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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (諸役と運上)

諸役と運上 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、城下の家業は、鍛冶九一、銅屋二一、大工三九 / 諸役と運上
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

伏見作事板の運上と太閤蔵入地 豊臣政権にとって秋田氏領内の太閤蔵入地(豊臣政権の直轄地)は、伏見指月城,「秋田家文書」所収の文禄五年分の「於秋田御材木入用之帳」によれば、杉板の運上について「右之板隣郡之衆へ,、秋田実季らの大名を個人的に秀吉政権に直結させて杉板の運上を実現するのではなく、あくまでも「隣郡之衆」,津軽為信は、慶長元年には九〇間、慶長二年から四年までは一四五間の杉板を運上するよう下命されている。,なお、南部氏も秀吉から伏見作事板の運上を下命されている。 / 伏見作事板の運上と太閤蔵入地
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

伏見木幡山城の築城 秋田実季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,軍事動員することに成功し、政権の軍隊として編成することを実現していたが、この慶長元年からの伏見作事板の運上,この「御材木」は、伏見作事板のことであるが、この作事板運上の秀吉朱印状を受領するために南部信直は伏見へ,またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

④漁場の内を割合で与えられるというのは、漁場のなかでも運上金が異なるために、それを相応に割ることにして,、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町)領を与えられ、その漁場の運上金,分領体制によって、各藩に対して与えられることになった漁場の運上金および別段上納金の見込額をみると、津軽弘前藩,・盛岡藩へのそれと、仙台・秋田・庄内・会津藩のものとでは、運上金の額に著しい格差がある(表66)。,表66 分割分領6家へ支給する漁場運上金見込み(安政6年11月) 運 上 金 別段上納金 合   計
通史編3(近世2) ((二)食事)

(二)食事 全国的にいえば、町人には冥加(みょうが)・運上(うんじょう)(ともに商・工・運送等の営業者
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,らの奉行は、豊臣政権の集権化を推進する核になっており、秀吉は集権化にとって大きな意味を持つ伏見作事板運上
通史編2(近世1) (寛政律)

・人命・打擲(ちょうちゃく)(明律、闘殴)・盗賊・賄賂(明律、受贓(じゅそう))・田宅・倉庫・訴訟・運上,次に各則の規定は、大項目として人命・打擲・盗賊・賄賂・田宅・倉庫・訴訟・運上・雑・犯姦(はんかん)の一
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の地頭制)

年貢を地頭のいる鎌倉に運上する実務は、そうした地頭代が担ったのであり、鎌倉の地頭たちの屋敷には、こうした
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

おおたによしつぐ)の家臣と考えられる高橋次郎兵衛に「橋板」八二〇間を渡し、十一月五日付で秀吉からこの「橋板」運上,先、秋田実季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね)の用材運上
通史編2(近世1) (ロシアによるエトロフ襲撃事件)

同三年九月、フウォストフらはサハリン南部のクシュンコタンに上陸して米や酒を略奪したり、運上屋などの施設
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書
通史編2(近世1) (町役)

町役のほか、城下の主な商人たちは、藩が幕府から普請役を課せられるごとに、不時の運上や冥加金をたびたび賦課
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

長束は、文禄三年・文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状を秋田実季へ取り次いでおり、
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

アイヌらは、まずクナシリのトマリにある飛騨屋のクナシリ場所経営の中心施設、運上屋(うんじょうや)の襲撃,多くは飛騨屋によって現地の運上屋や番屋に派遣された支配人・通詞・番人といった出稼ぎ者であったが、飛騨屋手船
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵に必要な金や秋田杉運上
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても松前藩に運上金を納めなければならなかった(
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

酒造のほか、寛文六年(一六六六)には、小泊街道へ通じる「川」を渡る渡船の運上を免除して、交通の円滑化を
通史編2(近世1) (文化律)

また「寛政律」にみられた「明律」に基づく人命・打擲・盗賊・賄賂・田宅・倉庫・訴訟・運上・雑・犯姦の項目名
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

また、幕府による蝦夷地経営および幕府・東北諸藩による警衛でもたらされた会所や運上屋を通したアイヌ支配と
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

さて、城下の有力な商人たちには藩から臨時の運上(うんじょう)金や冥加(みょうが)金が賦課される場合があった
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは、すなわち伏見作事板の運上
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永二年(一六二五)、この年、津軽領内の総検地を実施し、また酒運上の徴収を開始する。
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