上
げを要求してストライキ,に入り、八時間制と日給三~五銭の引き
上
げをかち取った。,の製材所閉鎖争議には社会大衆党県連(執行委員長中浦秀蔵、書記長岩淵謙二郎)が指導介入し、工場主が退職
金
を
通史編2(近世1)
(銀遣いへの変更と商人の活用)
銀遣いへの変更と商人の活用 藩は
上
方商人から大きな借
金
を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として,乳井貢ら御調方役所の認識にあったのは、江戸入用
金
が
上
方からの送
金
によって賄われていたことであった。,大坂廻米が始まって以来、蔵元(くらもと)との関係ができ、領内の
金
銀を
上
方(かみがた)に送って銭と替え、,つまり、江戸への送
金
も領内の銭遣いも
上
方銀主を通して行われており、
上
方銀主に支払う手数料・両替料の出費,そして同四年六月十日に足羽次郎三郎を惣御用達に任命し、同二十九日に御用達町人らを
運
送手伝に命じて、足羽
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